2025年12月15日月曜日

寒いといっても

 雨があがり風が冷たいのですが
まだ氷がはったのを見てないですね…
予報では金曜日くらいからまた気温が上がり
このまま暖冬になるのかな?
向こう3か月の天候の見通し 全国 (12月~2月)」(気象庁)

温暖化なのに大雪?原因は日本列島の“露天風呂化”」(NHK 12月14日)
余震が続いていますね…
後発地震注意報の呼びかけの期間は16日午前0時まですが、
人間の時間と地球の時間には大きな隔たりがあります。

「北海道・三陸沖後発地震注意情報」について〟(気象庁)

青森県東方沖 地震発生から1週間 専門家「今後も備え必要」〟(NHK)

後発地震注意情報 なぜ1週間?今後の行動は?」(NHK 12月14日)
12月14日~15日は忠臣蔵討ち入りの日だとされています。

浮世絵EDO-LIFE「べらぼうの世界 敵討ち!?歌麿が描く 大騒ぎの大掃除

歌舞伎や浮世絵などで江戸庶民に大人気の演目、題材でした。
私も昔は、この時期、テレビなどで忠臣蔵が放送されるとよく見ていました。
しかし、いろいろ歴史を知るにつれて浅野内匠頭の刃傷沙汰に巻き込まれた赤穂浪士が気の毒になり
さらに吉良上野介(義央)がドラマなどで描かれているような人物なのか疑問をもつようになりました。
その疑問に答えてくれたのが杉浦日向子さんの
私、忠臣蔵はわかりたくありませんという話」(『お江戸暮らし』ちくま文庫)

2022年12月15日に転記したのでよかったらご覧下さい。
昨日、記事を読み直してビックリ!
なんとまるまる1行も抜けていました。
あわてて追記したのですが、このように抜けたり、誤記・脱字などをすることがよくあります。
ばけばけ(56)第12週「カイダン、ネガイマス。」
お寺でお祓いをしているときや住職の誘いにトキの顔の変化が凄かったですね
台詞がなくても体全体でトキの喜びを表現していました(*^O^*)

杉浦日向子さんも怪談好きです。
オススメの1冊は『百物語』(新潮文庫)
公式サイトで「作家自作を語る」を聞くことができます!
漫画は転記できませんので……
 弐 江戸のくらし
 お江戸の妖怪めぐり


 江戸のころの妖怪には、都市型と村型がいるんです。
まず人との係わり方が決定的に違いまして、村型の妖怪っていうのは、地域の中で人間と棲み分けしてて、妖怪が出るのは時々なんですね。
妖怪の住んでいるテリトリーに人間が入った時に、祟りをなすとか、驚かすとか、悪さをする。
あるいは妖怪のなかでもちょっとお茶目なやつとかが、人の住んでいる場所に出張してくるわけです。
それに較べると、都市型の妖怪っていうのは人間と渾然一体なんです。
というのも、江戸の町がもともと妖怪の住処を切り開いたところだから、自己主張のつよい妖怪が、後から新参で乗り込んできた人間に対して「ここは我々の昔からの土地である」ということを主張するわけですね。
ですから本当に、隣り合った日常の中に超常現象が起こり得るんです。
(『うつくしく、やさしく、おろかなり——私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年)
 例えばもしかすると、昨日雇った下女が妖怪かもしれないんですよ。
その下女が妖怪で、彼女を取り返すために別の男の妖怪がゴタゴタ(今でいうとポルターガイストかな)を起こすっていうのがいわゆる「池袋の下女」っていうやつです。
夜、家に石が降ったりするんです。
バラバラッて降ってくるんだそうです。
まさしく「俺の女だから彼女を返せー!」っていう感じなんですって。
 江戸で一番頻繁に妖怪が出たのは、町と村との境界ですね。
つまり都市対自然といいますか。
そのせめぎあいのところです。
 有名な本所七不思議とか、麻生の七不思議がその典型です。
麻布七不思議の「がま池」っていうのは実は今でも残っていて、竹やぶがあったり、やぶ蚊がウヨウヨいたりする鬱蒼とした池が、元麻布の高級マンションに囲まれるように存在しているんです。
怪しい雰囲気がプンプン漂っていますよ。
東京のど真ん中でも、こんなところがあるですねえ。
 こういうところに妖怪が頻発したというのは、人間の側の罪の意識かもしれません。
「こんなことまでして宅地にしていいんだろうか」っていう、開発に対する罪悪感が江戸中期ぐらいからもう既に出始めてきたのでしょう。
 江戸の人口は中期になって爆発的に増えて、最初は四十万人ぐらいだったのがなんと百二十万まで増えちゃうんですね。
一挙に三倍ですから、住宅難ということで本所や麻布などの郊外にどんどん宅地を増やしていく。
怪談、妖怪譚などが流行ったのはちょうどその間なんです。
ちょっと仲間が寄り集まると、お酒飲みながらこわい話しようっていう百物語怪談会も江戸中期以降にブームになってます。
「これ以上の侵略を食い止めないと大変なことになる」という意識が自然界には働いている、というふうに江戸の人達がウスウス感じとっていたんでしょうね。
 町と村との境界域から町の中心部、神田とか日本橋に近づいていくとどうなるかといいますと、境界に出没するような大物の妖怪は祠(ほこら)の収められてしまいます。
つまり〝神〟として手なずけられちゃうっていうんですか。
動物園じゃないですけど、檻入りの手乗り妖怪になっているんで、安全なんですね。
御賽銭入れて、御供物あげとけば、まあ祟りはないだろうっていう。
 昔から「伊勢屋稲荷に犬のクソ」って言われるぐらい、江戸にはお稲荷さんが多かったのはそれでなんです。
 青山通り沿いにある豊川稲荷はその番頭格なんですね。
お稲荷さんも生き残るのは結構大変だったんですよ。
というのも、お稲荷さんは「意成(イナリ)」に通じる現世利益の契約神でして、よく御利益があるとマスマス大きくなっていくんですね。
ですが、小さくて微力なお稲荷さんは、こういう強力なお稲荷さんに吸収されていっちゃんです。
豊川稲荷はかなり強力な妖怪を祠化したお稲荷さんなんです。
 境内には熊ぐらいの大きな狐が二匹いるし、ヘンな顔した狐や、ちっちゃくて可愛い狐がたくさんいます。
場所柄か、芸能人や花柳界に人に人気があるんですけど、真夜中に訪れるのが特にオススメです。
和服美人が一人でお参りに来ていたりして、やっぱり一種独特な雰囲気があると思います。
 じゃあ、江戸の中心から妖怪がいなくなっちゃったのかというと、そんなことはありません。
とにかく江戸は、妖怪と人間が常に渾然一体になっていたんです。
野性味溢れる荒ぶる妖怪こそ封じられましたが、ごく些細なものがたくさんいました。
私も描いたんですけど、例えば「酒壺の話」なんていうのは、飲み残しのお酒が気になった人を、徳利の化け物が徳利の中に取り込んでしまうんです。
 それは、江戸に住む人たちの心の中に、どこか切ないような、ちょっとした引っ掛かりがあって、何かが自分にアプローチを掛けてくるような意識があったからなんだと思います。
 江戸はたくさんの人間が寄り集まった〝ストレスシティー〟でしたからね。
もともと故郷があって江戸に出てきたとか、あるいは故郷にいられない事情があって江戸に出てきたという、行き場のない人が路地裏の長屋といわれるようなところに肩寄せあって生きていました。
江戸は一大消費都市ですから、そこに行けば何とか食っていけるだろうっていうような思いで、各地から続々と人が押し寄せてきたんです。
今で言うと、港区、千代田区、中央区の三区に少し緑を足したぐらいの地域です。
あの狭い区域に百二十万人って、ちょっと想像を絶すると思いませんか。
しかも、そのうちの八割が武家地や寺社で、二割弱の所に人口の半分の町人が住んでいたわけです。
そして彼らの運命はほとんどゆくゆくは無縁仏になってしまうというものでした。
とっても寂しい人生なんですね。
江戸の町に些細な妖怪が多いのは、ちょっとした心残りがあって、成仏できなくて、現世に引き止められちゃうんじゃないかっていう、そういう拠り所を持てない気持ちが人間の心にあったということだと思うんです。
 また、やや特別な存在として橋が挙げられます。
これも描いたことがあるんですけど、橋の裏側に逆に鬼がぶら下がっているとか、裏側に妖怪が住んでいる場合がかなりありました。
 橋の上っていうのは、本来無いところに道を通した、非現実な空間なんです。
また、彼岸と此岸を結ぶっていうのは、あの世とこの世を結ぶっていう意識ともつながりますから、生死の境界線をつなぐっていう、日常とかけ離れた空間になる。
特に水面から高い高橋(たかばし)が出やすいんです。
渡し船で渡ろうにも崖っぷちで渡れない、そういうところに無理やり架けたものですから。
あり得ないところに技術でもって強引に架けてしまったという人間の横暴さですよね、自然に対する。
 妖怪が人々の間に存在していた江戸の頃っていうのは、わからないものはわからないままでいいじゃないかという姿勢だったんです。
わざわざ理由付けする意味はないんだと。
「人間も百年生きてみればちょっとは妖怪のことがわかるかもしれない」って柳田国男のお父さんの松岡操が言っているんですけれども、たかが六十年ぐらいの存在で妖怪を理解しようっていうのは非常に傲慢なことである、ぐらいに思っていたわけです。
例えば、江戸の随筆の『甲子夜話(かっしやわ)』(松浦静山)とか、『耳袋(みみぶくろ)』(根岸鎮衛<やすもり>)の中での妖怪の話っていうのは必ず「さもありなん、ソウデアロウ」、半信半疑っていうのが結論なんです。
 江戸では、妖怪みたいなわからないもの、不思議なものがあった方が自然だったんですね。
そもそも人間に見えるもの、聞こえるもの、感じられるものっていうのは、世の中の現象のほんの一部分でしかないっていう認識なんです。
ですから、どこにでも妖怪がいた江戸の社会はとても謙虚でした。
現代よりもはるかに文明と自然が、共生っていうか、調和していたと思いますね。
 (「SINRA」1995・8)
(『うつくしく、やさしく、おろかなり――私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年)

2005(平成17)年7月22日に46歳という若さで江戸時代に旅立ってしまいました。
寿命まで江戸時代に合わせなくてもよかったのに残念です。
先週の朝ドラ「ばけばけ」第11週「ガンバレ、オジョウサマ。」
ヘブンが自分の過去をリヨや錦織に語っていました。
ラフカディオ・ハーンと下宿の料理人アリシア・フォリー(マティ)が、結婚したのは1874年6月14日です(小泉八雲記念館「年譜」)。

1967年6月12日、最高裁で「異人種間結婚を禁じる州法は合衆国憲法に違反する」(ラヴィング対バージニア州裁判)という判決が下されました。
  終章 ナチスの目から見たアメリカ
 人種主義の世界史におけるアメリカの位置づけ
 

 まず何よりナチスの目からアメリカを見て気づくことは、聡明な学者ならばすぐにわかっていても、世間ではまだよく呑み込めていないことだ。
アメリカの人種主義の歴史はジム・クロウ法下の南部の歴史にとどまらない。
アメリカにおける人種法を、人種分離の法律とイコールで考える傾向はあらためなくてはならないし、ナチス・ドイツと南部諸州の「鏡像(ミラーイメージ)」の先に目を向けなくてはならない。
アメリカにおける人種の歴史と聞いて、プレッシュー対ファーガソン判決やブラウン対教育委員会判決、隔離政策や勇ましい公民権運動を思い浮かべるならば、実際に起きていたことの壮大な全貌を見抜けぬままになりかねない。
1930年代のヨーロッパの識者はみな、黒人と白人の対立はアメリカにおける人種主義の歴史の一端にすぎないと知っていた。
(『ヒトラーのモデルはアメリカだった 法システムによる「純血の追求」』ジェイムズ・Q・ウィットマン著 西川美樹訳 みすず書房 2018年)
なるほどナチスがアメリカの黒人の処遇について触れるさいには、必ずと言っていいほど他の集団、とりわけアジア人やアメリカ先住民の処遇にも触れていた。
ナチスから見れば、「北方人種」のアメリカが直面するのは「二グロ問題」だけでなく、「モンゴル人」、インディアン、フィリッピン人、そのほか「入り込むと」するあらゆる非「北方人種」集団の問題だった。
その証拠に、20世紀のアメリカが人種主義の立役者であることは、南部の隔離政策だけでなく同国のより広範な組織的活動や他の法形式と関係していた。
とりわけ人種にもとづく移民政策、人種にもとづく二級市民の立場、人種にもとづく異人種混交禁止法といった国家による全米規模の計画と関係していた。
ナチス・ドイツが何より惹かれたのはアメリカの法のこうしたもろもろの面であって、ジム・クロウにかぎったものではなかった。
 これまで見てきたように、アメリカの法律はこうした面はナチスにとって強烈な魅力を放っていた。
これは実に不愉快な事実だし、人種主義の世界史上のアメリカの位置づけについて、過去の不愉快な事実と向きあうことを私たちに強いるものだ。
つまり20世紀初頭の合衆国は、単に人種主義を擁する国というだけではなかった。
いわば人種主義的法体系のまさに先頭をいく国――ナチス・ドイツですら注目し、感化されるほどの国だった。
デイヴィッド・フィッツジェラルドとデイヴィッド・クック=マーティンによる移民についての結論――「合衆国は、国籍や移民に関して露骨な人種主義政策を立てるうえで指導者(リーダー)である」――は、本書が調べた他の法領域にも同じく当てはまる。
20世紀初頭に、根深い白人至上主義と活発で革新的な法文化を擁した合衆国は、人種的法律の創設においてまさに最先端をいく国だった。
だからこそナチスが重視したわけで、しかもそれはナチスだけではなかった。
ブラジルもしかり、オーストラリアや南アフリカもしかり。
そして異人種混交禁止法をつくるためのモデルを探していたドイツの植民地行政官もしかりだ。
さらにナチスが南アフリカを旅の道連れと好んで呼んだとはいえ、1930年代前半に彼らが実際に引用した南アフリカの法律はごくわずかだった。
ナチスの圧倒的な関心は「典型例」、すなわちアメリカ合衆国にあったのだ。

 …中略…
 けれどもこの世界のなかでもアメリカは、ヒトラーが台頭した時代のリーダーだった。
これは事実であって、そこから私たちはどうにも逃れることはできない。
ナチスが幾度も引き合いに出したのは、アメリカの移民、市民権、異人腫混交禁止法の法律だった。
プロイセン覚書がとりあげたのは、アメリカのジム・クロウ法だった。
1934年6月5日の立案会議で議論すべく司法大臣が用意したのは、アメリカの法律に関する資料だった。
この会議の場で急進派が注目したのは、アメリカの法律だった。
「血の法」の先駆けとなったのは、異人種間の結婚をアメリカが犯罪としたことだ。
ナチスが1940年代に血塗られた活動に勤しんだとき再三引き合いに出したのは、アメリカの西部征服だった――ヒトラーが早くも1920年代にこれをとりあげていたように。
たしかにナチズムはアメリカで生まれてドイツに輸入されたものではないが、それでもナチスが人種秩序の構築に着手したときに、どんなモデルがあるかと真っ先に頼ったのがアメリカだったのは事実である。

 …後略…

(『ヒトラーのモデルはアメリカだった 法システムによる「純血の追求」』ジェイムズ・Q・ウィットマン著 西川美樹訳 みすず書房 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/
マガモは潜水が苦手というか「頭隠して尻隠さず」のスタイルが多いです(^_-)
マガモの潜水」(相模原市立博物館の職員ブログ 2025年1月5日)

 「地震と大雨」つづき 

 そのほかに台風の発生数と強さについても、同様の関係があります。
弱い台風は数が多く、スーパー台風のような強い台風はまれにしか派生しません。
雨の強さについても同じで、弱い雨は発生頻度が高く、災害をもたらすような強い雨は発生頻度が低いのです。
 このように地震や雨などの、現象はまったく異なっても、その発生数と強度または大きさは普遍的な共通の関係があるのは自然の不思議な点です。
なぜそうなるのかは分かりませんが、自然にはそのような側面があるのです。
 大地震も大豪雨も、発生頻度は低いのですが、それでもこれらが同じ場所で近い時期に起こることがあります。
前述の能登地方の二重災害は、そのことを如実に表しています。
 そしてこのような災害は決して例外ではありません。
2018年9月6日に起きた北海道厚真町(あつまちょう)で最大震度7を観測した地震の前日、関西国際空港を冠水させ、近畿地方に甚大な風水害をもたらした台風21号がこの地域を通過して、強い雨をもたらしています。
2004年10月23日に発生した最大震度7の新潟県中越地震の直前には、台風23号によってこの地域は100mmを超える大雨がもたらされています。
大雨で地盤が緩んだところに大地震が起こり、多数の大規模な土砂崩れが発生しました。
これらは低頻度現象が重なって発生することで大災害となったのです。

 …つづく…

(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)