2023年4月7日金曜日

雨にうたれると

傘にあたる雨の音がきこえるほどでした。
オオイヌノフグリなど小さな草花を写そうとすると
雨粒に衝撃をうけて大きく揺れていました。
4月7日は「放哉忌」(「尾崎放哉年譜」尾崎放哉記念館)

 解 説 村上護

 二、放哉の俳句

 ここで本書の構成につてい説明しておきたい。
大正15年(1926)4月7日、放哉は小豆島(しょうどしま)の南郷庵(みなみごうあん)において41歳の生涯を閉じている。
死に急ぎすぎたといえもなくないが、遺した俳句は得難いものだ。
 …中略…
 放哉研究者にとって初期の俳句も資料としては重要である。
けれど放哉が放哉が独自の俳境を拓いたのはずっと後年のことだ。
特に大正13年(1924)の遁世以後において真価を発揮する。
そのことを考えると、編年体の方式で初期俳句から順次に配列するのでなく、まずは俳人放哉を放哉たらしめている作品を読んでもらいたい。
なお興味があるならば有季定型の青年時代の俳句、さらに会社員時代の自由律俳句を読んでもらえればよいと望んでいる。
…後略…
(『尾崎放哉全句集』村上護編 ちくま文庫 2008年)
 句稿3より

 桜が葉になつて小供がふえた

 咲き切つた桜かな郊外に住む

 花の雨つゞきのわらじが乾かぬ
(『尾崎放哉全句集』村上護編 ちくま文庫 2008年)
幾年もたった後」つづき

 すると、ふいに、耳もとで、
 「もう一度、おまえは子供になれるから、心配をするな。」といったものがありました。
 父親は、はっと驚きました。
だれが、それをいったのだろうと、くるくると頭をありにまわしてみましたけれど、あたりには、だれも歩いているものはなかったのです。
また、だれも自分の胸の中(うち)で思っていることを知り得るはずはなかったのでありました。
(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年)
 不思議なことがあるものだと思って、空を仰ぎますと、太陽が円い顔をして、にこにこと笑っていました。
 いま、そういったのは、太陽かと思いましたから、
「ほんとうに、私はもう一度、子供に帰れるでしょうか? 私は世の中の苦労をしました。私の頭からは、無邪気ということがなくなってしまいました。私はどう考えましても、木の葉や小石や、犬ころを友だちとする気にはなれません。どうして、この私が、二度と子供になれるでありましょうか。」と、父親はいいました。
 「もう一度、おまえを子供にしてやる。」と、太陽はいいました。
 父親は、それが自分の空想でないかしらん。
いくら太陽だって、そんなことをいい得るものでなかろう!
それとも、自分が死んで、こんどふたたびこの世界に生まれ変わってきたときをいうのではなかろうかと思いましたから、父親は太陽に向かって、
 「ほんとうのことでございますか。この世で死ぬまでに、もう一度、子供になれるでありましょうか。」とたずねました。
 「そうだ。死ぬまでに、もう一度、子供にしてやる。」と、太陽はいいました。
 「ああ、うれしい!」と、父親は、自分の子供を抱き上げていいました。
 「子どもであることをうれしいとは、子供は思っていない。子供はまじめなんだ。子供のいうことをよく聞いてやれ! そして、子供を大事にしなければならない。」と、太陽はいいました。
こときは、太陽も、まじめになって、いつもようにあいきょうよく笑っているようには見えませんでした。
 そのとき、父親は、まだ年が若かったのであります。
太陽がいつかいったことを後(のち)には忘れてしまいました。
いったことの意味は、思い出されても、なんで太陽がものをいうものか。
あれは、みんな自分の描いた空想に過ぎなかったと思ったでありましょう。
そして、あのときの子供は、大きくなりました。
子供があのときの父親の年ごろになったときは、もう子供には、子供が産まれて、父親は、年をとってしまいました。
 父親に孫ができたわけであります。
父親は、だんだん年をとって、ついにおじいさんになってしまいました。

…つづく…

(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワセミに出会っていました。

尾崎放哉の終焉の地、小豆島行きを切望するもかなわず。」(1986年11月)
1987年2月7日に満25歳10ヶ月で亡くなった住宅顕信の句を数首。

 春にはと思う心に早い桜

 車椅子の低い視線が春を見つけた

 陽にあたれば歩けそうな脚なでてみる

 春風の重い扉だ
(『住宅顕信 句集 未完成』春陽堂書店 2003年)