2024年2月13日火曜日

寒暖差が…

朝は寒さを感じたのに
歩いていると汗をかきそうになりました。
午後は、さらに気温が上がり、明日は4月並みの気温だとか…

季節外れの暖かさに さらに気温上がる予想 雪崩などに注意を」(NHK)
第八章 日劇七まわり半事件」つづき

 …前略…

 上野勝教(かつのり)さん指揮の東宝管弦楽団が序曲の「いとしあの星」を奏でるあいだ、幕はおりたままである。
私は紫のビロードの中国服の上から白いケープをかぶり、舞台中央の銀色の馬車に乗って暗闇の中で待っていた。
前奏が終わりに近づくとするすると幕があがり、スポットライトが一筋、私めがけて発射される。
その輪がひろがり、馬車の中で立ちあがった私の姿が光の中に浮かびあがった。
ワーッという劇場をゆるがす大歓声が起こった。
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
 鈴の音にのって「馬車は行く行く、夕風に」と私は笑顔をたやさずにうたいながらも、あまりに熱狂的な反響に、頭がカーッとしてしまった。
間奏のあいだ、馬車から降りてステージの前方に歩き出すと、拍手。
鈴の音が消えてリフレーンで頭を下げるとまた拍手。
そして舞台が暗転して幕がおりると、どよめきがやみ、異常な静けさが訪れる。
 ステージの下手で素早く衣裳(いしょう)をかえた私が、舞台中央の芭蕉(ばしょう)の葉の下で、大きな羽扇で顔をかくして、また暗闇の中で待っている。
むせぶような胡弓の音がしだいに大きくなり、それにオーケストラの伴奏が加わって「蘇州夜曲」の前奏がはじまった。
スポットライトが顔をかくした扇にあたる。
その扇から顔をのぞかせながら、「君がみ胸に抱かれて聞くは」とうたいはじめる。
観客席はどっとどよめき、拍手がおこる。
けれどすぐさま、また信じられないように静まりかえる。
私がポーズをかえるたびに拍手がまきおこるのである。
 こうした一挙手一投足の振りつけは、すべて白井鐵造氏の指導だった。
私は指示どおりに動き、うたっていたにすぎない。
「蘇州夜曲」が終わり、舞台のすそに引っこむと、児玉さんが、心配そうに待っていた。
 観客の興奮は、最後の歌までかわらなかった。
「支那の夜」では、同名の映画のシーンを再現して、ボロ服をまとった中国少女が日本人につきとばされて舞台に転び出てくる。
少女は見えない日本人に中国語で悪態を長々とついて、やがて立ちあがり、うなだれた姿勢でうたいはじめる。
そして長いバイオリンの前奏中に舞台はまわり、つぎの歌がはじまったときには、さきほどのボロ服とはうってかわって豪華な中国服姿で登場する趣向である。
「紅い睡蓮」のときには赤い花もようのチャイナドレスに着がえ、簡単な中国式の踊りをおどった。
 つづいてシャンソンの甘い歌では、白いイブニングドレスを着て黒いグランドピアノにもたれかかり、ピアノ伴奏とかけあいの調子で一番を「パルレ・モア・ダムール……」とフランス語で、二番を「聞かせてよ、優しい愛の言葉」と日本語でうたった。
 そして、これも白井演出だが、ピアノの間奏がはじまると、セリフで観客にむかって「なぜ黙っていらっしゃるの? どうして何も言ってくださらないの」と甘えるように問いかける。
 そして、あらためて「聞かせてよ、優しい愛の言葉」とうたいだす。
 最後が前日までレッスンを受けた歌劇『椿姫』から「乾杯の唄」だった。
このときは、ワインレッドのイブニングドレスを着た。
 私の独唱のあとに東宝声楽隊のコーラスが加わった。
すると観客は総立ちになり、腕を組み、期せずして劇場をゆるがす大合唱となった。
 デイアナ・ダービンの『オーケストラの少女』が大ヒットしていたこともあって皆、よく知っていたのだろう。
 この「乾杯の唄」をフィナーレに、三浦寛先生のお弟子さんの少女から花束をもらってショウは終わるのだが、児玉さんが抱きかかえるようにして細い階段を降りて楽屋にもどると、スタッフや裏方さんのほかに警察官が加わっていて、足の踏み場もなかった。
「消防車が出動した」とか「騎馬警官が群衆を追い散らしている」などの情報が乱れとんでいるというが、私には何のことやら皆目見当もつかない。
 いずれにしても劇場の外は非常に混雑しているらしく危険なので、外には一歩も出ずに、地下の楽屋にとじこもったまま三度の舞台をつとめた。
 三回目の舞台が終わったのは午後七時だった。
長い一日がやっと終わった。
私はすっかり疲れ、夕食よりもとにかくホテルにもどってベッドに横になりたかった。
幸い帝国ホテルは歩いても十分の距離である。
外套をひっかけて楽屋から出ていこうとすると児玉さんが血相をかえて、「とんでもない。ノコノコ出ていったらファンにもみくちゃにされるか、新聞記者にかこまれて大変なことになる」ととめた。
 なんでも日劇のとなりの朝日新聞社の車を何台もこわされたのを憤慨して、李香蘭・日本人説をすっぱぬくため単独インタビューを申し入れてきたという。
東宝はそれをおそれて、私を新聞記者に会わせたくないらしい。
李香蘭を新聞記者の眼から隠すこと――それがその日の児玉さんの仕事だった。
 児玉さんは楽屋の衣装ダンスの中から汚ない外套を取りだして、私の毛皮の外套の上に頭からかぶせると、まるで刑事が犯人を護送する要領で、私を奈落(ならく)のほうへ引っぱっていった。
 奈落から上のほうへぬける非常バシゴがある。
児玉さんは横わきに私をだきかかえるようにして、垂直の鉄バシゴをはいのぼり、いったん踊り場のような場所に出た。
それから今度は反対側のハシゴを伝わって下へおりた。
私は高所恐怖症なので、「いやだ、こわい」と叫び、児玉さんを困らせた。
 私たちは、ふだんは使っていない非常口に行きつき、その出口からようやく脱出した。
日劇の周囲には、夜だというのにまだおおぜいの人がひしめいていて、警官が交通整理をしていた。
私たちは帝国ホテルまでの〝逃避行〟に成功した。
児玉さんは表玄関から入らずに、あらかじめ打ちあわせてあったのか、前日までとは別の部屋に入った。
「この部屋から一歩も出てはいけません。これからは当分この部屋で食事をとってください。用事があれば連絡は電話で。疲れたでしょう、早くおやすみ」
 児玉さんも混乱の一日だったので、興奮して、疲れているようだった。 

…後略…

(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)

この自叙伝は、現在品切れになっています。
朝ドラ「ブギウギ」が放送されて笠置シヅ子さんや服部良一さん、
淡谷のり子さんの本が復刊したりしているので、この本も再版しないかな…
今朝の父の一枚です(^^)/

 ジョウビタキ
  ✤日本初の繁殖記録


 日本では、山に初雪のたよりが聞かれる初冬のことに渡来し、各地で越冬し、再び春になると北国に帰っていく〝冬鳥〟である。
繁殖は、サハリンや中国からバイカル湖周辺などの地域で行なわれ、日本では繁殖していないと思われていた。
ところが、1983年6月、北海道の大雪山のふもとにある糠平(ぬかひら)で5羽のヒナが巣立ちに成功し、日本で初めての繁殖記録となった。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)