2024年1月8日月曜日

成人の日

公園に着くと晴着姿の娘さんを母親がスマホで撮影していました。
晴れてよかったですね。
以前は、20歳が成人でしたが、18歳に引き下げられました。

18歳から“大人”に!成年年齢引下げで変わること、変わらないこと。」(政府広報オンライン)
20歳から成人として見なされるようになったのは、明治になってから
法律の中での"大人"は何歳?」(参議院法制局)
それ以前は、

第3章 人生の節目に現れる神仏
 (3)若者組と娘組
「一人前」という基準


 武家社会においては、元服(げんぷく)式があった。
 15歳前後にそれを行うのが通例であった。
成人儀礼であり、それによって一人前になるとした。
 それを烏帽子(えぼし)祝いともいったのは、さらに古く、烏帽子を冠してつとめる公家社会での基準を踏襲してのことであろう。
 それは、民間社会にも伝わり、15歳のころをもっての成人儀礼が生じた。
ただ、地方によって行事日やその内容が違っていて統一されたものではなかった。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
 たとえば、京都を中心には、ヨボシギという祝いがあった。
烏帽子が訛(なま)ったヨボシであろうが、実際に烏帽子を冠する行事であった。
また、中国地方から北九州にかけては、ヘコイワイとかフンドシイワイというところが多かった。
ヘコ(帯)とかフンドシ(褌)を締めることになったからであろう。
 全国的にみると、若者組に加入するのが同時に成人として認知される。そうした事例が多かった。
それについては、後述する。
 現在(いま)は、成人式である。
満二〇歳の成人式が隅々まで認知されているが、これは、昭和23(1948)年の「国民の祝日に関する法律」の制定にともなってのことである。
歴史上では、新しい基準といわなくてはならない。
 戦前(第二次大戦前)までは、徴兵検査が成人儀礼にあたる。
日本の徴兵制は、フランスの制度を範とした、とされる。
明治6(1873)年にはじまり、昭和20(1945)年の終戦まで続いた。
その徴兵適齢が満二〇歳とされたのである。
 徴兵検査、それに続く軍事訓練は、国民に共通の儀礼や言葉づかいを広めることになった。
それまでの幕藩体制は、二百数十の国(藩)が分散してそれぞれのしきたりにしたがっていた。
身分や作法を厳しく管理、維持したのは、武家社会にかぎったことであったといってよい。
それが、明治の政府による皇国史観や軍国教育によって、全国が一律に作動するようになったのである。
 学校教育もそうであった。
 日本で小学校教育が本格化するのは、明治10年代である。
明治14(1881)年に「小学校教則綱領」(文部省達)が定まった。
注目すべきは、そのなかに「修身」がとり入れられていることである。
翌年には、『小学諸礼式』(近藤瓶城<へいじょう>編、原題では「学」と「礼」が旧字)が出版されている。
それで、「おじぎ」が日本人共有の礼儀作法として広まった、といってもよかろう。
 なお、各家では、家訓に準ずるしきたりがなお守られてもいた。
各地の地縁社会では、さまざまなしきたりを伝えてもいた。
そのことも事実である。
しかし、明治という時代には、旧慣で後退するものも多かった。
若者組や娘組もそうであった。
 そこに、学校教育と軍隊教育がはたした影響が大きかった。
それは、全国的に及ぶものであった。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
粋人」つづき

 地獄の半日は、龍宮の百年千年。
うで卵のげつぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでゐるだらう。」と、いまは、わが嘘にみづから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰つてくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願した。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のお膳の数の子を二つ三つ口にはふり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりませう。」と言つた。
(『太宰治全集第六巻』筑摩書房 昭和51年)
  客は眼をつぶつても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻の底にまき込まれるやうな気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀、と思はずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにゐた。」と、丁稚らしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいぢやないか。てつきり、この界隈と見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただかうとは申しませんが、かうしてのんきさうに遊ぶくらゐのお金があつたら、少しはこつちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言つて、書附けを出し、寝てゐるのを引起して、詰め寄つて何やら小声で談判ひとしきりの後、財布の小粒銀ありつたけ、それに玉虫色のお羽織、白柄の脇差、着物までも脱がせて、若衆二人それぞれ風呂敷に包んで、
「あとのお勘定は正月五日までに。」と言ひ捨て、いそがしさうに立ち去つた。
 粋人は、下着一枚の奇妙な恰好で、気味わるくにやりと笑ひ、
「どうもね、友人から泣きつかれて、判を押してやつたが、その友人が破産したとやら、こちらまで、とんだ迷惑。金を貸すとも、判は押すな、とはここのところだ。とかく、大晦日には、思はぬ事がしゆつたい致す。この姿では、外へも出られぬ。暗くなるまで、ここで一眠りさせていただきませう。」と、これまたつらい狸寝入り、陰陽、陰陽と念じて、わが家の女房と全く同様の、死んだ振りの形となつた。
 台所では、婆と蕾が、「馬鹿といふのは、まだ少し脈のある人の事」と話合つて大笑ひである。
とかく昔の浪花あたり、このやうな粋人とおそろしい茶屋が多かつたと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであつた古老の述懐。
   (胸算用、巻二の二、訛言も只は聞かぬ宿)
(『太宰治全集第六巻』筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ハクセキレイが氷の上を歩いていたそうです。
私ならツルンと滑って転んでしまうなぁ…

第1章 ビル街の鳥――ハクセキレイ
 ✤ネオン街で眠る つづき


 ハクセキレイが明るい都心で夜を過ごすのは、都会の繁華街が安全で温かいためであろう。
都心部は、周辺部よりも気温が高いということはよく知られていることだ。
また、照明で明るい通りでは、ハクセキレイを襲う天敵にしてみれば、自分の姿を発見されやすいので、接近しづらいにちがいない。
人の世界でも、真っ暗な夜道よりも、街灯のついた明るい道のほうが安全であるのと同じであろう。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)