2024年2月26日月曜日

2月26日

青空が見えていると思っているとパラパラと雨が降り出し風も冷たかった
それでも気温は平年並みだとか
寒暖差が大きいので平年並みといわれても寒さが厳しい。

午後4時前に買い物に出かけるとフロントガラスに当る雨の中に
ピョンと跳ねるものがあったので霙になっていたのかな?
 2月26日 
昭和11年(1936) 皇道派青年将校、兵士1400余人を率いて反乱、首相官邸などを襲撃・占拠、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らを殺害、国家改造を要求(2・26事件)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

暴力は連鎖し破局へと至った。昭和の「暗黒の歴史」から何を学ぶべきか。〟(岡本敦史 『テロルの昭和史』保坂正康 講談社)
  二・二六事変とその後

 選挙の結果に少し気をよくして、来るべき特別議会ではうんと盛返し運動をやろうと計画していた所へ、二・二六事変が突発した。
 尤も此度の事変は、昭和6年の春の××革命以来プスプス燻っていたのが爆発したので、当然来るべきものが来たのだといえようが、扨(さて)、直面すると流石(さすが)に驚かされ、不安、焦燥の幾日かを過ごしたのであった。
(『市川房枝随想集2 野中の一本杉』新宿書房 昭和56年)
 私が事変を知ったのは、十二時頃で、事務所へ出て来てからであったが、四谷見附で一切の交通が禁じられているのに出会ったので、何事かあったのだなとの予感はした。
 先ず情報を集めることが第一だと考え、各方面と電話で連絡をとり、叛軍の守備している半蔵門から九段をへて馬場先門、日比谷附近を車でみてあるいた。
夜になってからも、もう一度行ける所迄行ってみた。
 二十七日も二十八日も、仕事が手につかないまま、情報を得る事と見聞とに暮した。
二十八日午後と夕方とは、叛軍の本拠であった幸楽、山王ホテル前に行き、その活動振りをまのあたりにみた。
 事務所は立退区域に這入っていなかったが、何しろ事変の中心地に近いので、万一の場合を慮り、二十七日の夜、重要書類といったものは、一応安全な場所に持出しをした。
 事変は幸い、兵火を交えずに二十九日正午鎮定し、一先(ひとまず)ホッとしたのであったが、然し引続いての後継内閣の問題で、また幾日かを不安焦慮の中に暮した。
 広田外相に大命が降下した時は少々意外だったが、私共は、氏の外交政策に或程度の信頼をかけていたので、幾分安堵の胸をなで下したのであった。
 然し続く軍部との折衝でまたハラハラし、手に汗を握って凝視したといってもいい程、気を揉んだのであった。
 此度の事変での私の第一の心配は、軍政府が樹立されはしないかという点にあった。
それは幸い、軍自身その意志がないことを明示したし、曲りなりにも広田内閣が成立する事によって辛うじて喰い止める事が出来たのであった。
 尤も実質的には軍政府と大して遠くないもので、其の圧力を愈々(いよいよ)加重され、軍の賛成なしには、何事も出来ない実情にある事は、事実の示している通りである。
 これは政党が全く無力である現状に於ては、已むを得ないといえばいえようが、私共国民としては、少なからず不満である。
殊に総選挙の直後であるだけに、その感が深い。
 去る二月二十日に行なわれた総選挙に際しては、「聖旨奉答此の一票」をスローガンとし、所謂(いわゆる)選挙粛正運動によって大政翼賛の実をあげることに努めたのであった。
 その結果は勿論理想にはまだ遠いが、然し今迄になく国民の関心を喚起し、投票によって可成の程度迄意志を表示したのであった。
 然るに、この民意は此度の内閣の組織及政府の決定に際して、全く顧みられていない。
××を持てる軍部のみがこれを左右し、その決定権を握っているようである。
 これでは何のための選挙○○<二字不明>であり、何のための選挙粛正ぞやといい度いのである。
 殊に昨日迄、明治天皇の聖旨として高調されて来た議会政治及選挙粛正問題を、政策の中にも、地方長官への訓示中にも、一言も言及していないのは、どうした事であろうか。
 これでは国民は、不安を感じ、その去就に迷わざるを得なくなるであろう。
 各方面に亙っての現状の改革は必要である。
然しそれは国民生活の安定――半数の婦人と子供を含めての生活の安定が根本でなくてはならない。
 然してこれを実現するための手段は、××による専制ファッショ政治であってはならない。
どこ迄も諒解主義に立つ平和的な議会政治の確立によってなされなければならないと信じている。
 これは理論的な主張というよりも、婦人の立場からの希(ねが)い、祈りである。
 事変後、獲得同盟から婦選及他の婦人問題について全代議士に問い合わせを差出したのであるが、その回答をみると、予想以上に婦選賛成者が多い。
殊に某代議士は「社会の秩序と平和を維持するため、婦人に参政権を与えよ」と書いている。
 この意味での賛成者が婦人側にも増加している事は確かで、先日私共は、今迄この問題にそれ程深い関心を持っていなかった某知名婦人創作家から、激励されたのであった。
 尚この昭和十一年は、東京神奈川の府県会議員選挙を初め、全国の主なる都市及半数の町村会議員の選挙が行われる筈なので、その選挙を好機に、自治新興の精神を喚起すると共に、その成果ををあげる事に努めたいと考えている。
 自治の達成こそは、議会政治の礎をなすものである。  (三月三十日)
 ――昭和11年(1936)・『女性展望』4月号
(『市川房枝随想集2 野中の一本杉』新宿書房 昭和56年)
昭和11年に発表されたので伏せ字(「××」)が見られます。
「昭和6年の春の××革命」は、保阪正康さんの本を紹介した岡本敦史さんのコラムにある「3月事件」のことだと思います。

1931(昭和)年3月 桜会の一部将校・大川周明ら、軍部クーデタによる宇垣内閣樹立を企図、未遂(3月事件)。
(『新版 日本史年表(旧版)』歴史学研究会 岩波書店 1984年)


二・二六事件では反乱部隊の兵卒として、警視庁占拠に動員された」のが五代目柳家小さん
柳家小さんの「噺家は貧乏が出来なきゃダメ」〟(文藝春秋 2012年7月30日)

渡辺和子シスターは、9歳の頃、目の前で父親が殺害されるのを目撃しています。

渡辺和子(わたなべかずこ)ノートルダム清心学園元理事長」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
昨日は、冷たい雨が降っていたので散歩を休み、掃除をしていました。
明日、明後日と通院です。
木・金曜日は、雨が降る予報なので雨が降れば散歩を休みます。

画像は、メジロですが…

第1章 ビル街の鳥―ヒヨドリ 大都会に適応した林の鳥 都会進出の歴史」つづき

 1970年代当時、筆者は墨田区の都立両国高校に勤務していたが、校舎の2階の窓ガラス越しにヒヨドリが営巣し、子育ての様子が丸見えであったことを思い出す。
大手町や丸の内などの交通量の多い交差点の街路樹などでも繁殖したり、港区のマンションのベランダでは、手の届くようなところの木の枝で子育てに成功している。
 ヒヨドリの世界に何が起こったのか、そしてなぜ都会の繁華街の街路樹などで繁殖するようになったのであろうか。
その真相はいまだに謎のままである。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)