2025年12月19日金曜日

青空にひこうき雲

今朝も青空が広がっていて、霜も降りていました
その青空をひこうき雲がスーッとのびている。
天気予報を見ると明日は、20度近くに気温が上がり
日曜日は雨……
公園を歩いていると病院から電話がありました。
午後から心臓リハビリですが、担当の理学療法士の方が体調を崩されてお休みしているそうです。
10月からリハビリを始める時に体調が悪くなったら休みましょうと話していました。
その時は、私もリハビリを休憩することにしています。
体調の悪い時は、休むという決断をしたいですね。

八雲会The Hearn Society の投稿(12月18日)

【持田の百姓 3】
#ばけばけ 第59回
夏目漱石『夢十夜』の「第三夜」を思い出した方もいらっしゃるでしょう。
ハーン(#小泉八雲)「日本海に沿って」(『知られぬ日本の面影』)に収められた怪談と物語の展開は共通していながら、最後の1文の違いによって、読後感が大きく異なります。
#ばけばけ手帖


で、以前、転記したことを思い出しました。
読み直すと脱字などがあったので、再度、転記しますφ(.. )
(まだ、あるかも……)
  夢十夜
     第三夜


 こんな夢を見た。
 六つになる子供を負(おぶ)つてる。 
(たしか)に自分の子である。
只不思議な事には何時(いつ)の間(ま)にか眼が潰(つぶ)れて、青坊主になつてゐる。
自分が御前の眼は何時(いつ)潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答へた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきは丸(まる)で大人(おとな)である。
しかも対等(たいとう)だ。
 左右は青田(あをた)である。
路は細い。
(さぎ)の影が時々闇に差す。
 「田圃へ掛つたね」と背中で云つた。
 「どうして解る」と顔を後(うし)ろへ振り向ける様にして聞いたら、
 「だつて鷺が鳴くぢやないか」と答へた。
 すると鷺が果して二声程鳴いた。
(『漱石全集 第十六巻 小品上』夏目漱石 岩波書店 1956年)
 自分は我子ながら少し怖(こは)くなつた。
こんなものを背負(しよ)つてゐては、此の先どうなるか分らない。
どこか打遣(うつち)やる所はなからうかと向ふを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あすこならばと考へ出す途端に、背中で、
 「ふゝん」と云ふ声がした。
 「何を笑ふんだ」
 子供は返事をしなかつた。

 「御父(おとつ)さん、重いかい」と聞いた。
 「重かあない」と答へると
 「今に重くなるよ」と云つた。
 自分は黙つて森を目標(めじるし)にあるいて行つた。
田の中の路が不規則にうねつて中々思ふ様に出られない。
しばらくすると二股(ふたまた)になつた。
自分は股(また)の根に立つて、一寸休んだ。
 「石が立つてる筈だがな」と小僧が云つた。
 成程八寸角の石が腰程の高さに立つてゐる。
表には左(ひだ)り日(ひ)ケ窪(くぼ)、右堀田原(ほつたはら)とある。
闇だのに赤い字が明(あきら)かに見えた。
赤い字は井守(ゐもり)の腹の様な色であつた。
 「左が好いだらう」と小僧が命令した。
左を見ると最先(さつき)の森の闇の影を、高い空から自分等の頭の上へ抛(な)げかけてゐた。
自分は一寸躊躇した。
 「遠慮しないでもいゝ」と小僧が又云つた。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、よく盲目(めくら)の癖に何でも知つてるなと考へながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で「どうも盲目(めくら)は不自由で不可(いけな)いね」と云つた。
 「だから負(おぶ)つてやるから可(い)いぢやないか」
 「負(おぶ)つて貰つて済まないが、どうも人に馬鹿にされて不可(いけな)い。親に迄馬鹿にされるから不可(いけな)い」
 何だか厭になつた。早く森へ行つて捨てゝ仕舞はふと思つて急いだ。
 「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だつたな」
と背中で独言(ひとりごと)の様に云つてゐる。
 「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
 「何がつて、知つてるぢやないか」と子供は嘲(あざ)ける様に答へた。
すると何だか知つてる様な気がし出した。
けれども判然(はつきり)とは分らない。
只こんな晩であつた様に思へる。
さうしてもう少し行けば分る様に思へる。
分つては大変だから、分らないうちに早く捨てゝ仕舞つて、安心しなくつてはならない様に思へる。
自分は益(ますます)足を早めた。
 雨は最先(さつき)から降つてゐる。
路はだんだん暗くなる。
殆んど夢中である。
只背中に小さい小僧が食付(くつつ)いてゐて、其の小僧が自分の過去、現在、未来を悉(ことごと)く照して、寸分の事実も洩らさない鏡の様に光つてゐる。
しかもそれが自分の子である。
さうして盲目(めくら)である。
自分は堪(たま)らなくなつた。
 「此処だ、此処だ。丁度其の杉の根の処だ」
 雨の中で小僧の声は判然(はつきり)聞えた。
自分は覚えず留つた。
何時(いつ)しか森の中へ這入つてゐた。
一間ばかり先にある黒いものは慥(たしか)に小僧の云ふ通り杉の木と見えた。
 「御父(おとつ)さん、其の杉の根の処だつたね」
 「うん、さうだ」と思はず答へて仕舞つた。
 「文化五年辰年(たつどし)だらう」
 成程文化五年辰年らしく思はれた。
 「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前(まへ)だね」
 自分は此の言葉を聞くや否や、今から百年前(まへ)文化五年の辰年のこんな闇の晩に、此の杉の根で、一人の盲目(めくら)を殺したと云ふ自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起つた。
おれは人殺(ひとごろし)であつたんだなと始めて気が附いた途端に、背中の子が急に石地蔵の様に重くなつた。
(『漱石全集 第十六巻 小品上』夏目漱石 岩波書店 1956年)

「明治41(1908)7月~8月 『夢十夜』」(夏目漱石年譜 東北大学附属図書館
 第二部 人間の分類の恣意的構築
 第八章 ナチ党とカーストの促進


 「1934年、ベルリン」つづき

 ナチスがユダヤ人その他の非アーリア人を非人間化する作戦のなかで採用した侮辱的な言葉の一つ――「劣等人種」を意味するウンターメンシュ――は、ニューイングランド生まれの優生学者だったロスロップ・ストッダードが使ったものだった。
ストッダートが1922年に出した著書の副題「劣等人種の脅威」が、ドイツ語版ではウンターメンシェンと訳されたのである。
ナチスはこの語を自分たちのものとし、この語ともっともよく関連づけられるようになる。
ナチスは、白人至上主義についてのストッダードの本を帝国内の教科課程の標準教材にし、1939年12月にはストッダードに総統官邸で、わざとよそよそしい態度をとるアドルフ・ヒトラーと私的に会うことまで認めた。
第二次世界大戦が始まってしばらくすると、ストッダードはナチスの強制不妊裁判に立会い、「科学的かつ真に人道的な方法でゲルマン人種中の最悪の系統を取り除いている」としてナチスを褒めながら、「強いて言えば彼らの判断は保守的すぎるくらいだった」と嘆いた。
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)
 マディソン・グラントはニューヨーク出身の著名な優生学者で、大統領のセオドア・ローズヴェルトやハーバート・フーヴァーなどと交流があった。
大西洋の反対側でナチ党が形成されつつあった1920年代、グラントはアーリア人至上主義に対する自分の熱意を、移民や結婚を制限する一連の法律の成立を助けることに向けた。
グラントの周縁化された人びとに対する軽蔑の度合いは、南部のジム・クロウ体制支持者のものをはるかに超えていた。
グラントは、「劣等の血筋」は「虚弱者または不適応者を除去する厳格な制度」のもとで断種かつ隔離されるべきだと主張した。
グラントの1916年の著書『偉大な人種の消滅』は、好ましくない人間の遺伝子プールを清めるべきだとする狂信的な声明だったが、そのドイツ語版はヒトラーの図書室で大切に保管されていた。
ヒトラーはグラントに直々に感謝状を出し、「本書は私の聖書」だと述べた。
 ヒトラーはアメリカを羨むと同時に感嘆もし、遠くからよく調べていた。
アメリカが偉業を成し遂げたのはアーリア人種のおかげだと考え、ネイティヴ・アメリカンに対してジェノサイドに近いことをしたのち居留地に追いやったことも称賛した。
ヒトラーは米国が「何百万ものレッドスキンズ〔先住民を指す差別語〕を仕留めて数十万人まで減らした」ことも気に入っていた。
また米国の1924年移民制限法を「人種浄化事業の見本」と見なしていた、と歴史家のジョナサン・スピロは書いた。
ナチスは、アメリカに下級カーストに属するアフリカ系アメリカ人をリンチで殺す慣習があり、たいていはその際にお約束の拷問や身体の一部の切断が行なわれるのを知って感銘を受けた。
ヒトラーは、アメリカが「大量死の直後にも断固として無実であるという態度でいる要領を心得ている」ことに特に驚嘆した。
 ヒトラーが権力の座についた頃には、米国は「単に人種差別のある国ではなかった」とイェール大学の法制史学者、ウィットマンは書いた。
「米国こそが人種差別主義国家の筆頭だった――ナチスドイツさえもが、アメリカを手本として頼りにしていたほどだった」。
アメリカ人の多くは気づかなかったかもしれないが、ナチスドイツのほうは類似に気づいていたのである。
 というわけで、1934年6月のその日、ドイツで前例のない法律の内容を検討していた17人の官僚や法学者は米国を詳細に調べていた。
下準備は十分だった。
出席者の一人のハインリヒ・クリーガーは、アーカンソー大学の交換留学生としてアメリカ南部で勉強をしたことがあった。
南アフリカにも2年間滞在し、外国の人種制度についての論文をいくつも書き、今はちょうど『合衆国における人種法(Race Law in the United States)』として2年後にドイツで出版される本を書き上げようとしていた。
ナチスの法律家たちも米国法を調べてあり、逃亡奴隷の裁判から、プレッシー対ファーガソン裁判判決〔人種隔離を合憲とした1896年の連邦最高裁判決〕を経てその後も「アメリカの最高裁判所は、ナチスのものと見分けのつかない主張をする南部諸州の申立書をまじめに検討した」ことも知っていた、とウィットマンは述べた。
 見本を探すなかで、ナチスはオーストラリアや南アフリカなど白人が支配する国を調べていたが、「雑婚禁止法の見本を世界のほかのどこにも見つけることができなかった」とウィットマンは書いた。
「ナチスが圧倒的に関心を持ったのは、アメリカ合衆国が示す「古典的な例」だった」

 …つづく…

(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)
今朝の父の一枚です(^^)/
明日は、父の通院(受診前の血液検査と尿検査)。
日曜日は、雨の予報なので散歩に行けないかも…

朝ドラ「ばけばけ」(59)第12週「カイダン、ネガイマス。」
で、トキが語った「子捨ての話

 日本海の浜辺で

 十

 昔話は一つ聞くうちにまた一つ別の話が思い出される。
今晩私は不思議な物語を次々と聞かされた。
いちばん胸にこたえたのは私の連れが突然思い出して話してくれたこんな話で、出雲(いづも)の民話である。

  昔、出雲の持田浦(もちだのうら)という村に百姓がいた。たいへんな貧乏暮しで子供が出来るのをおそれていた。それで子供を生むたびに川へ流してしまった。そして世間には死産(しざん)だったと言っておいた。それはある時は男の子で、ある時は女の子だった。しかしいつも子供は夜、川へ投げこまれた。六人はこうして殺された。
  しかし歳月(としつき)が経(た)つうちに、その百姓もすこしは暮しが楽になり、土地を買い、金を貯(た)めることも出来た。そしてついに妻に自分の七番目の子供――男の子が生れた。
  すると百姓は言った、「わしらもいまは子供を養えるし、わしらも年を取ると息子に助けてもらわんといけん。それにこの子は可愛いげなええ子だが。ひとつ育ててみらか」
  そしてその子はすくすく育った。そして毎日毎日かたくなな百姓はわれながら自分の心根(こころね)の変化に驚きのつのるのを覚えた。というのも毎日毎日、息子にたいする可愛さがつのるのが自分にもわかったからである。
  ある夏の一夜、百姓は息子を腕に抱いて庭へ散歩に出た。小さな赤ん坊は五ヵ月になっていた。
  大きな月が出て、夜はまことに美しかった。それで百姓は思わず大きな声で、
 「ああ、今夜めずらしい、ええ夜だ」
  と言った。するとその子が、下から父親の顔を見あげて急に大人(おとな)の口を利いて言った。
 「御父(おとっ)つぁん、わしを仕舞(しま)いに捨(し)てさした時も、丁度今夜(こんや)の様(よ)な月夜だたね」
  そしてそう言ったかと思うと、子供はまた同(おな)い年のほかの子たちと同じようになり、もうなにも言わなかった。

  百姓は僧になった。

(『明治日本の面影』小泉八雲著、平川祐弘編 講談社学術文庫 1990年)