2024年1月21日日曜日

日曜日だけど…

今朝も雨…
日曜日だけど来園者が少なく静かな公園でした。

能登半島地震 被災地は雨降り続く 土砂災害のおそれ 警戒を」(NHK)
全集の頁をめくっていると…
「李香蘭」という文字が…

 群 衆

 李香蘭の実演を見るために丸ノ内の某劇場がたいへん混雑したという事件は世に丸ノ内事件とよばれ問題となっている。
学生が多いというので学生が信用を失ったという説もある。
健全な娯楽がないからだという説もある。
 いずれも寝言だ。
たとえば正倉院の御物を拝観するために上野に殺到した群衆と、丸ノ内へ集った群衆と、たいして違った人間ではない。
どちらも物見高い日本の群集心理のあらわれだ。
西田哲学の本を読んだあとで「娘時代」という本を読んだからとて、不思議でない今日の知識人の状態は、混乱というよりも、みな群集心理のあらわれだ。
 丸ノ内の劇場へ集った学生の中には夜学生が多かったなどという学校側の弁解はいったい何たる醜態だ。
(『織田作之助全集 8』講談社 昭和45年)
そんなことがあったのかと調べると

第六話 「対米英蘭戦争を決意」したとき――昭和14~16年
 ●日劇七廻り半の大騒ぎ

 永井荷風『断腸亭日常』に面白いことがかかれている。
2月4日の項である。
荷風はこの日も浅草に出かけオペラ館の楽屋に顔をだしたらしい。
 「楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたう。声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたわせばさぞよかるべしと思いてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用いまた民謡を歌うことは厳禁せられいると答え、さして憤慨する様子もなし。余は言いがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき。彼国(かのくに)の王は東京に幽閉せられて再びその国にかえるの機会なく、その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや」
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 なぜ、これが面白く感じたかといえば、じつは昭和13年ごろには、まだ朝鮮語で歌うことが許されていたことを、荷風が明瞭にかきとめているからである。
10月26日の項である。
 「(午後)十一時オペラ館稽古場に小憩し、女優松平および朝鮮人韓某と共に車にてかえる。浅草公園六区に出る芸人の中には朝鮮人尠(すくな)からず。殊にオペラ館の舞台にては朝鮮語にて歌をうたうほどなり」
 それから2年ちょっと。
いつから、と指摘はできないうちに、たしかに状況はガラリと変わっていた。
おそらくは当局からの強い指示があったからゆえに相違ないであろうが、同じオペラ館の支配人や裏方たちの間にも、朝鮮人の芸人が朝鮮語の歌をうたえないことは不思議でも何でもなくなっていた。
「憤慨する様子もない」と荷風が憤慨している。
すなわち世の空気が排外的国粋主義ですでにして充満していた、ということなのではあるまいか。
それが当然だとだれもが思うことは、もうそのことに世の一般がそうなりきっているからである。
当局の監視も注意もいらないのである。
 それなのに、といえるようなちょっとした事件がその直後に起こっている。
2月11日、丸の内の日本劇場のまわりは早暁から押し寄せた群衆のために、8時をすぎたころには収拾のつかない状態になっていた。
三ヵ所ある入場券売場の窓口それぞれに切符を買い求める行列が溢れて、巨大な円形をなす日劇をなんと七廻り半したうえ、開場と同時に押すな押すな。
負傷者が続出する。
丸の内署から警官が大挙出動して整理しようとするがとても無理で、ついに消火用ホースによる放水で群衆を追い散らさねばならなくなった。
出しものは、折から紀元節の日で「建国祭記念 歌う李香蘭」と題し、中国人女優の李香蘭の映画と実演である。
 映画は長谷川一夫と共演の日満合作の『白蘭(びゃくらん)の歌』、満州映画協会(通称満映)の美貌のスター李香蘭は、これ以前から『支那の夜』などで爆発的な人気をよんでいた。
日・満・中の三ヵ国語がペラペラの中国人女優としてもの珍しさもあり、その上に戦争という国家の大事業を支援する「日満親善」という役割も、彼女は中国人でありながらわが大日本帝国のために果している。
これはもう応援せずばなるまい、というわけなのであろうが、べらぼうに綺麗な中国人女性をひと目みておこうという野次馬根性のほうが大きかった。
 それにしても日劇の中国人女性とオペラ館の朝鮮人女性とのこの違いは、勝手な推察ながらいまの日本にも通じているような気がしないでもない。
世界に冠たる民族としての当時の日本人には、中朝のどちらの民族にたいしても軽蔑感があった。
人種差別があった。
基本的には馬鹿にしている思いに差がないが、どちらかといえば中国人にはそう思いつつも得体の知れないものを感じないでもない。
下等と見下しながらも、敬して遠ざけるというか、あまり深くつき合いたくはない思い、そうした不気味さを抱かせられていた。
一撃ですむと思っていた戦争が長びいて、ドロ沼化しているところからくるしつこい嫌らしさ、中国民族とはそも何者なるかの疑問に日本人を投げこんでいたのである。
 いまも何となく……なんて講釈はともかくとして、その中国人の人気女優がわざわざ来日して、美声を直接聴かせてくれるのである。
娯楽に飢えていた人びとは、もの珍しさも手伝って殺到したのであるが、その騒ぎを知らずにやってくる観客がつぎからつぎへ。
それに加えて大騒ぎを知ってかけつける野次馬もあって、混乱は陽の落ちるまでつづいた。
ついに丸の内署長が日劇正面のバルコニーに上り「諸君!」と呼びかけた。
 「いまやわが国は東亜新秩序の完成に向かって渾身の努力をつづけている。忠勇なる将兵は大陸の荒野に戦っている。それを思えば、諸君の今日のこのありさまは何事だッ」
 せっかくの署長の〝大喝〟もまた効き目がなかった。
混乱は夜になってもまだつづいていた。
 後日談がある。
李香蘭はほんとうは日本人なのだという噂である。
これがまた燎原(りょうげん)の火のごとく広まった。
悪ガキのわたくしはそっちのほうに5銭賭けて、近所の軍国大人の痛いゴツンを一発くらった覚えがある。
日満親善、東亜新秩序の大使命のためには、彼女が日本人であってはならなかったのである。
 戦後になって、李香蘭コト山口淑子(よしこ)は語っている、「日本人であることを隠しているのがつらかった」と。
年をとったが美貌は少しも衰えをみせない彼女の顔をみながら、さもありなんとわたくしは心から同情した。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
ちよだ歴史さんぽMAP」に

伝説の日劇7回り半事件」(1941年)
第二次世界大戦突入の目前、娯楽の殿堂としての親しまれた有楽町の日劇(現・有楽町センタービルディング)で李香蘭(山口淑子)ショーが開かれると、観覧希望者が押し寄せ、会場となった日劇を7回り半するほどの列となった。
その数およそ10万人ともいわれている。

この時の録音ではありませんが李香蘭の歌
東寶映畫「誓ひの合唱」主題歌「母は青空」〟(NHKアーカイブス 1943年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 水仙や鵙(もず)の草茎(くさぐき)花咲(さき) 句帳

 長い茎の上にひくらむ水仙の莟(つぼみ)は、包皮に包まれているうちは干からびた鵙の草茎のようだが、その奇怪な姿から美しくも清らかな花が咲いたよ。

奇抜な比喩(ひゆ)な句。
包皮が破れて花が咲いたから「草茎(の上に)花咲ぬ」と見た。
造化の魔術。
◇鵙の草茎(秋季) 鵙が蛙やとかげなどを捕食し、獲物を高く伸びた枝の先に突きさして置くのを「鵙の早贄(はやにえ)」という。
「鵙の草茎」は鵙が春におおかた山地に移り目立たなくなるのを、草に潜(もぐ)り込むこと誤解したところから由来する。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝之校注  新潮社 昭和54年)