2023年4月4日火曜日

フジの花の香りが漂い始めました

今朝も歩いていると汗をかきそうになるほどで
4月下旬から5月初旬の陽気だとか…
フジの花も甘い香りを漂わせていました。
午後から銀行に行くと私服警察官が特殊詐欺注意のカードを示していました。
特殊詐欺の手口と対策」(警察庁)
自転車屋さんにも寄るとヘルメットが品薄になっているそうです。
ヤシの木にサクラが今年も花を咲かせています。
メジロなどが止まっているのを見かけるので
野鳥がフンと一緒に種子を撒いたのだと思います。
桜が咲いているヤシの木は2本あって父と毎年楽しみにしています。
明治5年の改暦は、こんなところにも影響が出ていました…

第1章 太陽と地球と月と
 天・地・人を結ぶ暦
 改暦と忌日


 明治5年の改暦で、俳人はたいへん困ったと言われています。
著名な歴史上の人物の命日を季語として用い、これを忌日(きにち)といいますが、改暦によって忌日の季節が変わってしまう場合が生じました。
(『四季の地球科学―日本列島の時空を歩く』尾池和夫 岩波新書 2012年)
 高浜虚子は、悩みを抱えながら新暦を基にした歳時記をつくりました。
 「此(この)季寄せは宗教上の儀式は固(もと)より、人の忌日も出来得る限り新暦に換へた。これは種々の支障もあるが猛断した。尤(もっと)も蕪村忌は已(すで)に二十年近く前から旧暦十二月二十四日のものを平気で新暦十二月二十四日として挙行して来て居る。けれどもたとへば時雨(しぐれ)忌などゝ言つてゐる芭蕉忌を新暦の十月十二日にしてしまふと初冬の感じのものが晩秋の感じに変つてしまふ。其(それ)は困るという人もあらうが致し方がない。」(「写生を目的とする季寄」『ホトトギス』附録、大正8年)
 忌日を西暦に換算してみましょう。
その方が忌日の季節感がより実際に近くなると思うからです。
蕪村の忌日、天明(てんめい)3年12月25日は、西暦では1784年1月17日です。
芭蕉の忌日、元禄(げんろく)7年10月12日は、西暦1694年11月28日と、時雨の感じも出てくるころとなります。
宝永(ほうえい)4年2月30日の其角(きかく)忌は、西暦1707年4月2日となり、虚子はさぞ困ったことでしょう。
その他、表1-3(省略)をご覧下さい。
(『四季の地球科学―日本列島の時空を歩く』尾池和夫 岩波新書 2012年)
芭蕉が亡くなるまでのことを

第1章 芭蕉
 永眠まで


…前略…

 さて年代が飛びます。
芭蕉は、上方(かみがた)からいったん江戸にもどり、元禄7年(1694)5月、再度ふるさと伊賀へと向かいました。
そのときふところにしていたのが『奥の細道』でした。
伊賀(いが)にしばらく足をとどめたのち、京都や大津をはじめ、上方を遍歴(へんれき)しました。
(『俳句のきた道 芭蕉・蕪村・一茶』藤田真一 岩波ジュニア新書 2021年)
  京にても京なつかしやほととぎす  ほととぎす(夏)

 夏の到来(とうらい)を告げるのは、甲高(かんだか)い鳴き声が特徴の時鳥(ほととぎす)です。
京の山城(やましろ)盆地では、北山のほうから鳴いて飛んでいきます。
古くから初夏の風物詩でした。
芭蕉も京都にきて、その時鳥の声を聞いていて、やはり古歌にうたわれた時鳥のなつかしさを覚えるというのです。
京は、現にいる町であるとともに、古色(こしょく)をたたえた由緒(ゆいしょ)ある町でもあります。
過去と現在の二重写しです。
ちなみに、つぎの章でお話しする蕪村(ぶそん)は、「ほととぎす待(まつ)や都のそらだのめ」とよみました。
芭蕉とおなじく、京にゆかりの時鳥を期待していたのですが、待てども一向に鳴いてくれないというのです。
「そらだのめ」はあてはずれの意味と、時鳥が鳴いて飛ぶはずの「空」をかけています。
蕪村の俳句はよほどしたたかです。
  秋ちかき心の寄(よる)や四畳半(よじょうはん)  秋ちかき(夏)

 大津の木節(ぼくせつ)という俳人の庵に招かれたときの句です。
四畳半は、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』にいう『方丈』とおなじ広さ、ひと一人寝起きするだけの空間にすぎません。
そこへ俳句に志(こころざ)す何人ものひとが寄り集まってくるというのです。
まさにこころをひとつにするといっていいでしょう。
そろそろ秋がやってきて、秋風の気配を感じはじめるころでもあります。
「心の寄(よる)」ということばが、しみじみとさせてくれます。
 やがて江戸にもどろうとしたのですが、先にお話ししたように、事情があっていったん大坂にやってきました。
9月9日にことでした。
以下は、大坂でよんだ句です。

  此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮  秋の暮(秋)

 わたしはこの道を踏みしめて歩いている、ほかにはだれもいない、と秋の夕暮れ時の景色をよんでいます。
「此道」は、文字どおりの道とも、俳諧の道ともとれます。
「行人なしに」もいろいろな受けとめ方ができるでしょう。
なお、「人声(ひとこえ)や此道かへる秋のくれ」という別案もありました。
芭蕉はどちらがいいかねと訊(たず)ねて、弟子たちの意見によってこれに決定したいいます。
自作の選択を弟子に問うてみるという姿勢が、芭蕉にはあったのです。
  秋深き隣(となり)は何をする人ぞ  秋深き(秋)
 
 秋の深まるころ、隣家からなにやら物音があってひとの気配がする。
どんな暮らしぶりか、偶然ながら隣り合わせて、おなじ人間としてシンパシーを感じないわけにはいかない。
病床(びょうしょう)にふせっている芭蕉の、最後まで失わない人間性がみてとれます。
しかし体調を崩して病床につき、そのまま回復することなく逝去(せいきょ)します。
元禄7年10月12日夕刻のことでした。
 近しいひとであっても、見知らぬひとであっても、つねに、最期(さいご)のときを迎えるに至ってまで、芭蕉は孤独ではなく、共感をもとめて生き抜いたのです。
大坂にきてひと月、はからずもこの地で生を終えることになりました。
でも、この一か月間によんだ俳句の数かずは、人間とはなにかを考えさせてくれる、かけがえのないものばかりです。
そのひと月は、それまでの人生と釣り合うほどの重みをもっているとさえいえます。
最後の最後、芭蕉は「大坂のひと」として、大きな遺産をわたくしたちの許(もと)に置いて逝ったのでした。
大坂にとってもまた、芭蕉はなくてはならない詩人となったのです。
(『俳句のきた道 芭蕉・蕪村・一茶』藤田真一 岩波ジュニア新書 2021年)
今朝の父の一枚です(^^)/
そばを通るたびに気になっているようです!

Ⅰ 春の訪れ
 サクラをめぐる勘違い 【桜】


 サクラの花を初めて見たのはいつのことか?
多くの日本人にとっては、そんな質問は無意味でしょう。
それくらい、サクラは私たちの暮らしになじんでいます。
 サクラを漢字で書くと「桜」。
それだって当たり前。
でも、漢字的には、話はそう単純ではありません。
なぜなら、多くの漢和辞典では、サクラを指して「桜」を用いるのは日本語独自の用法で、中国では、シナミザクラという木を指す、としているからです。
 では、シナミザクラとは、どんな樹木なのでしょうか?
 私は長い間、この問題をほったらかしにしていました。
おおかた、「しなむ」という日本語があって、シナミザクラとは「しなんだ桜」のことだろう……。
そんなふうに思い込んでいたのです。
しかし、それは、大きな大きな勘違い。
あるとき、『広辞苑』の「桜桃(おうとう)」の説明を読んでいて、そのことに気づきました。
 『広辞苑』の「おうとう」の項目には、「花はサクラに似るが白い。果実は「さくらんぼ」と称して食用」とあります。
そして「セイヨウミザクラ(西洋実桜)」。桜桃の名は、本来、中国原産の別種シナミザクラの漢名」と書いてあったのです。
 つまり、シナミザクラとは、シナミ・ザクラではなく、シナ・ミ・ザクラ、中国原産の実の成るサクラのことだったのです。
 『広辞苑』の「さくら」の項目には、「バラ科サクラ属の落葉高木または低木の一部の総称。同属でも、ウメ・モモ・アンズなどを除く」とあります。
末尾近くに「桜桃(おうとう)の果実は食用にする」とあるように、ここには、桜桃も含まれます。
しかし、本来の漢字「桜」は、桜桃の一種と考えられるシナミザクラだけを指すので、サクラ全般を指して「桜」を用いるのは日本語独自の用法だと、ということになるわけです。
…後略…
(『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』 円満字二郎 岩波書店 2020年)