2023年4月29日土曜日

昭和の日

天気予報では、午前中は大丈夫みたいなので自転車で出かけました。
明日は、七十二候の「牡丹華(ぼたんはなさく)
夏日なんかがあったからか、だいぶ前からボタンが咲いています。
植物の名前を調べ始めたのはリハビリ散歩で公園を歩くようになってから
庭木の名前もほとんど知らなかったですし、今でも分からないことが多いです。
数日前からこの花が気になっていたのですが???
昨日、やっと赤葉のメギらしいと分かったのだけど、園芸種は種類が多くて…。
メギ ‘アトロプルプレア’」(東京都農林水産振興財団)

メギ(目木)の「和名は目の病気に用いたことに由来する」(熊本大学薬学部薬草園
今日は「昭和の日

昭和天皇が昭和63年9月に療養されてから、
昭和64年1月7日に崩御されるまでのことを思うと
当時は、癌の告知はされなかったし
延命処置をしないという選択はできなかったのだと思う。
100分de名著125「中井久夫スペシャル
〝第4回 精神科医が読み解く「昭和」と「戦争」〟で紹介されていた本の冒頭を転記します( ..)φ
 「昭和」を送る
   ――ひととしての昭和天皇


 御製に表れた「死の受容」

 昭和天皇の最後の二つの和歌には、世を去る心の準備の成熟があると私は思う。
 昭和63年の

   「道灌堀 七月」
  夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな
(『「昭和」を送る』中井久夫 みすず書房 2013年)
 および

  「那須の秋の庭 九月」
 あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

である。
昭和天皇は最後の夏に「ほとけのをしへ」に心ひかれていたことがわかる。
ちょっと「ほう」と思う。
また絶筆となった後の歌には、かねてこころを寄せ、こころの寄りどころとしていた重要な対象から心理的に撤収してゆく「死の受容」があると私は思う。
鳥が飛び去ったあとの寂しい空白である。
意識を失われる直前の作である。
 この歌を知れば「陛下がさっさとそんな心境に達せられるのは、ずるい」と思う人も多いであろう。
八十七歳の齢もまだ足りぬごとくである。
昭和の鎮魂は、まだ済んでいないのである。
(『「昭和」を送る』中井久夫 みすず書房 2013年)
 天皇制と家族、そして鉄道 ――『「昭和」を送る』をめぐって
  原武史 中井久夫

…前略…

 『「昭和」を送る』を読んで

 『「昭和」を送る』で、中井さんは、大統領制と比較して、皇太子という機能に着目されましたよね。つまり、大統領制には大統領しかいないけれども、天皇制の場合は皇太子が天皇と別の役割を果たすことによって安定するのだ、と。あれは本当にその通りだと思います。僕の『大正天皇』という本は明治後期の皇太子時代にかなり紙幅を割いています。天皇と皇太子がいて、それぞれ別の役割を果たしたことが、皇太子が結婚してから明治が終わるまでの12年間の安定をもたらしたと思うんです。
ところが明治から大正になって、まだ皇太子が幼く成長しきれていない時に、あきらかに明治とは違う不安定要因を抱え込むことになった。結果的に天皇自身も体調がだんだん崩れてゆく、天皇の代わりとして皇太子を押し出さなければならなくなる。結局、大正という時代は事実上、皇太子がいない時代になっていて、それは昭和初期もずっとつづくわけですよね。
(『中井久夫 増補新版』河出書房新社編集部編 2022年)
中井 その皇太子は海軍の軍艦の下に入った。「香取」と「鹿島」ですが、あれはイギリスに着くまでどのくらいかかるんですか。

 二ヵ月あまりですね。

中井 そうすると、海軍のカルチャーもしみ込みますよね。艦長はあまり天皇と関わらないようだけれど、漢那憲和大佐はたしか歌かなにかに出てくるような……

 ええ、出てきます。漢那大佐のことは、富田メモに出てきます。実によく覚えているんですよ。途中で沖縄に立ち寄ったということも、当然出てくるんです。
中井 軍艦として入っているんですか。

 本島に上陸していますよ。

中井 ああ、そうですか。

 あの時は与那原というところに上陸しています。そこから鉄道で、首里と那覇に行くんです。首里城もたしか行っているんです。

中井 沖縄に一度行っていて、もう一度行けなくて残念だっていうのはそういうことがあるのとないのと、だいぶ違いますね。

 いきなりヨーロッパに行っているわけじゃなくて、沖縄にまず立ち寄って、香港とかシンガポールに立ち寄ってから行くわけです。だから、その沖縄での体験というのはずっと記憶の中にあったと思うんです。
中井 ちょっとした岩倉使節団みたいな意味を持つでしょうね。西郷と江藤が岩倉使節団に入っていたら、歴史が変わっていたかもしれない。あれは精密な記録ですね。画家がついて行って、いろんなまちとか工場とかを描いている。

 昭和天皇の場合はそれが唯一の本格的な外遊になって、その後、外国に行くのは71年まで五十年間ないですから。50年たってやっとヨーロッパに行って、その4年後にまたアメリカに行く。
中井 彼の分類学の著書がありますけど、分類学者の記憶というのはちょっと違うんじゃないですかね。彼は記憶がいい人ですよ。

 『「昭和」を送る』の中で、天皇と皇族は違うと言われていましたね。たとえば、秩父宮とか高松宮とは緊張の度合いが違うと。絶えず緊張を義務づけられているというか、そういう環境にある。風呂に入ってリラックスすることも嫌ったと。

…後略…

(『中井久夫 増補新版』河出書房新社編集部編 2022年)

皇太子時代の昭和天皇 欧州訪問」(NHKアーカイブス 1921年)