風が吹いているのになかなか旅立つ決心がつかない綿毛がいました(^_-)
まだまだ余震は続くのかな?
「北海道~宮城県で震度4 津波注意報はすべて解除」(NHK)今日の朝ドラ「ばけばけ」(55)第11週「ガンバレ、オジョウサマ。」
ヘブンが、金縛りにあい
「ワタシ…オンナ ヒト… ミマシタ…。
ユ… ユウレイ。 Maybe….
ワタシ… ハハウエ…。
ハハウエ… モウイッペン アイタイ!」
と、もう一度、寝ようとしました。
1882年 32歳
12月12日、コルフ島の病院にて母ローザが永眠する(59歳)
(「小泉八雲の生涯」小泉八雲記念館) 2 アメリカ
「皮革製作所殺人事件」
…前略…
『シンシナーティ・コマーシャル』紙に移ってからの記事「奇妙な体験」も幽霊話で、のっぺらぼうを見たという娘の話が出てきます。
記憶力のよい、しかも話の上手なその娘が、ある夏の宵(よい)にこんな話を聞かせてくれました。
(『ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く』河島弘美 岩波ジュニア新書 2002年)
ある日の夕暮れ、わたしは用を言いつけられて、二階にある寝室のひとつに上がっていきました。そして、真っ白な服を着た、背の高い若い女の人が、黙って鏡の前に立っているのを見たのです。…前略…
『シンシナーティ・コマーシャル』紙に移ってからの記事「奇妙な体験」も幽霊話で、のっぺらぼうを見たという娘の話が出てきます。
記憶力のよい、しかも話の上手なその娘が、ある夏の宵(よい)にこんな話を聞かせてくれました。
(『ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く』河島弘美 岩波ジュニア新書 2002年)
こちらに背を向けているので顔は見えません。並はずれて背が高く、黒い髪は鏡の上の暗い影とひとつになって見分けがつきません。そうだ、鏡をのぞいてみよう、と思いつきました。そこで鏡を見ますと、映っているのは沈黙したままの白い長身の姿です。が、顔も見えません。わたしがその白い人影にさわろうとして近寄ると、まるでろうそくの炎が消えるように、鏡に吹きかけた息が薄れていくように、人影はすっと消えてしまいました。 この話の語り手である「健康で血色のよい田舎(いなか)娘」は、ハーンが一時期同棲(どうせい)していた混血女性だと考えられます。
ハーンがシンシナーティを去った理由はこの人との関係にあったと言われますが、詳しい事実は不明です。
ともかく、ハーンが不思議な話、恐ろしい話を好む人であったのはたしかでしょう。
これが第二の特徴です。
(『ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く』河島弘美 岩波ジュニア新書 2002年) コレラの流行期に
…前略…
子供を焼くには四十四銭しかからない。
近所の息子が数日前に火葬場で焼かれた。
少年がいつも遊んでいた小石はお日様をあびて以前のままそこにある……。
なんで子供は小石が好きなのだろうか。
小石は貧しい家の子供たちの玩具(おもちゃ)であるばかりか、どこの家の子供も人生の一時期には遊ぶものらしい。
たとえほかの玩具を充分与えられていようと、日本の子供はときに小石で遊びたがる。
子供心には小石は素晴らしいものであるらしい。
きっと素晴らしいのだろう、数学者の理解力をもってしても普通の石にまさる驚異はないというのだから。
(『心 日本の内面生活がこだまする暗示的諸編』小泉八雲著 平川祐弘 河出文庫 2024年)年歯(としは)のいかぬ悪戯(いたずら)小僧は小石をその外見(そとみ)以上のなにかだと思っている。
そう思うのはたいしたことで、愚かな大人どもが「そんなとるにたらぬ石ころで遊んで」などと余計なことを言わなければ、子供はいつまでも石と遊んで倦(う)むことを知らず、小石の中になにか新しい驚異を発見し続けるだろう。
小石にまつわる一小児のあらゆる質問に答えるには一大頭脳をもってしてもなかなかの難事である。 民間信仰によると、隣家の少年はいまごろ三途(さんず)の河原で小石を積んで遊んでいる。
――なぜこの冥途(めいど)には影が落ちないのかきっと不思議に思っているだろう。賽(さい)の河原の民間伝説は本物の詩情に富んでいる。
――日本の子供たちは霊になっても現世と同じように小石で遊んでいるとごくすなおに考えているからだ。 二
よく行商に来る羅宇屋(らうや)*は、以前は竹の天秤棒(てんびんぼう)を肩にかついで棒先に二つの大箱を下げていた。
一つの箱にはさまざまな直径や長さや色の羅宇が、それを金属製のパイプに詰める道具と一緒に収められ、もう一つの箱には赤ん坊が入っていた、――羅宇屋の赤ん坊である。
見ていると、赤ん坊はときには箱の縁から外を覗(のぞ)いて通行人に微笑(ほほえ)みかけ、ときにはしっかりくるまって箱の底でぐっすり眠っていて、ときには玩具(おもちゃ)と遊んでいた。
何人もの人が玩具をくれるのだという。
その玩具の一つが位牌(いはい)にそっくりだった。
赤ん坊が寝ていようが起きていようが、いつも箱の中にあるのが見えていたのである。 先日、羅宇屋が天秤棒と箱をやめてしまったことに気づいた。
小さな手押し車を押して通りを上がってくる。
車は商品と赤ん坊をちょうど載せられる大きさで、そのために作ったらしく、二つの部分に仕切られている。
察するに天秤棒のような原始的な方法で運ぶには赤ん坊が重たくなりすぎたのであろう。
車の上には小さな白い旗がひらめいていた。
崩した書体で「煙管羅宇替(キセルラオか)へ」、そしてお願いが短く記されていた、「お助けを願(ねが)ひます」。
子供は元気で楽しそうだった。
そのときも前に何度も目にとまった位牌のようなものが見えた。
手押し車の高い箱の中に子供の寝床に面してまっすぐに立てて留めてある。
手押し車が近づいてきて、突然はっとわかった。
あれは本当に位牌だ。
お日様の光に照らされて、お経(きょう)に書いてあるのと同じような文字がはっきり見えた。
にわかに心動かされた私は、爺(じい)やの万右衛門(まんえもん)に、羅宇屋に私が羅宇を何本も取り替えたがっているから寄ってくれ、と伝えさせた。
――実際、取り替えようと思っていたのである。
じきに羅宇屋は手押し車を門の前に寄せた。
私は見にいった。
子供は、私のような異人さんの顔を見てもこわがらない。
――可愛(かわい)い男の子だ。
まわらぬ舌でなにか言い、笑って、両手を差し伸べた。
いつも周囲から可愛がられているからに相違ない。
その子供をあやしながら私は位牌をしげしげと眺めた。
真宗(しんしゅう)の位牌で、女の戒名(かいみょう)が記されている。
万右衛門がその漢字を訳してくれた。
「高徳院釈尼妙敬 明治二十八年三月三十一日」。
そうこうするうちに使用人が羅宇の取り替えを要する煙管をとってきてくれた。
職人が仕事するあいだ、私はその顔を見た。
中年を過ぎた男の顔であった。
口元には感じのよい皺(しわ)が刻まれている。
いまはもう干からびてしまったが、昔は微笑をたたえたのだろう。
そうした皺が多くの日本人の表情に名伏しがたい穏やかな諦念(ていねん)を漂わせている。
やがて万右衛門は話しかけた。
万右衛門に問いかけられると、よほどの悪党でないかぎり、答えないわけにはいかなくなる。
この天真無垢(むく)な老爺(ろうや)は、ときに白髪の頭に後光(ごこう)がさすような気がする。
――菩薩(ぼさつ)の後光である。 羅宇屋は問われるままにこんな話を聞かせた。
男の子が生まれて二カ月後、妻は亡くなった。
病で死ぬ前にこう言い残した。
「わたしが死んでから満三年がすぎるまで、お願いだからこの子をいつも死んだわたしと一緒にし、わたしの位牌から離さないでください。そうすればこの子の世話を見、お乳をあげることもできますわ。――子供は三年はお乳が要りますもの。この最後の頼み、お願いです、忘れないでくださいね」 しかし母親に死なれてしまうと、父親はこれまでと同じようには仕事ができなくなった。
しかも昼も夜も世話のいる、こんな小さな子供の面倒を見なければならない。
貧乏だから乳母(うば)を雇うこともできない。
それで羅宇屋を始めることにした。
そうすれば多少の金も稼げるし、しかも子供から一分たりとも目を離さずにすむ。
牛乳を買う余裕はないので、もう一年以上お粥(かゆ)と水飴(みずあめ)*で育てている。
「子供は丈夫そうで、乳がなくとも問題はなさそうだね」と私が言った。
「それは」と万右衛門が言った。
その口調はきっぱりして叱(しか)られたような気がした。
「死んだ母親がお乳をあげてるからですよ。この子にお乳が不足することなどあるものですか」
男の子は小さな笑い声を立てた。
まるでお母さんに撫(な)でられているのを感じているかのようだった。*羅宇屋 煙管(キセル)の火口(ほくち)と吸口(すいくち)をつなぐ竹を羅宇と書きラウともラオともいう。もとラオスから渡来した黒斑竹を用いたゆえという。その行商人は羅宇屋(ラウや)といわれた。
*水飴 水飴は麦芽で作る琥珀色(こはくいろ)のシロップで、母乳に恵まれぬ子供にこれを飲ませた。亡くなった母親が水飴で赤子を育てた話は『神々の国の首都』の18節に出てくる。
(『心 日本の内面生活がこだまする暗示的諸編』小泉八雲著 平川祐弘 河出文庫 2024年)
「伝統ある喫煙道具文化を伝えるために 燕市のキセル作りの現場へpartⅡ」(JT)
今朝の父の一枚です(^^)/
いつのまにか4000歩以上歩いていたそうですρ(^^)q
「地震と大雨」つづき
発生数(正確にはその対数)とその強度または大きさは、右下がりの直線の関係があることは、地震以外にも様々な自然現象に見られます。
大きな板ガラスを持っている人が、うっかり地面に落とすと、粉々に割れてしまいます。
ガラスの破片には大小様々なものがありますが、大きさごとに破片を数えると、地震の発生頻度と同様に小さなものほど多く、大きなものは少なくなります。
横軸に大きさ、縦軸に破片の数(対数)をとると、大きさに比例して数が少なくなるそうです。
これは地震学の講義で聞いた話で、実際に数えたわけではありません。
危険ですので、読者の皆さんもやってみようと思わないでください。
同様のことが雨粒の数とその大きさの関係にも見られます。
横軸に雨粒の大きさ、縦軸に雨粒の数の対数をとると、おおよそ右下がりの(大きな雨粒に向って低下する)直線となります。
つまり大きな雨粒になるほど、数が少なくなるのです。
このような雨粒の大きさに対する粒子数の分布には名前が付いていて、気象学ではマーシャル・パルマー分布とよばれます。
大雨に関係する大きな雨粒は数が少ないのです。
…つづく…
(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年) 午後から心臓リハビリでした。
トレッドミルで30分間歩きました。
歩行距離は1.76km
消費カロリーは112kcalでした。
先週土曜日に脳のMRI検査を受けました。
何度かふらつくことがあったので長年服用している心臓の薬の副作用なのか
それとも脳になんらかの病変があるのかをみてもらいました。
水曜日にその結果を聞くと血管が細くなっている箇所があるけど心配することはないそうです。
30分間の歩行でもふらつくことはなく歩けました。
脳ドックは自由診療なので保険適用ではありません。
主治医が必要だと認めた時に保険診療になります。















