2025年7月22日火曜日

朝から30度超え

今朝も暑いことアツイこと…
「大暑」に相応しい暑さ(?)
Eテレの06552355の今週の歌は「たつまなつ」(歌:柴田聡子)
ひざし よけつつ」♪と塀の影をもとめて進んでいきます。
私も公園では、木陰で日ざしをよけつつ歩いています(;´Д`)
今朝の朝ドラ「あんぱん」第17週「あなたの二倍あなたを好き」 (82)
薪鉄子先生の憤慨
ほんまに国会議員ゆうがは
選挙中は、国民のためにって耳にタコができるばあ言ゆうくせに
当選したら自分のためにしか動かんがやき!


あまりにもタイムリーだと思いませんか!
選挙が終わった途端にそんなこと言ったかなというような党首がいるよなぁ
鉄子先生が立候補してくれていたら迷わず一票を投じたのに…
大追跡グローバルヒストリー「アラスカにかけた謎の日本人を追う
ハリー・カワベ(川部惣太郎)や和田重次郎のことを知らなかった。
彼らのようにこれまで多くの日本人が移民として海を渡りました。
先人たちは、差別を受け、多くの困難に耐えながら生き抜きました。

今の日本は、移民への差別をするSNSの投稿が目立ってきた。
ウイッシュマさんへの誹謗・中傷を国会でした人が党を鞍替えして当選している。
歴史修正主義者の議員も再選された。
現在の日本は、どこかの国の大統領選挙みたいに嘘を平気で垂れ流している。

(すが)ってはいけない藁に縋ったのは誰か?」(大阪府医師会 2023年6月7日)
7月もあと残りわずかですが
7月5日に日本で大災害が起きるという予言は、今、どうなっているのかな?

“うわさ”の「7月5日」が過ぎて〟(NHK 7月6日)

地震など災害をいつ起きるという日を限定した予言は怪しいのですが
いつ大災害が起きても不思議でない宿命の国が日本。

4月3日の日記で澤田瞳子さんの『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』より
春 28『甲子夜話』に残る京都大地震」を転記しましたφ(.. )
今日は、葉室麟さんの随筆から
 地震加藤

 熊本地震のときは福岡県の久留米市にいた。
 事務所のマンションで仕事をしているとかつて経験したことのない揺れが来た。
テレビをつけてみると熊本で震度七だという。
 久留米でも震度三、四の揺れが続いた。
実は、これが前震で、翌々日、さらに大きな地震が来て本棚の本が大量に落ちた。
(『古都再見』葉室麟 新潮文庫 2020年)
 最近、熊本には新聞のエッセイの仕事で何度か訪れ、『苦海浄土(くがいじょうど)』を書かれた作家の石牟礼道子(いしむれみちこ)さんや『逝きし世の面影』の著者で思想史家、評論家の渡辺京二さんからお話をうかがう機会があった。
 夜になって水俣病(みなまたびょう)闘争に関わったひとたちの拠点となった店、「カリガリ」(以前の店はいったん閉店し、昨年(2015)、再びオープンした)で夜半まで同行の記者と飲んだ。
 それだけに熊本で会った人たちの安否が気遣われた。
 テレビのニュースを見ていると熊本城が空撮で映し出されて、石垣の一部が崩れ、屋根瓦(やねがわら)が落ちているのがわかった。
 東側にある東十八間櫓(やぐら)と北十八間櫓が倒壊した。
二つの櫓はともに、国の重要文化財に指定されている。
 熊本県人にとって清正公(加藤清正)が築いた熊本城がどれほど大事なものかを知っているだけにショックだった。
 同時に思い出したのは、
 ――地震加藤
 の逸話だ。
 文禄五年(1596)閏(うるう)七月十三日、京都、伏見を中心とするマグニチュード7・0(推定)の、
 ――慶長伏見大地震
 が起きた。
地震により完成間もない伏見城の天守閣が大破し、東寺や天龍寺、二尊院、大覚寺等も倒壊し、被害は京阪神、淡路島の広い地域に及んだ。
京都、堺(さかい)等で死者の合計は千人を超えた。
 この時期、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は朝鮮出兵を行っており、加藤清正はひさしぶりに帰国していた。
『清正記』によると、清正は石田三成や小西行長の讒言(ざんげん)によって秀吉の怒りを買い、日本に呼び戻されて謹慎を命じられ、危うく切腹を迫られそうになっていた。
 そこに京都、伏見で大地震が起きると、秀吉の身を案じた清正は、誰よりも早く伏見城の秀吉のもとに三百人の手兵を連れて駆けつけた。
 城門を固めるとともに救助活動を行ったため、秀吉はこれを喜び、勘気(かんき)が解けたという。
 明治になって「増補桃山譚(ももやまものがたり)」、通称「地震加藤」という外題で歌舞伎の演目に登場して人気を呼んだ。
 だが、実際のところは、それほどドラマティックではなかったようだ。
 この地震の際に清正が朝鮮から帰国していたのは事実で、地震発生から二日後の日付で熊本の家臣に出した手紙では秀吉が無事だったことを伝えている。
 手紙の中で清正は伏見には屋敷を持っていないと書いており、あるいは地震が起きたときには、大坂の屋敷にいたのかもしれない。
 もっとも、当日ではないにしても、清正が被災したばかりの秀吉のもとへ馳(は)せ参じ、彼を喜ばせたことはあり得る。
 なぜなら、この時期の秀吉は愛息鶴松(つるまつ)の死や朝鮮出兵の挫折(ざせつ)など晩年の悲運にさらされており、表には出さなくても心中に鬱屈(うっくつ)を抱えていたに違いない。
 この時期の不運を象徴するように秀吉が奈良の東大寺に倣(なら)って建立した方広寺(ほうこうじ)の大仏までもが地震で倒壊した。
 秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、その眉間(みけん)に矢を放ったと伝えられる。
しかし、いかに虚勢をはっても秀吉の心中の不安は大きかっただろう。
 子飼いの猛将の頼もしい姿を見てほっとしたのではないか。
このとき、秀吉は予感したのかもしれない。
 秀吉没後、徳川家康が天下人となったとき、清正は秀吉の遺児である秀頼を守ろうと孤軍奮闘し、家康と秀頼の二条城での対面を実現させるのだ。 
 そんな清正が建てた熊本城は西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩隼人(さつまはやと)の猛攻にも耐え抜いた。
 熊本城には、守るべきもののために戦う加藤清正の風姿を感じさせるものがあった。
それだけに、今回の地震で傷ついたことに痛みを感じてしまうのだ。
 慶長伏見大地震から九年後、慶長九年十二月十六日には、マグニチュード7・9(推定)の、南海トラフが震源とされる巨大地震が発生した。
 慶長地震である。
 陸地での揺れはさほどでもなかったが、津波が犬吠埼(いぬぼうさき<千葉県>)から九州までの太平洋沿岸を襲って大きな被害を出した。
 われわれは、いまも大きな不安の中にいる。
(『古都再見』葉室麟 新潮文庫 2020年)

(慶長9年の地震につてい南海トラフ震源説には、異論もあるそうです。研究が進むと定説といわれるものが覆されることがあります)
「喫茶カリガリ」50年の歴史に幕…水俣病患者らの拠点、石牟礼道子さんも集う〟(読売新聞 2023年11月18日)

「秀吉と家康 運命を左右した2つの地震」磯田道史さんと学ぶ 災害と生きてきた日本人〟(NHK防災 2024年3月15日)

慶長9年の地震」(四国災害アーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/

 Ⅲ 雲はどうしてできるか?
 きれいな大気中には雲は浮かばない


 水蒸気が凝結し、雲や水滴ができるのは、空気が断熱膨張したときに生ずる冷却か、冷たい物に接した場合であると述べてきたが、空気塊を急に断熱膨張させても、凝結が起こるとは限らない。
 いま、脱脂綿や何等かのフィルターを用いて清浄にした空気を容器に封じ込め、急に断熱膨張させてみる。
当然、なかの空気は急激に冷えて凝結が起こり、たくさんの水滴が容器の内側につくことが期待されるわけである。
しかし、こうした実験では、容器内の空気が急に冷えてその空気は飽和に達しても凝結は起こらない。
 一方、今度は全く反対に、容器内の空気にごくわずかの煙草の煙や、ガスバーナーから立ち昇る空気をちょっと混ぜてやったうえで容器内の空気を膨張させると、濃い霧が発生したり、容器の内側にたくさんの水滴がつくのである。
つまり、この実験は空気中の不純物を取り除いたきれいな空気では雲が発生しにくく、不純物の凝結が起こる際に重要な役目を果していることを教えているのである。

 …つづく…

(『新しい気象学入門』飯田睦二郎 ブルーバックス 昭和55年)