2024年2月7日水曜日

霜が降りていて

今朝は霜が降りるほど風が吹いていなかったので日差しが暖かかったです。

昨日、注文していた本が届くとメールが来ていたので書店に行くと
雪のために便が届いていないとのこと
今日も雪の影響が続いているみたいですね

首都高速道路 通行止め続く 雪を排除する作業 」(NHK)
 立て看板にお知らせ
鶴見新山リニューアルのお知らせ
明日から4月26日(金)まで鶴見新山は登れなくなります。
花博が開催されたのは1990年
老朽化に伴いリニューアル工事が各所で行なわれている。
朝ドラ「ブギウギ」第19週「東京ブギウギ」 (89)
いよいよ東京ブギウギが誕生しましたね。
羽鳥善一(服部良一)が楽譜を書きとめようとして飛び込んだ喫茶店が

文筆家の甲斐みのりさんと西荻窪・こけし屋店長に聞く」(なみじゃない、杉並!)

東京ブギウギを愛助(吉本穎右)は聞くことができなかったのですが
織田作之助も聞きたかったと思います
ポータブル蓄音機が奏でた名曲  高橋俊郎

 織田作之助は戦前から終戦直後の昭和を疾風のように駈け抜けた。
百編以上の小説のほか、シナリオや評論などの作品を書きまくり、映画や演劇、ラジオ番組など多才に活躍したが、その作品の多くに音楽が登場する。
織田作好みの音楽を背景にその作品を読むと、オダサク・ワールドがひろがる。
(『織田作之助の大阪』編者 オダサク倶楽部 平凡社 2013年)
…中略…

 松竹楽劇団「スウィング・アルバム」

 同じ昭和13年4月には、東京帝国劇場で服部良一による「スウィング・アルバム」を三回も観に行ったと日記に書いている。

  笠置シズ子のジャズソング、秋月美恵子のジャズとタップ、荒木陽と天草みどり、秋月のルンバトリオ、中川三郎のタップ、楽しく見られた。

 ジャズソングも相当に好んでいた。
道頓堀ジャズから音楽の道に入った服部良一は、作之助の生家のすぐ近く、谷町九丁目で育った。
作之助の五歳年長で、同じ東平野尋常小学校(現・生魂小学校)に通っていた。
道頓堀の出雲屋少年音楽隊に入隊したのは大正12年(1923)9月1日の関東大震災の日で、楽器は向いの今井楽器店(現うどんの今井)でサキソフォンを買った。
この今井楽器店が後に「木の都」の矢野名曲堂のモデルになった。
 矢野名曲堂

 愛妻一枝が昭和19年(1944)に病に倒れ、作之助は病床に付き添いながら「木の都」を書く。
そこにこんな一節がある。

  ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいったから、お暇な時に寄ってくれと娘さんの字らしかった。ボードレエルの「旅への誘い」をデュパルクの作曲でパンゼラが歌っている古いレコードであった。
 パリの詩人ボードレールの『旅への誘い』は、恋人の女優マリー・ドブランに捧げた詩篇である。

  いとしい子よ、わが妹よ/思ってごらん/かなたに行ってともに暮らすたのしさを/のどかに愛し/愛して死のう/君に似たあの国で

 パンゼラが朗々としたバリトンで耽美的に唄っているこのレコードは、ペリカン・ランチルームで聴いた苦い青春の想い出である。
 この歌曲を聴きながら読んでみると、「木の都」の最終章「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた」という場面を感じることができる。
 …中略…

 タンゴ「ラ・クンパルシータ」

 読売新聞に連載の「土曜夫人」を執筆するために、作之助は昭和21年(1946)11月10日から、東京・銀座二丁目の佐々木旅館に投宿していた。
そして12月5日未明、大喀血する。
 親友青山光二は『青春の賭け』の中で大喀血前夜の作之助の行動をつぶさに回想している。
 夜8時頃、青山が編集者と酒場「ルパン」で呑んでいると作之助が現れ、キャバレーを梯子した。
その路上で作之助が「ブンガワン・ソロ(インドネシアの大衆音楽)」を歌った。
「上海リル」を愛唱して「土曜夫人」の一場面に取り入れたり、まだ一般に流布されていない「ブンガワン・ソロ」にいち早く眼をつけて口ずさんだりしたのは、それらの曲の切なく胸に迫る流離・哀傷の情調が、作之助自身の作品の基調になっている情感と交わったからなのだろう。
 酒場「カサブランカ」に入った作之助は、アコーディオンの流しに「ラ・クンパルシータ」を注文し、インチキな身振りで踊った。
日頃から「軽音楽の大家」を自称していた作之助は、酒場の女に「どや、このステップ、脚の引き方、到底ありきたりでないやろ」と自慢したそうだ。
 都電の終電近い時刻に、ブンガワン・ソロを歌いながら、佐々木旅館に帰って間もなく、畳の上に大喀血し、東京病院に入院した。
 昭和21年4月から京都日日新聞に連載した「それでも私は行く」や同年8月から読売新聞に連載した「土曜夫人」は、それぞれ京都のキャバレーを舞台にしているが、アルゼンチンタンゴの「ラ・クンパルシータ」が使われている。
昭和19年8月に逝った愛妻一枝の遺髪を、自分の死の床まで肌身離さず身に着けていた作之助にとって、「ラ・クンパルシータ」は一枝の想い出そのものだった。
 (たかはし・としろう 大阪市立中央図書館副館長、オダサク倶楽部)
(『織田作之助の大阪』編者 オダサク倶楽部 平凡社 2013年)
  若いときにルパンを一度訪ねたことがあります。
林忠彦が織田作之助や太宰治を撮ったという椅子に座らせてもらいました。
店の方にお聞きすると太宰治や織田作之助のファンがよく来店するそうです。

昔噺「銀座・ルパン」