2024年4月13日土曜日

朝はヒンヤリしていたのに

朝、蒲団を干しにベランダに出るとヒンヤリしていたのだけど
公園に着くと暑くて汗が出ました。
天気予報でも朝夕と昼間の気温差が大きいと話していました。
最低と最高の気温差が10度ほどもあるのだとか…
 朝ドラ「虎に翼」の主題歌「さよーならまたいつか!」(米津玄師)の歌詞に
100年先も憶おぼえてるかな
とありますが、100年先の現代は、良くなっているのか……
いつか「虎に翼」+「MeToo」の「#」が登場するかもしれない。
寅子が言っていましたね
諦めたら そこで終わりじゃないですか。
朝ドラ「虎に翼」第2週「女三人寄ればかしましい?」 (9)

「甘味処・竹もと」で玉があんみつを一口食べたとき
生まれて初めて美味しいものにであった!
そんな表情でしたね(^-^)
この「甘味処・竹もと」は、万世橋近くにある実在の「竹むら」をモデルにしているそうです。

第1週「女賢しくて牛売り損なう?(おんなさかしくてうしうりそこなう)」振り返りコメント〟(明治大学 村上一博)

第2週「女三人寄ればかしましい?」振り返りコメント
 第一部 名称編
 あんみつ


 甘味処(かんみどころ)の看板商品、あんみつの歴史はゆでた赤えんどうと新粉餅に蜜をかけたみつ豆に始まる。
みつ豆はもともと駄菓子屋や屋台で売られるもので、明治時代後期には人気だった。
一方、明治38(1905)年に芸者を得意客とする「蜜豆屋」もあった(*1)
大正時代には東京浅草の舟和(*2)の喫茶店「みつ豆ホール」で出される。
洒落(しゃれ)た銀のボールに寒天、赤えんどう、果物などを盛ったものが評判になった。
みつ豆に餡(あん)をのせたあんみつは、昭和に入り、銀座の「若松」や「月ヶ瀬」が広めた。
(『事典 和菓子の世界 増補改訂版』中山圭子 岩波書店 2018年)
 あんみつといえば、『あんみつ姫』を懐かしく思い出す人もいるだろう。
倉金章介(くらかねしょうすけ)が1949年から54年まで連載(55年にも掲載はあり)していた漫画で、甘辛城(あまからじょう)のお茶目なあんみつ姫を主人公にした作品だ。
登場人物も、あわのだんごの守(かみ)、茶坊主のまんじゅう、カステラ夫人などすべて菓子尽くし。
おはぎの局(つぼね)ひきいる腰元(こしもと)は、だんご、しるこ、かのこ、あんこ、きなこで響きもよい。
80年代には竹本泉(たけもといずみ)によって、登場人物の名前もそのままに再び漫画化され、和菓子ファンを魅了した。
あんみつは、いわば和風デザートのアイドル。
姫の名にふさわしい可愛らしさが魅力だろう。

*1) 『明治東京逸聞史』(1969)所載の明治37年「子守」、明治38年「蜜豆」参照。
*2) 舟和によると、今のようなみつ豆を考案したのは明治36年という。
(『事典 和菓子の世界 増補改訂版』中山圭子 岩波書店 2018年)

みつ豆・あんみつ」(舟和)
明治37年
 子守 
<風俗画報37・1・1>

「女百姿」の欄に、「子守」を取上げている。
十二三の小娘が、鉢巻を前で結び、半纏で赤子を背負い、高下駄を履いて、番傘をさしている。
書入れの文に、次のようにある。
「ねんねんよ、おころりよ。ねんねのお守はどウこいた。……二銭貰つたから、金平糖(こんぺいとう)と蜜豆と団子を買つて、ぼツたら焼して遊ぶのよ。この子にやらないで、みんなあたいが食べてしまふから。……坊やはよい子だ、ねんねしな。」 
 この頃の蜜豆は、まだ子守階級の食べ物だった。
(『明治東京逸聞史 2』森銑三 東洋文庫142 1969年)
明治38年 
 蜜豆 
<文芸界38・1>

 蜜豆屋は、芸者や半玉をお得意とする。
豌豆(えんどう)の茹(ゆ)でたのに蜜をかけるのであるが、あんもをと註文すると、生餅の小さなのを、それに入れてくれる。
種物の上等なのには、杏(あんず)を入れる。――
 蜜豆というものが、次第に認められようとしている。
(『明治東京逸聞史 2』森銑三 東洋文庫142 1969年)
そして気になったのがあんみつの前にあった桜湯(さくらゆ)

 花の塩漬け
 サクラの花の塩漬けは、およそ8割が神奈川県秦野市野村に植えられている‘関山(かんざん)’から生産される。
結婚式などめでたい席で出される桜湯や、あんぱんの飾り、桜ごはんなどに使われている。

 塩漬けの方法と桜湯
‘関山’や‘普賢象(ふげんぞう)’などの八重桜でつくると華やかだが、一重でもかまわない。
花柄(かへい)ごとつんだ花をさっと洗い、全体に塩をまぶして梅酢と2~3日漬ける。
軽くしぼって天日干しし、塩をまぶしてできあがり。
桜湯にするときは、湯飲みに入れて湯をそそいで飲む。
保存は乾燥剤とともに。
(『校庭の木・野山の木1 サクラの絵本』勝木俊雄 編 森谷明子 絵 農文協 2015年)
大庭梅子と崔香淑はお汁粉なのかな

 芥川龍之介と汁粉
  ―パリのカフェを夢見て


 文壇の登龍門(とうりゅうもん)「芥川賞」に名を残す小説家、芥川龍之介(1892~1927)。
東京帝国大学(現東京大学)在学中から、36歳で「将来に対する唯ぼんやりした不安」を理由に自殺するまでのあいだに、古典を題材にした『羅生門(らしょうもん)』『芋粥(いもがゆ)』など、短篇を中心とした数多くの作品を残しました。
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年)
 どちらかといえばニヒルな印象の強い龍之介ですが、かなりの菓子好きで「雪のふつた公園の枯芝は何よりも砂糖漬にそつくりである」などの名言(?)も残しています。
そういわれると芝の上に白く積もった雪が、きらきらした上砂糖やグラニュー糖に見えてくるのではないでしょうか。
 特に好きだったのが汁粉で、詩人の室生犀星(むろおさいせい)を金沢に訪ねたときにも、東京にもなかなかないようなおいしい汁粉を食べに、一緒に出かけたそうです。
小説家の小島政二郎(こじままさじろう)によれば、上野の常磐(ときわ)という店を贔屓(ひいき)にしており、普通の御膳汁粉の二倍はあるという「白餡(あん)のドロッとした小倉(おぐら)汁粉」を「お代りするのがおきまりだった」とか。
さらには「久保田万太郎君の「しるこ」の事を書いてゐるのを見、僕も亦「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた」と、「しるこ」と題する随筆まで執筆しているのです。
久保田万太郎は「甘いものゝ話」で、汁粉は「喰べる」ものであって「飲む」ものではないと綴っていますので、きっとそれを受けたものだったのでしょう。
 随筆の中で龍之介は、関東大震災以降、東京では汁粉屋が減ってしまったことを「僕等下戸仲間の為には少からぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にもやはり少からぬ損失である」と書いています。
そして、西洋人が汁粉の味を知ったならば「麻雀戲(マージャン)のやうに世界を風靡しないとも限らないのである」とし、ニューヨークのクラブやパリのカフェで、彼らが汁粉をすするさまを想像するのです。
 いかにも楽しげなこの随筆が書かれたのは、実は、龍之介が自ら命を絶つわずか二ヶ月半ほど前のことでした。
もしも震災後も多くの汁粉屋が営業を続けていたなら、それがささやかな楽しみとなって、彼も自殺をせずに済んだのではないだろうか、などと思いたくなります。
 ちなみに龍之介の死後半世紀ほど経った昭和55年(1980)、虎屋はパリに店を出しました。
それから35年以上が過ぎ、今では汁粉を楽しみ通ってくるフランス人のお客様もいらっしゃるそうです。
龍之介の夢見た光景は、少しだけ現実のものになったといえるでしょう。
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年)
明治33年 
 汁粉屋 <東京風俗志中巻(平出鏗二郎著)>

 次に「飲食及び料理店」の章から「汁粉屋」の条を載せる。
「汁粉屋は、京阪のいはゆる善哉(ぜんざい)餅屋なり、小なるは切餅屋、団子(だんご)屋の兼ねるところなれども、やゝ上等なるは、船板塀などの優美なる構へに、籠行燈を掲げて、さも風雅らしき店つきなるもあり。その品類の多かるは、蕎麦(そば)に下らず。普通なるは御前(ごぜん)汁粉、田舎汁粉とす。御前は餡(あん)を漉(こ)したるもの、田舎は潰し餡なるを異なりとす。汁粉屋また雑煮餅を鬻(ひさ)げり。その旧きは根岸の岡野、木原店(きはらだな)の梅園、京橋の時雨庵、池の端の氷月なり。」 
(『明治東京逸聞史 2』森銑三 東洋文庫142 1969年)
今朝の父の一枚です(^^)/

吉宗と桜餅」つづき

 この桜の維持のため、幕府は掃除や桜樹の見廻り番人の費用あるいは肥料代として、年に金四両と永(楽銭)百十一文三分を名主に下付しています。
この記録には興味深い記述があります。
後年この管理費が減らされているのですが、その理由は花見時に訪れる人々を相手に近辺のヨシで編んだ葭簀張(よしずばり)の茶屋を出して、そこから上がる利益を充てるというのです。
花見と茶屋などの施設は、今も昔も変わらず不離の関係だったのです。
 さて桜餅です。
長命寺で働いていた人が現在にいたるまで桜餅を販売している山本屋の祖先で、墨堤を飾る桜の葉を塩漬けにして餡の入った餅を包んだのです。
これが桜餅の始まりと言われていますが、大きな特徴は柏餅や粽あるいは笹団子などと違って、桜の葉を塩漬けという食品加工していることです。
桜餅は餅に移った桜葉の香りを楽しむことも、甘い餅と一緒に葉の塩味を楽しむこともできるのです。

 …つづく…

(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)

長命寺 桜もち