2024年1月14日日曜日

お詣り

遠くに見える山には雪が積もっているみたいです。
現在、南総門の修理が行なわれています。
覆いに写っている影が、
二つの龍が向い合って相談しているみたいに見えました(^_-)
参拝客の多い元旦などを避けてお詣りにきましたが、
日曜日なのでやはりお詣りの人が多かったです。
 金葉和歌集巻第五 賀部
  郁芳門院(いくはうもんゐん)の根合(ねあはせ)に、祝(いはひ)の心をよめる 六条右大臣(ろくでううだいじん)

306 万代(よろづよ)はまかせたるべし石清水(いわしみづ)ながき流(なが)れを君(きみ)によそへて

君の万代の栄えは、石清水の神にまかせておくのがよいだろう。
その清水のいにしえから続く流れを、君になぞらえて。
(『金葉和歌集』川村晃生他校注 岩波文庫 2023年)
○石清水 山城国。石清水八幡宮。京都市八幡市。
○君 根合の主催者である郁芳門院媞子。
○よそへて 関連づける。石清水の永続性を君に反映させる。
▽石清水での賀歌はすでに「石清水まつかげたかく影見えてたゆべくもあらず万代までに」(貫之集)などがある。
石清水八幡宮の古い歴史を基として詠む。
郁芳門院(いくほうもんいん) 媞子内親王。承保3年(1076)生。嘉保3年(1096)8月7日没。21歳。
白河天皇皇女。母は中宮賢子。
承暦2年(1078)伊勢斎宮、応徳元年(1084)退下。
堀河天皇の准母となり中宮と尊称された。
寛治7年(1093)院号を賜わる。
白河院に鍾愛され、郁芳門院根合を主宰する他、院とともに歌壇の中心を担った。
(『金葉和歌集』川村晃生他校注 岩波文庫 2023年)
ねあはせ【根合】物合せの一。
平安時代、五月五日の端午の節句に行なわれた遊戯。
左右に分かれて菖蒲(しょうぶ)の根の長さを競い、また、歌をよみ添えたりして勝負をきめた。
菖蒲合せ。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)
第四章 八幡大菩薩の宮寺――石清水八幡宮
 八幡信仰の源流

 お稲荷さんと並んで、全国的に広く信仰されているのが八幡宮です。
独立した宗教法人の神社では、もっとも多いといわれています。
ことに九州から中国地方にかけては、八幡宮が特にたくさん分布しています。
京都に八幡信仰が根づくのは、洛南の山城国綴喜郡(今は八幡<やわた>市)の男山に八幡神が勧請されてから後のことです。
この社は朝廷とのかかわりが深いばかりでなく、歴史上では中世武士団の守護神の展開においても興味深い神社です。
(『京の社―神と仏の千三百年』岡田精司 ちくま学芸文庫 2022年)
 石清水八幡宮や武士の八幡信仰を探る前に、八幡宮とはどんな神様か、ちょっとふれておきましょう。
八幡信仰の根源地は、豊後の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)です。
現在は宇佐宮といいます。
八幡神はこの宇佐宮の本社の丘の麓にある菱形池のほとりに、幼児の姿で出現したと伝えられていますが、宇佐宮の西の馬城峰(御許山)の山上に出現したという伝承もあり、「炭焼き小五郎伝説」との関連も説かれています。
 八幡神は、一般には幼童の姿で、母神と姫神をともなった三尊の形式で祭られています。
母神と幼童というのは、文化人類学者の石田英一郎らが説くように、この神の前身が世界的に広く分布し日本にもその痕跡が広汎に認められる、母子神信仰の一つだと思われます。
姫神は柳田国男によって、神に仕える巫女の神格化したものと説かれており、それは的を射た考えだと思います。
つまり元の形は、母子神と巫女神の組み合わせだったと考えられます。
この三神は、後世には神功皇后・応神天皇母子と応神天皇の后の仲津姫とされますが、その問題は後でまたふれます。
 宇佐八幡は、その神格や起源についても、渡来人が移入したものだとか、銅鉱山の神など、さまざまな説が立てられています。
多くの謎を秘めており、未解決の問題が山積しています。
「八幡」という名号にしても、応神天皇の誕生のとき、八流の幡が天から降ったのに由来するとか、地名説とか、いろいろな説がありますが、まだ納得できるような説明は出されていません。
 八幡信仰の大きな特色として注目されることは、早くから神仏習合の形態をとる神社だったことです。
すでに天平13年(741)に、藤原広嗣の乱の平定の報謝として、朝廷より、秘錦冠と封戸とともに、金字最勝王経・法華経各一部と度者(僧)18人が奉納されています。
神社に僧侶が属し、読経が行なわれていた日本最古の記録であり、弥勒寺(みろくじ)と宇佐八幡宮は一体のものとして運営されていました。
 八幡信仰発展の大きな画期となったのは、東大寺大仏建立の事業が困難を極めていた天平勝宝元年(749)11月に、八幡大神が託宣して上京し、みずから造営事業を助けるということがありました。
この時「八幡大神禰宜尼(ねぎあま)」の大神朝臣杜女(おおがみのあそんもりめ)は、天皇と同じ紫の輿に乗って東大寺に向かい、大仏を礼拝しました。
 ここに見える「禰宜尼」という名称は、宇佐八幡宮の神仏習合の形態をよく示しています。
最高の神職の禰宜には、古来の巫女の伝統を引く女性が就任し、尼とも称していたところに、すでに神仏習合がこの社でかなり進行していたことが窺えます。
禰宜尼の杜女は、八幡大神の憑依した神そのものとして行動したものを思われます。
紫の輿とう待遇も、彼女が神そのものと見られたからです。
 なお、豊後国宇佐の大神氏は「おおがみ」と読み、大和・三輪の大神(おおみわ)朝臣氏とは無縁の別氏族と見られます。
 これ以後、八幡大神は東大寺の鎮守神として大仏殿の前(現在の池のあるあたり)に祭られることになりますが、平重衡(清盛の四男)の南都攻めの兵火によって東大寺が煙失した後、手向山(法華堂の前)の現在地に再建されました。
 この後、八幡神は大安寺、薬師寺など、南都の大寺院に、境内鎮守社として次々に祭られることになります。
それは、第二章でふれた寺院鎮守神のうちの、「護法神」として位置づけられたものです。
(『京の社―神と仏の千三百年』岡田精司 ちくま学芸文庫 2022年)

宇佐神宮 由緒