2023年4月21日金曜日

寒暖差が大きいなぁ…

ソメイヨシノがちらほら咲いていました。
これはチラホラ咲きとはいわないのだろうなぁ(^_-)
今朝も暑くて途中で汗をかくほど…
夕方、買物に出かけると風がつよくて冷たく感じました。
明日は、ぐ~んと気温が下がるみたい…
第3章 人生の節目に現れる神仏
 日本独特の年忌


 年忌(ねんき)は、一般には仏教による追善供養をいう。
 インドの仏教は、中陰の四十九日をもって死者の供養をすべて打ち切るものだった、といわれる。
中国でも仏教は、中陰のあとも百か日、一周忌、三年忌を行うようになった、といわれる。
その仏教が、中国から日本に伝来したのは周知のとおりだが、日本ではさらに七年忌、十三年忌、三十三年忌などを加えて定例化した。
なぜだかは、よくわからない。
それだけ先祖霊に対しての思いが強かったのか。
あるいは、死霊をおそれる想いが強かったのか。
鎌倉時代には、すでにそうした年忌が行われていた、と諸事典(辞典)でいう。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
 年忌は、いいかえるなら式年制である。
毎年の行事とするには少々厄介であろう。
そこで、ある周期を定めて行なう。
そこに参加する人たちの、故人に対する記憶がよみがえりやすい周期で行なわれるのである。
 その年忌は、宗派によって違いがあるものの、多くは三十三年忌をもって最終年忌とする。
俗には、これをトムライアゲ(弔い上げ)という。
以後は、死者を特定しての供養は行なわれない。
そこで、死霊は個性を失い、その他大勢のご先祖さまと同列になるのである。
 ちなみに、神道系では、一年祭・五年祭・十年祭・三十年祭・五十年祭をもって代表的な慰霊祭とする。
そして、五十年祭で特定の死霊を祀ってのまつりは終わりとする。
 この三十三年なり五十年という年期は、じつに合理的な制度である、とみなくてはらない。
とくに、三十三年がそうである。
まず、直接故人を知る血縁者が他界しはじめて、そろそろ代がわりする時期になる。
直系の子や孫が行事を仕切ることのできるきわめて妥当な限界近くの年まわりとなるのだ。
そして、五十年ともなると、限界年となるのである。
 ごくごく近年のこと。
葬儀や年忌に大きな変化が生じている。
 いわゆる家族葬、密葬。
はたまた散骨、樹木葬など。
葬儀の社会性が後退してきているのだ。
文化性が後退してきている、といってもよかろう。
個々の自由が優先される、それを認めざるをえない時代となった。
 ただ急速な変化は混乱もまねく。
会葬や献花を断られたとか、それを送り返されたとか。
極端な例としては、密葬後に郷里の檀那寺宛に宅配便で遺骨が送られてきたとか、墓地に遺骨が放置されていたとか。
にわかに信じ難い事件も生じている。
が、その是非はあえて問うまい。
しかし地縁性・社縁性を断ち切ったところでは、文化は後退するだけではないか。
 ここで、『餓鬼草紙』(平安末期と伝わる)の墓の場面を掲げておこう。
 盛土の上に卒塔婆(そとうば)や供養塔らしきものが立つ。
しかし、それより多いのが、死体の放置。
それが、骸骨化もしている。
また、棺が放置されている場面もあり、そこでは野良犬が蓋を外して遺体を喰い漁っている。
葬儀や埋葬をおこたった「餓鬼道」を描いたものである。
 それから大方1000年、私たちは、社会のしきたりとして、餓鬼道を避けて穏(おだ)いな葬送文化を築き今日まで伝えてきたのだ。
何とも感慨深いものがる、としておこう。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)

「餓鬼草紙 8/169/16」(国立国会図書館)
「長周期」変動への日本列島の人々の適応
 小氷期の厳しい気候下での国土開発――江戸
 17世紀の危機と日本の特異性


 江戸時代が小氷期の時代であったということは、平安時代の中世温暖期の存在以上によく知られていて、その寒冷で湿潤な気候は、江戸時代に幾度となく起きた大飢饉の原因として理解されてきた。
特に17世紀には太陽活動の停滞(マウンダ―ミニアム期)によって世界的な寒冷化が起こり、世界中で危機的な状況が生まれたことが知られている。
中国では、明朝が滅び清朝への交代(1644)が起きたし、ヨーロッパでは30年戦争(1618~48)が起きて国家が再編され、時代の歯車を近代へと転換させた。
その他にもまさに世界中でさまざまな気候危機が起きたことが、ジェフェリー・パーカー氏によって紹介されている( Parker,2014 )。
日本でも17世紀には、寒冷化に連動した冷害により寛永(かんえい)の飢饉(1642)、寛文(かんぶん)の飢饉(1680)などが起き、寛永の飢饉の直前には初期の江戸幕府を揺るがした島原(しまばら)の乱(1637~38)も起きている。
(『気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点』中塚武 吉川弘文館 2022年)
 しかし17世紀の日本は、全国的な気候危機に陥っていた世界各国とは違って、むしろ大開発の時代だったことも事実である。
その理由は誰もが知っているように、17世紀初頭の徳川幕府の誕生により、それまで長い間続いた中世の戦国時代が終息して戦乱が収まり、日本全国で新田の開発をはじめとする生業に集中できる環境が整ったからである。
この世界と日本の対比から、徳川幕府の治世の優秀さを特に評価する論調もある(ダイヤモンド2005など)が、実際はたまたまこの時代に日本で政治体制が転換していたということが影響しているものと思われる。
世界的な気候危機の時代である17世紀に日本では人口が急増し、17世紀初頭の日本の人口が推定値ではあるが1200万人とも1700万人ともされていたのが、18世紀前半には3000万人ほどになったことがわかっていて(高橋2021)、まさに急激な人口の増加とそれを保証する社会環境や生産力の向上があったことを物語っている。
 寒冷湿潤期の大開発がもたらしたもの

 このような気候危機ともいえる寒冷・湿潤な時代に大幅な人口増を達成した江戸時代の社会には、それまでに時代にはない社会の強い意志があったと考えられるが、同時に結果として起きた状況の重大さという意味でも、近現代にもつながる数々の特徴が指摘できる。
 17世紀に行われた新田の大開発は、当然のことながら水田に投入すべき肥料の不足をもたらした。
当時は山野の草を水田に敷き込む「草肥」が使われていたので、その草肥を確保するために近世の山々の森林の多くは伐採され、草山になった(水本2003)。
森林とは違い保水力が著しく減少した草山からは大雨が降るたびに大量の水が直ぐに流出し、17世紀に進んだ気候の湿潤・寒冷化に伴う降水量の増大とも相まって、下流部の人々に水害の被害をもたらした。
こうした水害に対しても、近世の人々は中世とは違って真正面から対抗して、関東でも中部でも関西でも大規模な河川の付替え工事が、利根川(とねがわ)・木曽三川(きそさんせん)・大和川などで行なわれることになる。
 草肥に頼る農業の弊害が認識されるようになると、江戸時代の人々は積極的に他の肥料の探索も始めることになる。
気候の寒冷化は、海洋では海水の鉛直循環を活発化させて、深層から表層に植物プランクトンの成長に必要な窒素やリンなどの栄養塩を回帰させるので、江戸時代には海洋生物の生産力が潜在的に増大した可能性がある。
そのためか江戸時代には鰯(いわし)などの海洋性の魚類をそのまま食べるのではなく干して農地に投入するという対応を始めた。
また、都市の住民が排出する糞尿を周辺の農村が買い取って農地の肥料とする積極的な取り組みも、現在では江戸時代が循環型の社会であったことの証拠として評価されているが、これも当時の人々の生産力増強へのあくなき意志を反映したものであるといえよう。
こうした肥料は、お金を出して買うものという意味で金肥(きんぴ)と呼ばれていた。
 しかし、どのように農業生産量の増大に努力しても、寒冷で湿潤な気候条件のもとで人口が爆発的に増大してしまった江戸時代では、人々の平均的な身長などの体格は、近現代人はもとより中世人と比べても小さくなってしまったことが知られている。
近世は幸い戦乱もなく実質的に鎖国をしていたので、食料生産の割に人口が多くなりすぎたとしても、戦乱で人々が大量に死ぬことはなく、食い詰めた人々が難民として海外に移住したりすることもなかったし、もちろん現在のように海外から食料を輸入することもできなかった。
そのような制約下で人々にできたことは、粗食に耐えながら小家族の単位でひたすら頑張ってよく働き少しでも生産量を向上させるという、いわゆる「勤勉革命」しかなかったということかも知れない。
(『気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点』中塚武 吉川弘文館 2022年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ベランダのアロエに初めて花が咲きました。
アロエの花言葉は「復活」だそうです。
誕生日の花と花ことば」(ラジオ深夜便 アロエをクリックしてください)

ミャンマーに平和が訪れ、民主主義が一日も早く復活することを願って

月の明るいあいだに糸を紡げ
 ◆ビルマ語/ミャンマー◆

 ミャンマーをうろついたことがある。
市場で買ったロンジー(民族衣装の巻きスカート)を着て、タナカ(日焼け止めの粉)を顔に塗(ぬ)ったら、すれ違う人がみんな「いいねいいね」と笑ってくれて、わたしは得意満面だった。
仲良くなった人と互いの名前を教えあって、「あなたのファミリーネームは?」「ない」「えー!」ってなったのも懐(なつ)かしい。
ミャンマーでは多くの人が苗字(みょうじ)をもたない。
 「おはよう」「こんにちは」にあたるのは「ミンガラーバー」。
旅のあいだじゅう、これまた得意満面に「ミンガラーバー」を言いまくったが、あとから知って驚いた。
もともとビルマ語には挨拶(あいさつ)ことばがなく、1960年代の軍事政権下で「ミンガラーバー(吉祥<きっしょう>あれ、の意味)」を挨拶にする政策が推し進められたんだとか。
 ことわざは、月の晩は月明りで仕事をしなさい、と説く。
「タイミングを逃さず、やるべきことをやりなさい」の意味。
糸を紡(つむ)ぐ音が夜に溶(と)けていく。
犬はいつだっていちばん気持ちのいい場所で眠る。
(『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』金井真紀 岩波書店 2022年)