昨日は、午後、買い物から帰ってくると空が暗くなってきたので
急いで洗濯物を取り込もうとしたら
父がすでに部屋干しをしていました(^_^)v
木の枝に枯れ葉が一枚、残っていると思ったら空蟬!
抜け殻になってもいつまでもしがみついてるのに感心します。朝ドラ「ばけばけ」(59)第12週「カイダン、ネガイマス。」
トキが語っていた「子捨ての話」は、読んだ記憶があります。
でも、トキが語るとただ怖いだけでなく人の情や哀しみが伝わってきます。
そしてトキの
「子捨ての話」 私 こうも思います。
何べん 捨てられても…
この子 同じ親のもと 生まれた。
この子の 親 思う気持ち… 強い。
それを知った…
この親 この子 大切に 育てる 思います。
こんなふうに読んでいなかった…
木俣冬さんの
〝「ばけばけ」髙石あかりの澄んだ歌声が響いた朝 子守唄は島根で調査し採取されたもの 松江歴史館が協力〟杉浦日向子さんの「私、忠臣蔵はわかりたくありませんという話」(『お江戸暮らし』)に
「吉良上野介の養子、左兵衛義周(さひょうえよしちか)、まったく、不幸の星としか言いようがありません」
と書かれていました。
江戸城から泉岳寺へ。歩くと見えてくる元禄赤穂事件の真相 東京の旅
〝空気〟に翻弄された吉良義周(よしちか)の悲運
幕府の判決は元禄16年(1703)2月4日に浪士たちへ伝えられ、その日のうちに全員が切腹となった。
実際には腹を切らず、三方に乗せた短刀をとろうと首を伸ばしたところを、介錯人が斬首するという方法がとられた。
同じ日、吉良左兵衛義周は幕府の評定所に呼び出され、大目付の仙石伯耆守から次のように申し渡された。
「浅野内匠頭家来共、上野介を討ち候節、その方、仕方不届きにつき、領地召し上げられ、諏訪安芸守へ御預け仰せ付くるものなり」
なんと、浪士が討ち入ったときの義周の対応がまずかったという理由で吉良家を改易され、義周は信濃高島城主・諏訪安芸守にお預け処分となったのである。
(『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』河合敦 青春新書 2024年) 驚くべき過酷な処分だ。
当時、義周はまだ17歳。
今で言えば高校1年生くらいだ。
そんな少年が、武装して大軍で襲ってきた浪士たちに対して、果敢にも長刀で立ち向かったのである。
討ち入り当日の義周の行動は極めて立派なものだった。
実際は浪士の方が手練れであり、義周は武林唯七(不破数右衛門だとも)に斬られ、右肩に深手を負い、目に血が入ってその場に卒倒してしまう。
気づいたとき、浪士は去ったあとだった。
とはいえ、武士にあるまじきどころか、武士たるにふさわしい行動だった。
だが、吉良家を改易にしなければ、忠孝好きの将軍綱吉、判官贔屓の民衆が納得しなかったのだろう。
つまり、幕閣は将軍と世論に迎合したのである。 それから一週間後の2月11日、義周は囚人駕籠に乗せられて江戸を出立し、信濃国高島に向かった。
警備が五十名つくという物々しさだった。
討ち入りの際に負傷した額や腕、肩はまだ治療中だった。
家臣としてつき添うことが許されたのは、左右田(そうだ)孫兵衛と赤穂浪士と死闘を演じた山吉新八郎の二人だけだ。
高島の地では一室に幽閉され、ひと月近くも衣服の洗濯を許されず、月代(さかやき)を剃り上げることも不可とされた。
自裁の可能性があるからだ。
このため伸びた髭などはハサミで切ったという。
なんともみじめな処遇である。
ただ、のちに待遇は改善され、高島城主も何度か義周のもとに見舞いに訪れるようになり、帷子の使用や手紙のやりとりも許可されるようになった。 翌年6月、米沢藩主だった実父の綱憲が42歳の若さで病没し、さらに8月には祖母の富子も62歳で没した。
親族の相次ぐ死に力を落としたのか、このころから義周はたびたび体調を崩すようになった。
疱瘡(ほうそう)に罹患したようで、頻繁に発熱を繰り返しては体中がむくんで衰弱していった。
持病の疝気(せんき<下腹部が痛む症状>)もひどくなってしまう。
こうして配流から3年後の宝永3年(1706)1月、義周は亡くなってしまった。
まだ21歳であった。
罪人ということもあり、遺体は埋葬されず塩漬けにされ、幕府の検死を待った。
検死役人は遺体を確認したあと、義周の遺骸を葬らず「取り捨て」にせよと命じた。
義周自身に罪がないのに、なんともむごい指示である。
ただ、遺体は遺臣たちの願いで土葬が許された。
こうして義周は諏訪の法華寺に埋葬されたが、幕府に遠慮したのか自然石の墓石が立てられた。
(『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』河合敦 青春新書 2024年)
諏訪の法華寺は、明智光秀と織田信長にもゆかりがあるそうです。
前回『ヒトラーのモデルはアメリカだった』から一部を転記しましたφ(.. )今日は、
第二部 人間の分類の恣意的構築
第八章 ナチ党とカーストの促進
1934年、ベルリン
第三帝国の初期、その後に起きる惨事をまだ世界が想像もできなかった頃、ナチス官僚の委員会が会合を開いた。
ナチ党が権力を掌握した今、ユダヤ人をアーリア人から隔離する厳格なヒエラルキーの導入について選択肢を検討するのが目的だった。
1934年の晩春の会合に集められた委員たちは、当時はユダヤ人の絶滅を計画しておらず、計画する立場にもなかった。
それは、今はまだ始まっていない世界大戦にもっと入り込んだ数年後にヴァンゼーで開かれた、ぞっとするほど冷血で壊滅的な会合で決定される。
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)
第三帝国の首都で開かれたその会合は非公開だったが、委員たちはこれを重要な会議と見なし、速記者に議事を記録させ、議事録を作らせた。
委員たちが席に着き、最終的にニュルンベルク法となるものの内容を検討するなかで、最初の議題は米国と、米国から得られる教訓だった。 議長を務めた法務大臣のフランツ・ギュルトナーは、会議の冒頭である資料を紹介した。
その資料は、米国が周縁化された集団をどのように管理して支配的地位にある白人市民を保護したかについての調査結果を詳述する法務省の資料だった。
会合に集まった17人の法学者や役人は、異人種間結婚と移民を規制するアメリカの純潔法について意見を交わした。
「第三帝国において人種差別主義をどう制度化するか」についての議論は、「アメリカがそれをどうやったのかを調べることから始まった」とイェール大学の法制史学者、ジェイムズ・Q・ウィットマンは書いた。 ナチスは、憎悪の種を自分たちの中に植え付けるのに部外者の助けを必要としなかった。
しかし第三帝国の初期、まだ正当性があるように見せかけることに関心があり、外国投資も期待していた頃、彼らは自分たちが構築したカースト制度の合法的な見本となるものを探していた。
そして人種分離と純粋性を達成するための計画を急いで進めるなかで、雑婚禁止法や人種に基づく移民禁止措置の面で米国が何世紀も先を行っているのを知っていた。
「われわれドイツ人にとって、北欧人種を持つ世界最大級の国が第三帝国のものと相当程度類似する人種法をどのように保持しているかを知り、理解するのは特に重要である」と、ナチスがドイツでの支配権を固めていた頃にドイツの通信社「グロスドイチャー・プレスディーンスト」は書いた。 西欧諸国は長らく、アメリカがすべての人が自由であると宣言しながらも、市民の一部はほぼ完全な隷属状態に置いているというパラドックスに気づいていた。
フランスの著作家、アレクシ・ド・トクヴィルは1830年代に南北戦争前のアメリカを旅し、「アメリカ社会の表面は民主主義的塗料で覆われている」と述べた。
ドイツは米国が人種的純粋性と優生学に執着していることをよく理解していた。
優生学は集団の推定された優劣に基づいて人間を格付けする偽科学である。
発明家のアレクサンダー・グレアム・ベル、自動車王のヘンリー・フォード、ハーヴァード大学の学長チャールズ・W・エリオットなど、著名なアメリカ人の多くが20世紀初めの優生学運動に加わっていた。
第一次世界大戦中、ドイツ人種衛生学会は「人種衛生分野の研究を後援し、理論的知識を実践に移すことへのアメリカ人の献身ぶり」を称賛した。 ナチスはアメリカの有名な二人の優生学者、ロスロップ・ストッダードとマディソン・グラントが示した闘争的な人種理論に特に関心を持っていた。
二人とも特権階級の出身で、北部で生まれ育ち、アイヴィーリーグで教育を受けた。
どちらもヘイトのイデオロギーを打ち出したことで今は悪名が高いが、当時はそれで評判になった。
このイデオロギーはヨーロッパの「血筋」を大雑把な序列に分け、東欧や南欧の人を「北欧人」よりも劣るし、北欧人種の純粋を脅かすと見なす「人種」である主にユダヤ人と「二グロ」の排除と抹殺を提唱した。
…つづく…
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)今朝の父の一枚です(^^)/
メタセコイヤがもうじき一気に葉を落としそうです。
「樹木シリーズ68 メタセコイヤ」(森と水の郷あきた)
「地震と大雨」つづき
ただし地震と台風や豪雨が連動するということではありません。
地震、台風、豪雨が多い日本では、大規模なものの発生頻度は低いとしても、長い時間のあいだにはほぼ同じ時期、同じ場所で重畳して起こることがあるのです。
日本はまさに災害大国なのです。
同様の災害は繰り返し起こります。
ですので激甚災害の記録を伝えていくことが重要です。
過去の災害の記録は、単に歴史の話ではなく、未来への安全指針なのです。
さらに豪雨については、新しい考え方の防災が必要となっています。
近年、強い雨の回数がだんだんと増加してきています。
これは気候変動に伴うものです。
多くの研究は気候変動とともに、前述と同様の横軸の雨の強さ、縦軸に発生数の対数をとったグラフの形が変わりつつあり、強い雨の頻度が増えていることを指摘しています。
豪雨については過去の経験に加えて、最新の情報に基づいた防災対策が必要となってきています。
私たちは気候の大変動の時代に生きているのです。
(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)
人間の時間の感覚は1週間くらいで区切りをつけたがるのですが
「後発地震注意情報 呼びかけ期間終了 国“備えは続けて”」(NHK 12月16日)











