2019年4月6日土曜日

暖かいというよりも…

今朝、今までと違うのは
風が冷たいというよりも心地いいと思えるほどの陽気でした。
この暖かさで一気に桜が満開になり明日には…
昨夜の“ららら♪クラシック「トムとジェリーとクラシック」
懐かしいアニメだなと思っていたらビックリしました(◎_◎;)
サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィル「トムとジェリー」の演奏もあって楽しかったです♪
この「トムとジェリー」は1940年から登場しているのですよね( ゚Д゚)
このようなアニメや映画を作るアメリカ相手に戦争をした日本
国力の違いを知っていた日本人なら
勝てるとは思っていなかったのではないかな。
今月の100分de名著はマルクス・アウレリウスの「自省録」
第一回の放送の最後に紹介されていた短歌が
土峡善麿の
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
講師の岸見一郎さんが
妻たちは戦争のさなか日々料理を続けていた。
その中で物が不足してきていることがわかる。
限られた情報なんだけど
自分自身の内なる判断をすることで
この戦争は無理なんだと
生活感のない、足が地につかない男たちよりも
早く見極めていたのかもしれない。
内を見つめなければいけない。
外からの情報だけで振り回されてはいけないなどと話をされていました。
そういえば佳子さまが
「また、姉の件に限らず、以前から私が感じていたことですが、
メディア等の情報を受け止める際に、
情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切だと思っています。
今回の件を通して、
情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています。」
(「佳子内親王殿下の国際基督教大学ご卒業に当たり宮内記者会質問とご回答」宮内庁)
とご回答されていますね。
おっしゃる通りだと思います。
初めて万葉集を読んだのは学生の時で
岩波文庫の『新訂新訓 万葉集』(佐佐木信綱編)でした。
読むだけで精一杯で意味が分からなかったです。
その後、講談社文庫の『万葉集(一)~(四)』(中西進全訳注)のおかげで
意味が分かるようになりました(^^ゞ
中西進先生の『選書 万葉のことばと四季』より
「山上憶良」を転記したいと思います。
   山上憶良
   一
 私はやはり、山上憶良が渡来人だという推測をすてがたい。
660年(百済の義慈王二十年、わが国斉明六年)に百済にうまれ、
663年(天智二年)の白村江における敗戦ののちに
4歳で渡来したと思われる。
父が憶仁、彼は百済朝廷につかえた医者で、
その父にともなわれて、やってきたのであろう。
憶仁はのちに天武天皇の侍医(じい)ともなっている。
憶良が晩年に書いた「沈痾自哀(ちんあじあい)の文」は
おびただしい漢籍がひかれるが、
その内に医学関係の故事も少なくない。
この素養は父からの家学(かがく)のものではないか。
(『万葉のことばと四季』中西進 角川選書 昭和61年)
  もちろん、医学は彼の知識の一部にしかすぎない。
ほかの作品はいろいろな側面から、
彼の教養が大陸的なものであったことを示している。
たとえば「日本挽歌」(5 七九四)の前にのせられた無題の詩は
上官だった大伴旅人の妻が死んだ時に、
それを悼(いた)んで作った悼亡詩だが、
この詩およびその序文の前半は、
濃厚に仏教思想によっていろどられている。
人生の無常を彼はさまざまな故事をひくことによって語り、
結論として浄土欣求(ごんぐ)を述べる。
このように仏教的な作品を書くことは
万葉集の中でも類例がないことで、
この異質さはやはり彼を独特なものと考えさせるのである。
 もう一つ、この序文の後半にとくに顕著にみられる特色は
儒教的な思想である。
その面から捉えた婦人の死を、
中国古来の伝統的な哀悼文の形式によって語っており、
彼における儒教的教養もまたいかに深かったかを、
雄弁に物語っている。
そして、この儒と仏との二大要素は、
ほかの彼の作品でも大きな特色をなしていて、
たとえば
「俗(よ)の道の、仮(かり)に合ひ即ち離れ、
 去り易く留(とど)まり難(がた)きを悲しび嘆ける詩一首、幷せて序」
(5 八九七の前)の中でも、
「故(かれ)知る、
 引導は二つなれでも悟(さとり)を得るは惟(これ)一つなるを」
といっている。
この「二つ」とは儒教と仏教とで、
二教は人を教え導く方法は別だけれども、
結果として悟りを得ることは同じだというのである。
 万葉集に歌人多しといえども、
このように仏教や儒教の思想を語る人はほかにいない。
憶良を特異な知識人と考えざるを得ないのだが、
さてそのような独特な出生による特異な歌人だと考えるとき、
彼の文学的特徴をどのようにいえばよいのか。
実は彼はほぼ臨終の歌と思われるものを作っている。
有名な、

  士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語り続(つ)ぐべき名は立てずして (6 九七八)

がそれだが、その「士」として世にあることを祈願すること、
そこからうまれた表現が彼の文学だということができるのではないか。
この一首が死に先立つわずかの時期にかかれた、
人生を総決算するかのごとき作であることが、
いみじくも象徴的であるように、
彼は「士の文学」の書き手だったと思われる。
「士」とは中国で貴族階層をいうことばだが、
一方日本語の「をのこ」は男子という意味である。
男子として生き、栄達をとげて士としてあること、
その理想の中からうまれたのが彼の作品であった。
 いうまでもなく比喩的、図式的ないい方だが、
和歌は女的なものであった。
いや今日もありつづているといってよいだろう。
紀貫之が『古今集』の序文で嘆いたことも、もっともなことであった。
この、抒情的、情念的なジャンルに対して、
漢詩を男性的、思索的な表現形式だということができるだろう。
中国の官人階層で行われた詩は、まさにそうした男子の文学であった。
男子として生きる、
その上から和歌形式において志を述べるというタイプを
ほかの万葉歌人の誰彼の上に当てはめて考えた時、
憶良の特異性はまことに顕著であろう。
   二
 士として生きることは、とりわけ世の中における問題であった。
だから世の中をどう生きるかという倫理を
彼が問題としつづけることは、当然であろう。
その一つの場合が、
かの「貧窮問答の歌一首」(5 八九二・八九三)である。
 この作品は丹比県守(たじひのあがたもり)に献上されたと思われる。
彼が当山陰道の節度使(せつどし)として、
かつて憶良が国司をしていた伯耆(ほうき)などの国々を統管し、
民情にもじかに接するところがあったからだが、
とするとこの一篇は民衆の苦しみを語ることに
主題があるとみることができる。
これも読解の一つの正しい側面であろう。
しかし、これをライトモティーフとしながら、
右に述べたような憶良の表現者としての立場は、
まぎれようもなく存在している。
  一体に、人間の貧しさを描くにはさまざまな方法があろう。
いかに衣食足りていようとも
心の飢えを捨てがたいという貧しさもある。
人間ついに死をのがれがたいという
貧弱な生物でしかないと考えた時の貧しもある。
もちろん金銭的にみたされない貧しさもある。
これらさまざまな貧しさに対する表現は、それぞれ別のはずである。
 そうした中で、憶良は「士」としての貧しさを歌った。
そのゆえであろう。
この一篇は「問答」の前後半の中間に、一種の感想を挿入する。

  天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 
  日月は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 
  人皆か 吾のみや然る わくらばに 
  人とはあるを 人並に 吾も作れるを

  彼によれば「貧窮」とは明るいはずの日月が
身の上に照らないことに起因する。
そして貧窮である「吾」は他人との比較において
「貧窮」でることを確認する。
このあたり、おびただしい「人」ということばは驚くべきではないか。
「人皆か」「人とあるを」「人並みに」と。
もちろんこれは前半部で、

  我を措きて 人は在らじと 誇ろへど

というのと呼応している。
全体としてみちみちている人間なるものへの照準は、
異常といわざるをえない。
 しからば人間とは何か。
右にも「人並に 吾も作れるを」というように、
「作る」こと、なりわいに生きることであった。
人それぞれに生業にいそしみ、
その中でりっぱに生きることが人間たることの条件であって、
それは憶良自身にしてみれば、
さしずめ官僚としての日の勤めを行うことであった。
すなわち、彼は官僚としての道に行き、
その理想を「士」に求めたのだが、
その中にここに語られる如き状態が「貧窮」だというのである。
「我を措きて 人は在じと 誇」ることは、
まさに士としての誇りに生きることであった。
 その上でかく貧窮を引きうけてしまうことの拙なさを彼は嘆く。
とりわけて拙ないことは、家族を十分に養えないことであった。
後半部で述べる貧窮は着るに物なく、
父母、妻子が身を横たえるばかりの飢餓である。
衣食住の欠乏、
こうしたもっとも日常的なものにおいて
人間としての誇り高さが試されているのであろう。
つまりは生業のレベルの問題だから、
彼は最後にまたこう言わざるをえない。

  楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ

と。
  人間としての悲惨さにおいて士の貧窮がきわまるということは、
もうこの貧窮が単に寒さや飢えという肉体に属するものを意味しないこと、いうまでもないだろう。
これらの結果にすぎないのである。
もっとも重要なことはその根幹にある、人間の生き方であった。
その拙なさを貧窮というとき、
この「窮」は新たに重要さをましてくる。
つまり、中国において立身出世することを「達」といった。
その反対が「窮」であった。
栄達することなく、貧窮の中に閭巷(りょこう)にあることの嘆きが、
この「貧窮」だったといえよう。
  すでに私も語り、多くの人々も語っているであろうように、
「貧窮問答歌」の反歌が、

  世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば (5 八九三)

という、この「やさし」は「士」としての自らを恥じたことばであろう。
「やさし」とは恥ずべきであるとの意だが、何が恥ずべきなのかは、
以上のような文脈を辿ってくると、歴然としているのではあるまいか。
栄達することなく、貧困の中にあることは、
人間として恥ずべき状態であった。
それを、「士」だと自らを考える自覚に照らし合わせてみると、
明らかに「やさし」いのである。
(『万葉のことばと四季』中西進 角川選書 昭和61年)
」は、後日転記しますφ(..)
昨日は、父が歯科に通院したので送迎していました。
公園を歩いていると父が斜面を上がっているのを見ました。
父も山が好きで私よりもいろんな山を登っていました。
今年9月に88歳の米寿を迎えます。
このように頑張っているのは、
5月に伯母の1周忌に徳之島へ行くためでもあります。
私は、主治医から飛行機に乗ることを止められていますので
同行することはできません。
今回は、一人旅にとなり、徳之島だけでなく
生まれた奄美大島にも行く計画を立てています。
そんな中、弟(叔父)が弁膜症で入院しました。
昨日、手術の予定だったのですが、炎症反応が見られ
原因が分かるまで延期になったそうです。
木曜日に見舞いに行った父は叔父の状態に顔を曇らせていました。