天気予報で1月並みの気温になるとか
昨日まであんなに暖かったのに…
夕方、買い物に出かけるとなんか白い物がチラチラ舞っていた
雪かな?
「近畿 山沿い中心に3日夜から4日にかけて雪 交通影響に注意」(関西NHK)明治5年に12月3日が1月1日になりました。
「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(国立公文書館)
それだけでなく日本の伝統的な行事についても
新しい権力のしくみ
教導職・祝祭日制
…前略…
政府は大教宣布のような神道思想による公然の説教のほかに、神道思想および天皇崇拝にもとづく祝祭日制度を通じて、知らず知らずのうちに国民心理に深く天皇崇拝をしみ通らせていた。
まず明治元年に天皇誕生日を祝う天長節が制定され、明治4年には4月3日を神武天皇祭として国家の祭日とし、5年11月15日には、神武天皇即位の日と『日本書紀』に書かれている「辛酉(しんゆう)年春正月朔日」を太陽暦で明治6年1月29日と換算して、「神武天皇御即位相当」の祝日と定めた。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)ついで6年3月、神武天皇御即位の祝日は紀元節と称するとし、さらに同年10月14日、紀元節を2月11日と定めた。
『書紀』にいう神武即位の辛酉年1月1日を、太陽暦で1月29日または2月11日に「換算」することには、暦学上の根拠は全然ない。
これは換算を命ぜられた文部省天文局が、『書紀』の記載の干支(えと)により「簡法相立て」、と当局自身が明言しているとおり、便宜的にきめた日であった。 天長節・紀元節・神武天皇祭・新嘗祭(にいなめさい)などの国家的祝祭日がつくられると同時に、人日(じんじつ<1月7日>)・上巳(じょうし<3月3日>)・端午(たんご<5月5日>)・七夕(たなばた<7月7日>)・重陽(ちょうよう<9月9日>)という民衆の伝統的な五節句(ごせっく)は廃止された。
民衆的祝日では新年元旦だけが、天皇の四方拝(しほうはい)の日として国家の祝日とされた。
このことにつき「明治七年紀元節の後二日」の序文をもつ『開化問答』は、旧平(旧弊を代表する)をしてつぎのように言わせている。
「改暦(明治5年12月3日=6年1月1日)以来は五節句・盆などというたいせつなる物日(ものひ)を廃し、天長節・紀元節などというわけのわからぬ日を祝うことでござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜のふたの明く日というのは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり<日章旗をさす>)や提燈(ちょうちん)をださするのは、なお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡(りょうけん)が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を、しいて祝わしめるはもっとも無理なことと心得ます」 この旧平にたいして、開次郎(文明開化を代表する)が、五節句はいわれもない迷信、天長節・紀元節は合理的な祝日だと説明すると、旧平も、なるほどよくわかりましたというのが『開化問答』のしくみである。
明治13年ごろの東京でさえも、市民が天長節に自発的に国旗をかかげるものは少なく、巡査が戸ごと強制して歩かなければならなかったことが、帝国大学雇教師、ドイツ人ベルツを悲しませている。
しかし警察の力によってでも、こういう祝祭日が二十年、三十年とつづけられるうちに、それはいつのまにか国民生活上の習慣となる。
…後略…
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)
『開化問答』(日本語史研究資料 [国立国語研究所蔵])先日、見ることができなかった「京都市道路元標」は、大正9(1920)年に設置されたようです。
第8章 旧道を歩く
大正の道路元標
が、今まで挙げたものは、道路元標としては新しく、特殊な部類に属する。
マニアが探し歩いているのは、大正時代に設置された道路元標だ。
大正8(1919)年制定された旧道路法では、距離計測のために各自治体に基準となる標識を置くべしと決められた。
「宇都宮15km」などという距離表示は、この道路元標が基準点だったのである。
さらに大正11(1922)年には、道路元標の形状・規格・材料などが細かく規定された内務省令が発布され、各自治体の中心部に設置が始まる。
この段階では全国に1万2000以上の市町村が存在していたから(現在は1700程度)、道路元標もその数だけ設置されたことになる。
(『ふしぎな国道』佐藤健太郎 講談社現代新書 2014年) 道路元標は、縦横25cm角、高さは約63cmほどの直方体で、頭部が丸く削られた独特の形状をしている。
このため見慣れてくれば、車で走りながらでも容易に視認できるようになる。
ただし頭の丸まり方は、角を面取りしてあるだけのものから、ふっくらとパンのように盛り上がったものまでいろいろである。
道路元標の材質は多くの場合花崗岩であるが、コンクリートなどで作られたものもあるようだ。
正面に大きく「○○村道路元標」といった文字が彫り込まれており、背面に「大正○○年設置」などの文字が入っていることもある。 ただし昭和27(1952)年に新たな道路法が成立し、大正の旧道路法は無効となった。
このため道路元標は管轄する組織も法的根拠もなくなり、宙に浮いた存在となってしまう。
急速に道路整備や宅地開発が進んでいく中、存在意義を失った道路元標は次々と撤去されてゆく。
しかしごく一部、開発の波を逃れて幸運にも生き残っている道路元標を求め、マニアたちが各地を調査して回っているわけだ。
現在では熱心なマニアたちにより、設置された場所のリストがウェブに公開されている。
また現地調査で見つかった道路元標が、写真入りで紹介されていたりもする。
これによれば、存在が確認されている道路元標は全国で2000に満たないようで、残存率はせいぜい15%程度ということになる。
もちろん未発見のものもまだあるだろうが、1世紀の歳月は8割以上の道路元標を消し去ったのだ。
(『ふしぎな国道』佐藤健太郎 講談社現代新書 2014年)今朝の父の一枚です(^^)/
なんかカメラの設定をいじったみたいで画像がホンワカしている。
このイチョウの木ではないですが、
大きな木が伐採されていると残念がっていました。
「巻の四 鵼」つづき
すぎ去った応保(おうほう)の頃、二条院御在位の時代鵼(とらつぐみ)という怪鳥の皇居における啼(な)き声が、しばしば主上のお心をなやますことがあった。
先例によって、頼政をお召しになった。
五月二十日すぎの時分で、宵のうち唯一声啼いたぎり、後は声をたてない。
何かで目をつかれても分からぬ闇夜ではあるし、姿かたちも見えないので、何処を目あてに狙いをつけてよいか見当がつかぬ。
頼政は策をめぐらせ、まず大鏑矢(おおかぶらや)とって弓につがい、鵼の啼き声のした内裏(だいり<皇居>)の屋上へはなった。
鵼は鏑矢の音におどろいて空に飛びたち、しばらくの間声ひくく啼きさわぐ。
それを目標に二の矢の小鏑(こかぶら)をとってつがい、ひゅうとばかりきって放てばふっと手応(てごた)えして、鵼とかぶら矢と一緒になって前に落ちてきた。
これに宮中の人達はどよめきあい、主上の御感(ぎょかん)もひととおりではない。
…つづく…
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)








