2024年2月3日土曜日

節分

曇り空で日差しがない…
夜には雨や雪が降るかも…

今朝のニュースで
2月3日は節分「恵方巻き」にも注意が必要〟(NHK 2月2日)
かぶりつきたいけど歯が…(°°;)

恵方巻きについては、
節分「丸かぶり寿司」の風習〟(大阪歴史博物館)
奈良の金峯山寺では「福は内、鬼も内」
そして成田山不動山では「福は内」だけだとか

大阪 寝屋川 成田山不動尊で豆まき 「ブギウギ」出演者も〟(関西NHK)

 節分
(せつぶん)

 立春の前の日を節分といいます。
今の暦でいえば、2月3日か4日がその日に当たります。
 古くは四季の変り目の日、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前の日をすべて節分といったようです。
古い文献によれば、この四つの節分の日にそれぞれ行事が行なわれていました。
それが今日のように立春の前の日だけになったのは、その日が冬から春に移り変わる大事な折り目の日であったからではないでしょうか。
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
 節分には豆をまいて鬼を追い払う行事が行なわれます。
これを追儺(ついな)とか鬼やらいといっていますが、上田市別所の北向観音とか、下諏訪町の諏訪大社下社の秋宮とか、長野市の善光寺などでは、パレードをしたり、有名な芸能人を年男に招いたりしてはなやかな豆まきが行なわれ、厄払いをするといって大勢の人々が参拝に来ます。
 また民間でもこの日の夕方、それぞれ家々で豆まきをしてきました。
松本では「恵比須大黒福の神、福は内、鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまいていくと、その後からすりばちをかつぎ、すりこぎを持った者が「ごもっとも」「ごもっとも」といいながらついて歩いたといいます。
長野市でもこれと同じことをしたといいますので、こういった風習はかなり広く分布していたのかも知れません。
 節分の日にはやつかがしということも行なわれました。
下伊那郡天竜村坂部は冬祭りで有名なところですが、ここではこの日、クロモンジの木の先へ魚の頭を差し、これを松葉でいぶしてから家の入り口などに差したといいます。
これをやつかがしなどといっていますが、やはり鬼の入るのを防ぐ方法であったのでしょう。
 また坂部ではこの日豆うらないをしました。
部屋の中へまいた豆を十二拾ってきて、それをいろりの灰の中へ入れて焼き、その焼け具合によってその年の天候をうらなうわけです。
 このように民間では節分の日に、豆まき、やつかがし、豆うらないなどが行なわれましたが、それらは春の始まる日に当たって、災いを防ぎ、家族の者が皆安らかに暮らせるように願うための行事だったのではないでしょうか。
   (浅川欽一<民俗研究家>)
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
NHK映像ファイル あの人に会いたい「竹山洋(脚本家)
再放送の予定や見逃し配信がないようなので

竹山洋(たけやまよう) 脚本家」(NHKアーカイブス)

感情が入ってやれる芝居を書くというのが我々の1つの義務だと思っているわけですね。

脚本というのは、人生の辛酸というんですかね
そういうことをいろいろ味わった人がお書きになる方がいいものが書ける。


どうしても死に物狂いでも書くわけです。
作家は書いてなんぼだという
書く場所があってありがたいということですから。
朝ドラ「ブギウギ」第18週「あんたと一緒に生きるで」 (86)
を見ていると笠置シヅ子さんの壮絶な人生をそのまま史実通りに描くのではなく、
願っても叶わなかったことを脚本家や演出家などが描いているように思います。

愛助の手紙に
「……生まれてくる子が 男の子やったら名前は カブト(兜?)にしてください。僕みたいに弱い子になってほしないからその名前や。生まれてくるんが、女の子やったら名前は 愛子にしてください。ごめんな 僕の字を付けたわ。愛助の愛は 愛にあふれた子になるように付けてもろた字や。……」

女の子でよかったですね!
男の子だったらカブトですか……
強い子というなら「」でもよかったのでは(^_-)
笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』には、
吉本頴右(えいすけ)の名前から「ヱイ子」、
笠置シヅ子の本名亀井静子から「静男」と名づけることが遺言として伝えられています。

「……男の子やったら静男。女の子やったらヱイ子と名づけるのが御遺言だす。男は女親に、女は男親に似た方が倖せなると誰かに聞きはってのことらしい。……」
第十三章 夜来香ラプソディー」つづき

 リサイタルは1945年(昭和20年)5月、静安寺路の国際飯店のならび、大光明大戯院で三日間、昼夜2回の公演で行なわれた。
上海一の豪華な劇場で、赤いビロードの背もたれのあるデラックスな座席の数は二千。
全部が指定席である。
 日本の敗色が濃くなってきた時期だった。
川喜多さんも中川中尉も、李香蘭が日本人であると知ったら中国人は聴きにこないだろうとハラハラしていた。
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
 蓋(ふた)をあけてみると、連日満員、新聞の批評も好評だった。
切符は売りきれて3倍のプレミアムがついた。
劇場側から引きつづき1週間の続演を要望されたが、私はノドがつぶれるおそれがあったのでことわった。
中川中尉ら報道部の調べによると、聴衆の90パーセントまで中国人と租界に住む外国人(白人)だった。
服部さんは、「音楽に国境はない、とうことが実感としてわかった。音符は世界共通の言葉だ」としみじみ語ったものである。
 リサイタルは三部構成になっていた。
第一部が「東西歌曲集」で、「荒城の月」「庭の千草」「カチューシャ」「黒い瞳」「乾杯の歌」「メリー・ウイドー」など日本や欧米の歌曲および民謡。
第二部が「中国歌曲集」で、その当時中国ではやっていた「四季歌」「木蘭従軍」「薔薇処々開」「売糖歌」など。
第一部と第二部は、中国人の作曲家・陳歌辛氏がオーケストラを指揮した。
 そして第三部が「夜来香幻想曲」だった。
看板やプログラムに書かれた題名とは別に、私たちは「イエライシャン・ラプソディー」ないし「イエライシャン・ファンタジー」と呼んでいた。
 日劇七まわり半事件のときもそうだったが、私自身は終始、舞台の上で夢中になっていたので暗闇の客席の反応は音でしかつかめない。
また服部さんも観客に背をむけてオーケストラ・ボックスでタクトを振っていたので、背中でしか反響を感じられない。
けれど、川喜多、野口、辻さんらの回想を総合すると、熱狂と興奮のファンタジーだったようである。
 第三部開演のベルがなって客席が暗闇の中で静まり、聴衆は緞帳(どんちょう)が上がるのを待っている。
 と、遠く、カーテンの彼方から、低い声で「イェ・ライ・シャーン」と長く尾を引くメロディーが呼びかける。
しばらくして、声は少し高くなり、もう一度「イェ・ライ・シャーン……」の一節――。
 すると、服部さんのタクトが振られて、静かに「夜来香」の前奏が流れだした。
オーケストラが低く奏でるあいだに、するすると緞帳が上がり、百人近いオーケストラ前に、真白な中国服を着た私が進みでる。
コロラチュラのカデンツァで独唱。
一節うたうごとに、そのメロディーをフル・オーケストラが追いかけ、ソロ独唱と伴奏が掛けあいの輪唱曲のように交互にくりかえされて、高音部まで高まると、改めて歌詞の冒頭部から例の軽快なスロー・ルンバのメロディーが流れだした。
「わあ!」という歓声がわき起こり、曲の終りが近づくと聴衆はステージの下まで押しかけてきた。
 オーケストラが間奏を演じているあいだに、あわただしく青い布地に銀の縁どりで鶯(うぐいす)の模様をあしらった中国服に着がえをし、夜来香の花束を入れた白い花籠をかかえた私が登場。
今度の曲はフル・オーケストラのひかえめな演奏が流れる中で、私の独唱と胡弓の音が掛けあう民謡の「売夜来香」(夜来香の花を召しませ)。
黎錦光氏は、この「売夜来香」と、もう一つの古歌をモチーフに「夜来香」を作曲したというが、伝統的な中国メロディーと西洋風のスイング調との差はあるもののメロディーの美しさにかわりはない。
「売糖歌」に似た物悲しい旋律で胡弓の忍び音(ね)に似あった情緒をかもしだしている。
「夜来香の花は美しく、夜の闇にほの白く浮かび、かぐわしい香りを放っているが、その色も香りもやがては消え移ろっていく。いまのうちに楽しみましょう。花の美しさを、花の香りを。いまのうちにお買いください。夜来香の花を」
 歌詞の途中に、短いセリフが入る。
「夜来香はいかが」と呼びかけるたびに、数人の観客が誘われるようにして舞台に上がってきた。
私は、一瞬ギクッとしたが、そのままうたいつづけ、アドリブで一輪ずつ花を手わたし、会釈した。
 舞台には色とりどりのライトが四方八方から降り注ぎ、オーケストラのうちコンボ・スタイルのパートがふたたびルンバのリズムで「夜来香」を奏で、私が赤い中国服でステップを踏みながらうたい終わると、今度は、弦楽器を中心としたワルツのメロディー。
優雅な「夜来香円舞曲」のつぎは躍動の「夜来香ブギウギ」。
 最後のブギウギになると、観客もリズムに合わせて体を動かしている。
私自身、そのリズムが、ブギウギであると知ったのは、リサイタルが終わってかなりたってからのことだった。
 野口さんによると、アメリカでは古くからブギウギのリズムが演奏されていたが、ポピュラーの中に本格的に取りいれられたのは1930年(昭和5年)代後半から。
東洋のジャズのメッカ、上海でも1940年ごろからはやりはじめたが、もちろん日本には入ってきていなかった。
 服部さんの打明け話によれば、かねてからこの八拍(エイトビート)の躍動するリズムに興味を抱き、「ビューグル・コール・ブギウギ」という楽譜を入手して〝敵性音楽〟の新リズムを研究、それとさとられないように日本の音楽に取りいれたいと思っていたが、その実験を「夜来香ラプソディー」の中ではじめて試みたのだった。
「河村支店長宅の応接間で練習したときに、このブギのメロディーにさしかかると、お尻(しり)をふりながらしきに首を傾けていた李香蘭の顔を、いまでも思い出すよ」と服部さんはいたずらっぽく言われる。
私が「なんだかうたいにくい。お尻がムズムズしてきて、じっと立ったままではうたえない」と苦情を言うのをきいて、服部さんは胸中で、「しめた」と会心の笑みをもらしたという。
「それじゃ〝気を付け〟の姿勢ではなく、リズムのとおりに体を自由に動かしながらうたってごらん」
 服部さんは、上海で私のお尻を使って実験したブギのリズムを日本に帰ってから戦後の歌謡ジャズにいかして、ブギウギ・ブームに火をつけたのだった。
笠置シヅ子さんが日劇の舞台せましいとうたい踊りまくって爆発的にヒットした「東京ブギウギ」をはじめ「買い物ブギ」「ジャングル・ブギ」「三味線ブギ」……。
 …後略…
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ビワの花にメジロがやってきていました。

二章 ヒマラヤザクラを求めネパールへ 19 サクラの来た道の仮説」つづき

 秋に咲くヒマラヤザクラの話は、実は古い文献に紹介済みでした。
しかし、それは「珍しいサクラもあるものだ……」と軽く見過ごし、ネパールのサクラと日本のサクラとのつながりについての実証を深く追求することはありませんでした。
そこで、ビレンドラ国王の厚意に報いるため日本のサクラとの交雑やつぎ木実験などを繰り返してみました。
 サクラ保存林に収集された多くのサクラの品種に対して、わたしの関わってきた幾つかの森林植物の知見、すなわち日本列島内やマレーシアの熱帯林で得た種の分化や進化のセオリーは、サクラにも直結しているように思われました。
 サクラは自然発生的に日本列島に現れたのではない!
では日本のサクラは「どこから来たのか?」という疑問と闘うことが「サクラの来た道」という仮説に挑戦することだと自覚しました。
…つづく…
(『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜―』染郷正孝 信山社 2000年)