2023年5月3日水曜日

憲法記念日

今朝も青空が広がっていて多くの方が来園されていました。
 ‘スヴニール・ドゥ・アンネ・フランク( Souvenir de Anne Frank  )’
「アンネの日記」を残して、ナチスの強制収容所で15歳の生涯を閉じたアンネ・フランクにちなんだバラです。
このバラは、ベルギーのデルフォルジュが育成した品種で、アンネの父、オットー・フランク氏に贈り、彼が「アンネの形見のバラ」として平和をアピールするため世界に贈り続けた花です。
バラ園の解説より)
今日は「憲法記念日
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」日です。

憲法を変えることに賛成の人が増えているとか…
変えることを主張する人たちは、どのように日本を成長させようとしているのでしょうか?
敵基地攻撃能力」という勇ましい言葉が首相から飛び出していますが
北朝鮮のミサイル発射で「Jアラート」の弾道ミサイル情報は誤発信など混乱することがあった。
「探知能力」が低いのに「攻撃能力」とよくいうよなぁと思う。
緊急地震速報」よりも精度が低くないかなとさえ思う。
ロシアのウクライナの原子力発電所への攻撃を見ていると
日本の原子力発電所にミサイル攻撃がないとはいえない。
原発再稼働をするならミサイル攻撃に対する防衛をするべきだと思いますが
ロシアのミサイル攻撃をみていると防ぐことは、今の防衛能力では無理だと思う。
外交をあきらめて先制攻撃を考えた結果は、真珠湾攻撃が教えてくれる。
戦争の道を歩む人間の心理を中井久夫さんの著書が教えてくれています。
中井久夫さんの言葉をもう一度転記すると

 戦争と平和 ある観察
 4 戦争準備と平和の準備


…前略…

 「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。
そうとは限らない。
まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。
まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。

…後略…
(『戦争と平和 ある観察[増補新装版]』中井久夫 人文書院 2022年)
中井久夫さんが祖父母について書いておられます。

 私の戦争体験
  祖父と祖母のこと


 父方の祖父の家系をたどると和歌山藩の侍だったようで熊野三山取立役というような徴税請負の役目をしていたようです。
 祖父は次男だったか三男だったか、養子に出されるの嫌って[初期の徴兵制では徴兵のがれを目的として養子に出すことがあった]陸軍に身を投じました。
養子にいくのを嫌ったのは、はっきりとはいえませんが宣教師の影響があったように思います。
父によると祖父は Little drops of water,little grains of sand,make the mighty ocean といったような讃美歌も口にしていたようです。
 長男には一家の財産を分散させないように財を与え、次男以下は財のかわりに教育を授ける方針だったようです。
当時陸軍士官学校の予備教育をするところだった成城学校にたしか行ったのではないかと思います。
祖父の卒業証書が出てきました。
ちなみに海軍では海城学校というのが同様に予備教育機関としてありました。
 祖父は、日露戦争に従軍していました。
大隊長として二〇三高地の戦いにも出ています。
軍人としてフランス語ができるし乗馬はうまい。
駐在武官でしたから当時としては背も高くそれなりに美男子だったんでしょう。
 一方祖母は、父親が長州藩の軍曹だった人で、連隊長の娘でした。
祖母は私に西南戦争の話もしておりました。曾祖父は熊本城に籠城したこともあったそうで、熊本城で撮られた写真も我が家に残されていました。
 祖母は隊付将校としてやってきた祖父にひとめぼれして、祖父の元以外には嫁がないと言い張ったそうですが、曾祖父も謡の師匠の声に惚れて通いつめての恋愛結婚だったそうですからこれに反対できなかったそうです。
 出撃の前の晩の日に、隊長、士官クラスには御用商人、つまり戦争でお金もうけをしている連中が女性をあてがったりしたそうですが、祖父は頑として断ったそうです。
周りは馬鹿にしましたが、祖母はものすごく感激していたそうです。
 祖父は軍隊の中でリンチを絶対にさせませんでした。
させなかったというのは、たださせないことはできるのですが、それだけではいけません。
これは医者の世界もそうなのですが、看護婦さんのできることを全部できるような医者は、リードできる。
軍隊で虐待するというのは、年ばかりとって階級のあがらない古参兵といわれる人が、虐待するわけです。
そんな古参兵からみて祖父は射撃や乗馬など軍人のやれることはみんな見事にこなせる隊長でした。
隊の写真でおぼえるそうですが、兵隊に会う前に写真で顔と名前をおぼえてしまう。
隊長はそのひとのためなら戦死する、戦死をしてもいいという覚悟をもたれる対象なんですね。
ですから大隊長がそういうリンチをみとめないというためには、兵隊のできることは全部できる必要があったのです。
戦が上手というのは、できるだけ戦死者をださない。
まあしようがないよなああという状況でしか戦死者をださないという意味の戦上手なんです。
なにか、勇ましいことをいって兵隊をどんどん戦死させる人間は後ろから撃ち殺されます。
 ある日祖父が頭部を二発銃弾で射抜かれました。
ところが軍帽はちゃんと穴が開いているから射抜かれたのだけれども頭に傷がない。
身の回りを世話をする従兵が、おそらく弾があたっていないうちにかつぎおろしたにちがいありません。
つまりこの隊長は戦死させたら軍の内部にリンチなどがはいってくる、だから死なせたらだめだと思われたに違いありません。
 私の父が応召の大尉だったときに、当時は「バタバタ」とよばれていたオートバイに乗って振り落とされ、お尻に大きな痣をつくったことがあったそうです。
運転していた兵隊が落したものだからその兵隊をなぐったと祖父にいったところ、祖父は「兵隊は殴るものではない」とひどく父を叱っていました。
 制裁が禁じられていたものですから祖父の大隊に入りたいとみんな願ったそうです。
また陸軍は部落差別をしないといっていました。
それは祖父がさせないようにということだったと思います。
ただ軍旗をもたせるかどうかで議論はあったそうです。
ヒューマニズムという意味合いだけでなく結局制裁や差別を禁じないと陸軍が損をするだろうということも考えたようです。
 祖父は朝鮮のために日本側についたら独立をまっとうできますよということで、朝鮮側に説得工作をしていたようです。
ところが日本が祖父を裏切ったので上申書をかいたらしい。
それで陸軍に辞表を出したそうです。
過失はなかったから恩給は多少出ていたでしょうか。
 百五人事件[寺内総督暗殺未遂事件。日本の支配に対して朝鮮の民族運動が起こることになる]というのがありましたが、たぶんそのときそれが無実であるということを知っていたから祖父は上申書をかいたのだと思います。
大正の大審院が無罪を宣告している事件です。
祖父も父もそうでしたが、批判的なものには大変批判的でした。
 祖父と、映画で有名な川喜多長政のお父さんにあたる川喜多大治郎は、同級生だったと思います。
彼のことにつては、佐藤忠男の本にも書かれていますが、川喜多大治郎は日本の憲兵に、白昼北京で拉致されて最後は殺されています。
中国に情報をもたらしたからだという容疑ですが、アジアにかけた日本の軍人はみな不幸になっているように思います。
 祖父が、川喜多さんが射殺されたとき、北京と言わずに上海で、川喜多と言わず川辺とか別の名前で言いましたが日本を裏切ったということで殺されたんだと言っていました。
祖父はそれについてどう思うかは言いませんでしたが、祖父のとってある新聞が二・二六事件や五・一五事件など暗殺関係のものがやたら多かったのにびっくりしました。
 祖父はそのあと青島にいってしばらく暮らしています。
朝鮮の人がたくさん亡命したのが青島です。
ちょっとした財産を作って帰ってきましたが、朝鮮の人がたぶんやしなってくれたのではないかと思います。
「中井大人の為に」という為書きが書かれた書や手紙がたくさん出てきました。
書は家によくかけてありました。
それ以外はあちらのものはほとんどもってかえってきていません。
小さな水差しがひとつぐらいです。
 祖父が長らく戻ってこなかったものですから、祖母のもとに大叔父がつかいにやってきて祖父と離婚するように言ったそうですが、祖母は頑として聞き入れませんでした。
私の祖父は結局祖母のもとにかえってきていますが、それまでは祖父の実家の和歌山の別荘に父親と暮らしていたようです。
四間ぐらいの家で祖父がおらず非常にさびしい思いをしたようです。
ただ、中井別荘という絵葉書をわざわざつくっているのでそれなりの暮らしだったようです。
 私が軍人になりたくないと思った理由のひとつに祖父に聞いた話があります。
祖父のところによく軍人が訪問してきておりました。
そして、祖父にむかって「いまの軍隊は、女性を殺して井戸にたたきこんできます。昔の皇軍とは大違いです」と話したということで、祖父は難しい顔をして困ったことだなあと言ったようなことを聞いています。
またあるときは、たしか薄雲という駆逐艦の艦長さんだったと思いましたが「揚子江に死体が流れています」などと告白していったそうです。
 いま思えば、祖父も一種の精神療法家みたいなものだったのでしょう。
何か余所からつたえきいてわざわざ祖父に会いに来る人もいたのではないでしょうか。
人間黙っているのは非常に辛いでしょうから。
 昭和20(1945)年の敗戦の前年に祖母が死にましたが、祖父はたいへん悲しんで祖母の遺体を抱いて一晩すごすほどでした。
 敗戦の年に祖父は父親宛の遺言書を私に書き取らせると、食を絶ってその数日後に亡くなりました。
戦時中の栄養不良もあったと思いますが、敗戦の年には地域にすむ老人の多くが死んでいきました。
(『戦争と平和 ある観察[増補新装版]』中井久夫 人文書院 2022年)