毎日毎日「暑いですね」の挨拶。
子どもの頃は、団扇で暑さをしのいでいたし
一家に一台扇風機があればすんでいたのに……と、立ち話。
日曜美術館「ジャポニスム 西洋を変えた“美の波”」
日本の団扇が新しい芸術表現を生み出すきっかけになったそうです。
夕方、買い物に出かけるとスゴイ雨!
スーパーの駐車場でしばらく様子を見ていましたが
ネットで雨雲の動きをみていてもしばらくは降り続くみたいなので
買い物を諦めて妹を送ることにしました。
「おおさか防災ネット」から「大雨警報」のメールも届きました。 朝ドラ「あんぱん」第15週「いざ!東京」 (75)
空襲で焼け野原になった東京が舞台になっていました。
やなせたかしさんが、中国から復員した時に見た光景は
第三章 ようやく故郷に戻る日が来た
やっと高知の家に帰る
…前略…
援護局でもらった切符で、連絡船で下関に渡って、汽車で宇野に行って、そこから四国に渡るのです。
汽車はものすごく満員で、座る場所なんてありません。
車内に入れるのは運がいいほうで、窓にぶら下がったり、屋根に乗っている人もいました。
山陽線の汽車に乗っていると、それまであまり変わっていなかった風景が一変するところがありました。
(『新装版 ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い』やなせたかし 小学館 2022年) 広島です。
何もないのです。
これがあの特殊爆弾か、と思うとぞっとしました。
朱渓鎮(しゅけいちん)で聞いたときには、これほど破壊力がある爆弾だとは考えてもいませんでした。
本当に恐ろしい光景でした。
…後略…
(『新装版 ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い』やなせたかし 小学館 2022年)前回、澤田瞳子さんが黛まどかさんのかき氷の俳句を紹介していました。
黛まどかさんは、こんな句を紹介しています。
子が食べて母が見てゐるかき氷(ごおり) 森 澄雄
子供がうれしそうにかき氷を食べている様子を、穏やかな表情で眺めている母の姿です。
暑い夏の一日、お母さんと立ち寄ったかき氷屋さん。
自分がかき氷を頬張(ほおば)っている間、隣にいて一口も食べないでずっと微笑(ほほえ)んでいたお母さん……。
揚句は作者の目線(第三者の目線)で詠まれていますが、やがてこの、目線はかき氷を食べていた子供自身のそれとなり、母とのなつかしい思い出のワンシーンとなるのです。
…後略…
(『あなたへの一句』黛まどか バジリコ 2008年)グレーテルのかまど「竹久夢二のしるこセーキ」
を見ながらこのお店は、
ブラタモリ#69「京都・清水寺」(初回放送2017年4月8日)でそばを通っていたし
そして他の局でお店が紹介されていました
〝清水寺界隈を巡る~二寧坂の「かさぎ屋」~〟(KBS京都 2023年8月6日)
前から「かさぎ屋」さんで汁粉をいただきたいと思っていたけど……番組の中で紹介されていた詩
川
はじめ二人を隔てたのは
ほんに小さい川だつた
それを二人は苦にもせずに
両方の岸を歩いてゐた
いつの間にか川は大きくなつた
そしてたうたう越すことの出来ない
大きな川を隔てた
もはや二人のための舟も橋も今はない
どちらかゞ水へ飛込まねば
二人が逢ふ時は永久にない。
(『竹久夢二詩画集』石川桂子編 岩波文庫 2016年)
編者の石川桂子さんは番組で解説をされていました。70を過ぎたおっちゃんが一人、甘味処でぜんざいをたべるのは肩身の狭い思いをするのですが、この本に勇気をもらった…(^_-)
夏
38 伊庭八郎の京都スイーツ三昧
毎年、六月も半ばに差しかかると、なんとなく落ち着かぬ日々が始まる。
(そろそろやったっけ?)
(いや、まだ早いはず。去年は、二十六日から販売開始だったような)
と、指折り数えてその日を待つ。
その日――とは、ある店が毎年五日間だけ作る和菓子・水無月(みなづき)の発売日だ。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) 水無月はもともと京都とその周辺地域の菓子だったが、近年は全国のコンビニでも扱われるほど一般的な存在となった。
白いういろう生地に小豆を載せて、二等辺三角形に切ったもので、本来は六月三十日、つまり一年の折り返しの日に行われる年中行事・夏越祓(なごしのはらえ)に合わせて食べる。
最近は六月三十日にこだわらず、初夏の和菓子として、五月末ごろから販売を開始する和菓子屋も数多い。
店によって、ういろう生地が抹茶味になったり黒糖生地になったり、乗る豆がうぐいす豆になったり金時豆になったりと色々なバリエーションがある。
スポンジと生クリームで作った洋風水無月もあると聞くが、こちらは残念ながらまだ食べたことはない。 実は数年前まで、わたしは水無月にあまり関心がなかった。
だがある時、「五色豆」で有名な豆菓子屋・豆政の水無月を食べて驚いた。
京都の豆菓子筆頭の老舗のためか、乗っている豆の味が違う。
ういろうのもっちり感も違う。
かくしてあっという間に豆政の水無月のファンになってしまったわたしは、冒頭に書いた通り、そわそわと発売日を待つわけだ。
水無月は最近ではほとんど菓子の名前としてしか使われないが、もともとは旧暦六月の異名だ。
旧暦六月は夏の最後の一か月で、厳しい暑さゆえに川や泉が涸れてしまうから「水無し月」と言うとか、農作業が「みな為(し)尽きる(やり終える)」から来たとか諸説ある。 東京の話になるが、明治三十八年(1905)に創刊され、日本のグルメ雑誌のさきがけとも称される月刊雑誌「食道楽」の第三巻二号には、銀座新橋の時雨庵(しぐれあん)なる甘味処の話題が登場する。
この店の名物は、毎月の風物詩にちなんだ十二種の汁粉で、たとえば一月の汁粉は「若菜」、二月は「梅」、三月は「桜」と、汁粉に入れる餅の色を変えたり、汁の味に変化をつけたりと工夫をこらしていた。
ゆえに明治も末になると、時雨庵は「十二ヶ月」というあだ名で呼ばれもするが、この店の六月の汁粉は「水無月」で、水が無いという言葉にひっかけた洒落なのか、汁なし汁粉だったという。
夏の暑い最中なら、むしろ豆の粒のないさらりとした汁粉の方がいいだろうに、そこは季節の風景の再現を重視した内容だったと見える。 時雨庵では汁粉十二種類を一度に平らげると、店の壁に氏名が貼り出され、会計が無料になるばかりか景品まで出た。
反対に途中でギブアップすると十二杯分を全額払わねばならなかったというから、これは今日、学生街の食堂などで行われているドカ盛りチャレンジと変わりがない。
もっとも十二ヶ月の中でも「梅」や「桜」は、赤い団子の中に練り羊羹が入るというこってり味。
しかも十二ヶ月チャレンジを申し出た客に対しては、汁粉に上に更に砂糖をかけて供するという、かなり卑怯な防衛策も使われていたそうだ。 この時雨庵は関東大震災で被災した後も銀座近辺で長く人気を集めたが、昭和の初めに閉店したとされる。
大正十四年(1925)刊行の『食行脚(しょくあんぎゃ) 東京の巻』は、震災以前の店内の様子を記しており、それによれば店内には、日露戦争で戦死し、国民的英雄となった軍神・広瀬武夫や、外相・大隈重信の暗殺を企てた国家主義者・来島恒喜(くるしまつねき)の名前も十二ヶ月チャレンジ成功者として貼り出されていたとある。 軍神の愛した汁粉
――轟く砲音、飛び来る弾丸。荒波洗うデッキの上に、闇を貫く中佐の叫び。
広瀬武夫は死後、文部省唱歌「廣瀬中佐」によって、その武功を長く語り継がれた。
沈みゆく船中で行方不明の部下を捜索し、結果、敵の砲弾に倒れた雄々しい軍人の姿と、十二杯の汁粉を平らげた青年の姿は不釣り合いで、だからこそ若き日の彼の横顔が垣間見えて微笑ましい。 武夫は明治維新が成ったばかりの慶応四年(1868)、豊後国岡藩(現在の大分県竹田市)の生まれ。
彼の父である重武は岡藩の下級武士だったが、明治維新も間近な文久二年(1862)に脱藩し、尊皇派の志士として、九州・関西一帯で活躍した。
伏見の船宿で尊皇派志士と薩摩藩の穏健派が衝突した通称・寺田屋事件にも関係し、その責めを負う形で帰郷。
幽閉状態で明治維新を迎え、次男たる武夫を成した。
つまり父親が京都にて尊皇攘夷活動に加わればこそ、武夫はこの世に生を受けたのであり、だからこそ彼は時雨庵で十二杯の汁粉に挑み得た道理だ。 今日、甘いものは男性よりも女性が好みがちと見なされ、甘味処やケーキ屋の客の男女比も明らかに差がある。
それに比べると幕末や明治期は、幾ら女性が外で飲食をしなかったとの事実を差引いても、現代よりも男性の甘党エピソードが目立つ。
たとえば広瀬重武より七歳年下の旗本・伊庭(いば)八郎は、寺田屋事件の翌々年、第十四代将軍・徳川家茂の上洛に従って京都を訪れた際のさまざまを日記に残しているが、そこには半年の滞在の間に四回も汁粉を食べたとある。
また彼が体調を崩して寝込んだ時には、客たちがカステイラ・練りきりの菓子・羊羹を持参しており、幾ら甘いものが貴重だった時代としても、あまりに見舞いの品が甘味に偏り過ぎだ。
八郎の甘党ぶりは、周知されていたのだろう。
そんな八郎は大坂に移動する将軍に従って、五月に京都を離れ、翌月には江戸へ帰路についた。
もし六月末まで彼が京都にいたならば、その日記には水無月が登場したかもしれない。
わたしとしては、きっと彼の口にも合ったに違いないと想像したい。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) 今朝の父の一枚です(^^)/
焼酎で渋柿の渋を抜くことは知っていたのですが…
カキ 柿
柿浸(かきひた)し
『増鏡(ますかがみ)』(老のなみ)や『栄華物語(えいがものがたり)』(後くゐの大将)など多くの文献に登場する食品が「柿浸し」です。
これは古酒に干柿を擂(す)りつぶしたものを入れて水割りで飲む飲料と言われます。
『とはずがたり』には「蹴鞠(けまり)の途中、装束を直す折に飲む」とあり、蹴鞠書の『遊庭秘抄(ゆうていひしょう)』にも「柿浸しは酒を強めにする」などと書かれていることから、特に蹴鞠の際に好まれたようです。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)