2024年4月12日金曜日

ちょっとした風でも

今朝も青空が広がり、歩き始めはヒンヤリとしていましたが
ぐんぐん気温が上がってきました。
ソメイヨシノの花も風がちょっと吹いただけで散ってしまいます。
今朝の朝日新聞「天声人語」

 …前略…

▼日露戦争の講和で労を尽くした米国に、尾崎は感謝を示そうとした。
だが、多くの日本人は日本人はそうした事情を知らされておらず、米国に「恩義を感じている人は少なかった」。
娘の相馬雪香(ゆきか)さんが、そう振り返っている。
返礼のハナミズキは戦中、切り倒された。
 …中略…

▼荒川の土手にはいま、戦後に米国から里帰りした五色桜がある。
きのう訪ねると、ウコン桜が散り始めていた。
薄緑の花びらがヒラヒラと舞う。
春の風に若葉が小さく、揺れていた。
 2024・4・12
今朝、何気にネットを見ていたら
下町の太陽、庶民派女優といわれながら都会の大人の女になった倍賞千恵子……」〟(村澤次郎 「わが昭和歌謡はドーナツ盤」 24.04.11)
を読んでいると倍賞千恵子さんもSKD(松竹歌劇団)の出身(第13期生)だったことを思い出した。

朝ドラ「虎に翼」第2週「女三人寄ればかしましい?」 (6)
前を行く学生に寅子が声をかけたとき、振り返った山田よね(土居志央梨)に
すてき! 水の江瀧子(たきこ)みたい。
と声をあげましたね。
水の江瀧子はSKDの第1期生。
  第一章 「歌う女優」誕生~大阪時代の笠置シヅ子
 松竹団員の「プロ意識」


 周知のように、現在に至るまで宝塚歌劇は、宝塚音楽学校の「卒業生」のみによって構成され、所属団員を音楽学校卒業後も「生徒」と呼び学年階梯を遵守するなど、学校を模したシステムで運用されている。
実際、当時の宝塚少女歌劇の出演者は、宝塚音楽学校の「生徒」であるため、人前で芸を見せることを生業とする者に義務付けられた芸人鑑札登録を免除されている。
松竹の場合、養成所の生徒には「技芸員」という呼称が用いられ、鑑札登録が行われていたと推測される。
(『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』輪島裕介 NHK出版新書 2023年)
 …中略…

……宝塚=阪急のように、高邁な理想を掲げつつ、沿線住民である新中間層の新しい生活スタイルを啓蒙することで商品化(ブランディング)を行うのではなく、松竹少女歌劇は、在来の劇場経営の発想に基づき、歌舞伎も浪花節も映画も等しく興行種目として扱う松竹が運営していた。
それゆえ、松竹の歌劇は宝塚と年齢においてほぼ同じ少女によって構成されながら、宝塚の「良家の子女」イメージに結びつく「未熟さの系譜」からは逸脱するものとして、都市庶民層の自覚的な職業意識を伴って演じられていたといえる。
前述の笠置や水ノ江の証言はそのことをはっきり裏付けている。
彼女たちは、宝塚のように、新たな中間層の文化生活への夢を掻き立て啓蒙するために、あるいは将来そうした家庭の奥様に収まるべく、目指すべき西洋の芸術を不完全に模倣するのではなく、プロフェッショナルとして眼の前の観客の趣味と関心に応え満足させるための娯楽を提供した。
 水ノ江瀧子の断髪による「男装の麗人」という、事後的にみれば少女歌劇という芸態における最大の発明が、宝塚ではなく松竹から生まれていることは示唆的だ。
「良家の子女」の規範的・家父長制的なジェンダー・イメージを攪乱(こうらん)する「男装の麗人」は、郊外のお屋敷街ではなく、大都会の下町から生まれるべくして生まれた、といえばいいすぎだろうか。
 音楽についても、宝塚と松竹の差は大きい。
「すみれの花咲く頃」「モンパリ」「おお宝塚」といった宝塚歌劇の歴史的な有名曲はすべて、外国曲に日本語詞を付けたものだ。
元の詞にある程度忠実なものも、「おお宝塚」のようにほぼ無関係なものもある。
たとえば「おお宝塚」に原曲はハリー・カールトン作詞作曲の「C.O.N.S.T.A.N.T.N.O.P.L.E.」というコミカルなポピュラーソングで、タイトルのスペルを一文字ごとに発音して歌う、という部分だけを用いている。
原曲の歌詞は、学校の先生が生徒に「コンスタンチノープル」という綴りを覚えさせるために一文字ずつ歌う、という設定だ。
宝塚の『パリゼット』(1930)で「おお宝塚」が歌われた翌年には、元の歌詞の内容に即した日本語版を、当時日本在住のジャーナリストだったバートン・クレーンがコロムビアで吹き込んでいる。
「太郎は一番のアホですよ」という歌詞が最高すぎる。
ともあれ、宝塚では実際の現地の文脈や原曲の歌詞に頓着せず、日本国内で通じる高級な「舶来性」のイメージだけが強調されたわけだ。
 それに対して、大阪松竹歌劇団(現・OSK)の象徴といえる「桜咲く国」(1930)や、少女歌劇ではないが、1928年に大流行した松竹座の幕間の新劇公演劇中歌「道頓堀行進曲」が詞・曲とも座内で作られたものであることも興味深い(同曲については、第二章で詳述する)。
どちらも、曲やハーモニーが特に洗練されているわけではないが、当時の人々の気分にぴったりとはまり、その後何十年にもわたって口ずさまれている。
アンセムとい言葉がふさわしい。
(『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』輪島裕介 NHK出版新書 2023年)

水の江瀧子(みずのえたきこ)」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
八重桜を見るとさくら餅を連想します

第四章 歴史のなかの菓子と菓子屋達
 吉宗と桜餅


 すでにふれたように菓子屋の起源のひとつに、寺院や神社に参詣した人々が憩う門前の茶店があります。
寺社への参詣はもちろん信仰心の発露ですが、日常を離れた遊興の場でもあるのです。
その事情は、京都でも江戸でも同じで、盛り場や有名寺社門前にあった茶店から名物となる菓子が生まれています。
そのひとつに数えられているのが、隅田川堤は長命寺門前の桜餅なのです。
時代はさかのぼりますが、この桜餅の創業伝承にふれてみたいと思います。
 桜餅の創製は、大げさに言えば八代将軍吉宗の行った都市計画と密接に関わっています。
享保2年(1717)吉宗は、生類憐れみの令以来途絶えていた鷹狩りを38年ぶりに復活させ、5月11日には葛西の亀戸から隅田川近くの木母寺あたりに出かけています。
この時、隅田川の両岸に桜の木の植樹を命じました。
その後も桜や桃の植樹が続いて、墨堤(ぼくてい)は江戸を代表する花見の名所となり、現在にいたっています。

 …つづく…

(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)