2024年4月23日火曜日

カタツムリの季節に…

公園に向う時にワイパーを動かしていました。
公園では、傘を開いたり閉じたりしながら歩いていたのに
帰る時にはワイパーを動かさず窓を開けることができました。
雨が降っていたおかげでカタツムリに何度も出会いました。
今年の暑さは…

「熱中症特別警戒アラート」 新たに運用開始へ〟(関西NHK)
チフス饅頭を贈った女医」つづき

 2 愛怨のチフス菌

 …前略…

 事件が起きて間もなくノモンハン事件が起き、無敵をうたわれた関東軍はソ連軍(及び外蒙軍)により惨敗を喫していた。
さらに独ソ不可侵条約が締結され(8月23日)時の平沼騏一郎内閣は「欧州の情勢は複雑怪奇である」という声明を残して退陣した。(8月28日)
 それまで、日本の国論を二分していた日独伊三国同盟問題も、いっとき鎮静する。
そして9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵入を開始し第二次世界大戦が始まる。
(『昭和史のおんな』澤地久枝 文藝春秋 1980年)
 日本国内では生活必需品がそろそろ逼迫(ひっぱく)しはじめ、戦時色は日に日に濃厚になってゆく。
いわば一組の男女の情痴打算の産物であるチフス饅頭事件など、紙面をさくに値しない情勢になっていた。
東京の新聞はこの事件についてきわめて簡単な報道しかしていない。
 しかし関西、特に地元の神戸で発行される新聞は、異様なまでの熱をこめてこの事件を追った。
 公判は神戸地方裁判所で開かれているが、14年10月5日の第一回公判から11月4日の判決言い渡しまで、裁判所は前夜から泊りこみで押し寄せる傍聴人の整理に忙殺された。
傍聴人の半数以上(ときに九割)は女性であり、君子に同情する嘆願書は全国から裁判所に届いた。
「暁から女の津波」と新聞は傍聴希望者の殺到を形容し、君子の供述を聞いて啜り泣く声が傍聴席にひろがっていったことを書いている。
医師にあるまじき行為であるという批判、職業婦人の今後にマイナスの影響を与えるという非難もあったが、圧倒的に同情の声がつよかった。
 広川君子の主任弁護人は、昭和8年、時の文相鳩山一郎から「アカ」よばわりされて京都大学法学部教授の座を去られた、刑法の権威者滝川幸辰(ゆきとき)である。
そしてこの事件には、京大とくに滝川幸辰とゆかりの判検事が多くかかわっている。
 この裁判の争点は、「殺人並びに殺人未遂」か、「障害並びに傷害致死」か、殺意(故意)があったか否かにあった。
チフス菌で汚染された饅頭を贈った結果、チフスに罹るだけでなく死ぬかも知れないと予見していたのであれば、「未必の故意」として「殺人並びに殺人未遂」の罪となり、罪状はきわめて重いことになる。
広川君子は第一審から上告審まで、殺意はまったくなかったことを主張しつづけた。
 (中略)

 結審の日、坂井丈七郎検事は、この犯行が銃後の人心を騒がせた刑事責任の重大であることをまず前提として述べ、
 ――医師に対する患家からの患者からの贈物到来に着眼したことは非常に巧妙な計画であり、Rの死因についての医師の証言は、単に体が虚弱であったというのみであって、被告人の所為によって死亡したことはまぎれもない事実である。君子は死ぬかも知れないことは十二分に承知で、伊藤を憎むのあまり犯行に及んだもので、殺人の故意あり――
と断定した。
 しかし検事の論告は、まるで二人の被告人を裁いているような印象を与える。
「博士なってほどなく、男から〝あなたもつまらぬ男と結婚したとあきらめてくれ〟と冷たい手紙を受取って、君子が顛倒驚愕し伊藤に烈しく詰めよったのは当然で、伊藤がいかなる理由でかくも冷酷なことができか、本官ははなはだ理解に苦しむ。博士の離婚理由とするところは毫も本官の首肯し得ないところである。……永年の学校寄宿舎生活、それから職業婦人として立った君子に家庭婦人として多少欠陥があったとすれば、光男は妻を教導すべきで、光男に真にやむを得ざるとする離婚理由は一つも存在しない。……光男の道義違背は鼓を鳴らして攻むべきである。社会より当然刑罰を受けてよい」
「さりながら」と検事の矛先は被告の広川君子へ向けられる。
「犯罪行為と被害者に及ぼした結果からすれば、犯罪の動機はいかようでも、発生した結果に対する責は言語道断である。人をあやめるのに伝染菌を用いることはもっとも悪質危険な手段であり、国家間の戦争ですら、毒ガスや細菌戦は人道に反するものとして非難されている。……医は仁術である。医師たり思慮ある被告にいかなる原因ありとも、公共の敵として糺弾せざるべきである」
 求刑は無期懲役であった。
 (中略)

 滝川弁護人は、チフス患者と腸チフス死亡原因の比率をあげ、「結論をいえば君子の過失致死である」として詳論し、執行猶予をもっとも妥当とすると述べた。
さらに「人間滝川」として、
「不思議に本件は京大出身の関係者が多いが、私は京大の同窓として伊藤氏の如き人が出たことを恥じる。エゴイストとして親友の屍を踏み越えても自己の栄達のため前進する秀才型の典型的なものである。伊藤氏にはお気の毒ながら、この事件の真の被害者は誰か。法律上の被害者が実は社会的な加害者であって、法律上の加害者が社会上の被害者である」
 と結んだ。…中略…
 判決は11月4日になされたが、無期懲役の求刑に対し「傷害並びに傷害致死」の刑で懲役3年(未決勾留日数60日を算入)が言い渡され、満員の傍聴席はどよめいた。
裁判長に向って合掌する老人の姿もあった。

 …中略…

 検事は即日控訴し、君子もまた控訴した。
 大阪控訴院では…中略…
 控訴公判に入ってから、世間の空気は同情から批判へと微妙に変化してきた。
「哀れな犠牲者」というのは、世間や新聞が作りあげたイメージだが、早くも人々の心はそのイメージに倦きはじめた。
控訴審判決の日は、東京で銃後娘の会(職業婦人約1万人が会員)の三千人が集まって、紀元二千六百年の記念大会を開いている。
個人の運命をみきわめることより、行方もわからぬ大きな流れにひきよせられ、身をゆだねる時代が来ようとしていた。
 大阪控訴院での最終弁論で、滝川弁護人は中国戦線へ出征中の被告の弟が、姉の犯罪を知ってから戦闘に出て困る、弾の目標へ、目標へと突き進むと部隊長からの手紙にあることを披露し、生きていられない気持なのであろうと述べている。
被害者の伊藤光男の弟も応召中なのであった。
 君子は上告したが、大審院は6月6日、上告を棄却し、懲役8年の刑が確定した。
(『昭和史のおんな』澤地久枝 文藝春秋 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ナンジャモンジャと言っているヒトツバタゴを写していて、晴れていたらなぁと嘆いていました。

 朝ドラ「虎に翼」を見ているとこんな女性もいたことを転記したくなりました(^_-)

ああそうか、そんならあんたには食べさせへん
  =寿岳章子 オムレツの味 母の味

 著者の少女時代、母はよくオムレツを作ってくれた。
ところがある時、父が「こんなもの女子供の食うもんだ」と口走った。
母は凛(りん)とこう答え、以後父の居る時の食卓にはのぼらせなかった。
父がついに「オムレツをいっぺん食べさせてもらえんやろうか、女子供の食いものと言うたんは悪かった」と申し入れたのは十数年後だ。
母はニッコリすぐ作り、食べた父は「うまいもんです、これは」と挨拶したのだった。
  6月19日
(『おんなの言葉365日』相星雅子 高城書房出版 1991年)

寿岳章子の母寿岳しづは、明治34(1901)年生まれです。

寿岳 しづについて」(向日庵)

梅子さん負けるな!
旦那にもうお握りを食べさせるな!