2019年4月4日木曜日

穏やかな朝

 今朝は、冷たい風もなく、青空が広がっていました。
万葉集はいいなと思ったきっかけは
犬養孝先生の話をテレビかなにかで見たことがきっかけだったと思います。
犬養先生が朗々と歌を読まれると
意味は分からなくても万葉の世界に導かれるような気がしていました。
和歌(倭歌)は、歌とあるように声に出して読むと心に響いてくると思います。
犬養万葉記念館
館長日記「平成31年4月1日 新元号の発表に当たり」に
4月1日は、くしくも犬養先生の誕生日(明治40年)だったことが書かれていました。
犬養先生のご著書から
大伴旅人の筑紫での生活について書かれた文章を転記しますφ(..)
大伴旅人 一 ――筑紫の生活

 聖武天皇の神亀(じんき)から天平の初年にかけての数年間は、
一見、歌壇は平城京から筑紫(九州)に移ったかの感があった。
神亀4、5年(727、728)ごろ、
大伴旅人が太宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任し、
部下には山上憶良が筑前国守として赴任していた。
二人の歌、七、八十首の大半は筑紫での作であって、
生い立ちも、性格も、教養も、
まったく相反する二人の歌人が筑前(いまの福岡県)にいたことは、
相互に反撥しあうところがあって互いに
独自の個性を磨くこととなったのではないかとする説(高木市之助博士)も、
もっともと頷けるところである。
すぐれた二人の歌人を中心として、
いわば筑紫歌壇のごときものが形成されたといってもよい。
(『万葉の歌びとと風土』犬養 孝 中央公論社 1988年)
 大伴旅人は筑紫に赴任するとすぐ愛妻を失った。
それは旅人が63、4歳の頃であった。
憶良はその五つ年上にあたる。
 旅人にとっても、憶良にとっても、ともに老年であるし、
平城の京から海路30日の「あまざかるひな」ではあるし、
共に望郷の思いに駆られるやりきれないものであった。

  わが盛り また変若(をち)めやも ほとほとに 奈良の京(みやこ)を 見ずかなりなむ (巻三―331)

  沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降りしけば 平城(なら)のみやこし 念(おも)ほゆるかも (巻八―1639)


の旅人の歌を見れば、海路30日の距離感は片時も離れないものであったことがわかる。
わたくしは、冬の日、飛行機で飛んでいって、
都府楼(とふろう)跡の礎石に立ったことがあるが、
ほどろほどろに積もる雪げしきを前にして、
はるばるの思いの、胸にしみるものがあった。
その上、筑紫に着くとすぐ、愛妻を失ってみればどうであろう。
神亀五年(728)六月二十三日に、

  世の中は 空しきものと知る時し いよよますます 悲しかりけり (巻五―793)

とうたう旅人の心も、そのままにわかるではないか。
旅人が愛妻を失ってまもなく、
おそらくは、歌さえも作れないくらいの衝撃のなかで、
憶良が、上官の旅人の気持になりかわって作った思われる歌に、

  悔しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを (巻五―797)

  大野山 霧立ちわたる わが嘆く おきその風に 霧立ちわたる  (巻五―799)

とあるのも、都府楼背後の大野山に、大きく動く霧さえも、
在りし日の亡妻の思い出をひそませた、
深い吐息以外のものではなかったのだ。
この思いは、天平二年(730)十二月、旅人が大納言となって、
佐保の家に帰ったときも変わることはない。
旅人が、九州で讃酒歌十三首をよみ、その中に、

  なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ (巻三―343)

とあるのも、日本人の現世享楽思想がうたわれているなどというものではなくて、
深い悲しみの、棄てばちの趣さえある嘆きの声でなければならない。
 旅人が、管轄下の肥前玉島川(もと松浦川)に遊んで、
「……花の容双(かほなら)び無く、光(て)れる儀匹(すがたたぐひ)無し。
 柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に発(ひら)く」女人を見て、
神女かと空想し、その神女と恋をしたらどうなるか、
遂に、玉島川の上流の景観の中に、

  漁(あさり)する 海人(あま)の児どもと 人はいへど 見るに知らえぬ 良人(うまびと)の子と (巻五―853)

と男が訴えれば、
  春されば 我家(わぎへ)の里の 河門(かはと)には 年魚児(あゆこ)さばしる 君待ちてかに (巻五―859)

と女人はうたって、
「松浦河に遊ぶ序」の松浦仙媛(やまひめ)の歌11首に、
恋のユートピアを展開して見せるのも、
また、いまの佐賀県東松浦郡浜玉町浜崎から、
西方唐津市にかけてある虹ノ松原の後方、
鏡山(ひれふりの嶺)にまつわる松浦佐用比売(まつうらさよひめ)の悲恋の物語によって、
   遠つ人 松浦佐用比売 夫恋(つまごひ)に 領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名 (巻五―871)

に始まって、「最々(いといと)後の人追ひて和ふ二首」の、

  海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用比売 (巻五―874)

  行く船を 振り留(とど)み兼ね いかばかり 恋(こほ)しくありけむ 松浦佐用比売 (巻五―875)

に終る五首の歌に、唐津湾の好風土にふさわしい浪漫の世界を創作してみせるのも、
旅人の日ごろの教養、道教的・中国文芸的ユートピアの思想などにもとづく上に、
亡妻思慕のやる瀬なさのはけ場のあらわれといわねばならない。
旅人の大宰府の官邸の位置は、はっきりとわからないけれど、
都府楼(とふろう)跡西北の八幡社のあたりといわれる。
そこには小字内裏(だいり)といわれるところで、
旅人はこの官邸の庭に、当時珍しい白梅をたくさん植えていたらしい。
旅人は、天平二年(730)一月十三日、年66歳の時、
九州全土の長官を自邸に集めて、「梅花の宴」を催している。
「時に初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、
 梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、
 蘭(らん)は珮(はい)の後の香を薫らす」
と序の一節にある。
その時、旅人は、

  わが苑(その)に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来(く)るかも (巻五―822)

とよんでいる。
風雅・風流の貴族の最たるものではないか。
この時、憶良は、

  春されば まづ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (巻五―818)

とよんでいる。
旅人にくらべて、ひとりだけで、この梅を見てはいられないのだ。
二人の教養、生い立ちのちがいも、こんなところにも見られる。
この梅花の宴も、老年、大宮人の天ざかるひなのつれづれのあらわれと言わねばならない。
この宴の裏にも亡妻思慕のやりきれなさを除外することはできない。
 旅人は、天平二年十一月、大納言となって都に上り、
十二月に佐保の大伴邸に着いている。
旅人の亡妻思慕の心はつのるばかりで、
往路、妻とともに見た備後の鞆(とも)の浦(現、福山市鞆)の「むろの木」を見れば、

  吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世(とこよ)にあれど 見し人そ無き (巻三―446)

とうたったことは、あまりにも聞こえている。
 旅人が、「京に向ふ時にちかづきて作る歌」というのに、

  京師(みやこ)なる 荒れたる家に ひとり宿(ね)ば 旅にまさりて 苦しかるべし (巻三―440)

とうたっており、佐保の家に帰り着いては、

  人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり  (巻三―451)

とうたっている。
旅人は、愛妻を筑紫で失った日から佐保に着いてまで、
愛妻思慕の思いは、青年のように絶える時はないのだ。
 ぼつぼつ佐保の家の梅の木も咲くころであろうか。

  吾妹子(わぎもこ)が 植ゑし梅の木 見るごとに こころむせつつ 涙し流る (巻三―453)

とある。
妻が佐保に在世のころ、梅一本の植え場所について話しあったなつかしい場面が、
彷彿としてそこにあらわれてくるのだ。
 手入れのしてない庭中の木々は、
木高く茂りに茂って、生の姿であることは、
旅人の胸にどんなにせつなく映ったことであろう。

  妹として 二人つくりし わが山斎(しま)は 木(こ)高く繁く なりにけるかも (巻三―452)

とうたわないではいられないのだ。
旅人は、都府楼で大和の吉野川をしのんで、

  わが命も 常にあらぬか 昔見し 象(きさ)の小川を 行きて見むため (巻三―332)

  わが行(ゆき)は 久(ひさ)にはあらじ 夢(いめ)のわだ 瀬にはならずて 淵にあらぬかも (巻三―335)

と望郷歌をうたったが、
旅人は佐保に帰った翌天平三年(731)七月二十五日、
67歳で、象の小川をふたたび見ることなく世を終った。
これが、人の世の常なのであろうか。
旅人が、筑紫で失った妻への思慕は終生消える時は無かったのだ。
旅人の筑紫の歌の底に流れているものは、
亡妻思慕の心よりほかはなかったのだ。
(…後略…)
(『万葉の歌びとと風土』犬養 孝 中央公論社 1988年)
いつものことですが、原文通りではありません。
また、誤字や誤変換があると思います。
検索してもヒットしなかったので絶版のようです。
図書館などでご一読ください。

頂巾・比礼(領巾)をつけた歌垣の女」(日本服飾史)

しま(島・志摩・山斎・山池)」(國學院大學 万葉神事語辞典)

大宰府史跡の成り立ち」(古都大宰府保存協会)
今朝の父の一枚です(^^)v
私が出会えなかったモズ♂に出会っていました。