2023年7月23日日曜日

大暑

ギラギラ照りつける日差しにも負けじとサルスベリが咲いていました。

きょうも各地で厳しい暑さ 熱中症への対策を」(NHK)
朝から忙しそうに飛び回っていたのはクマゼミ
クマゼミの声、みなさんはどう聞こえますか?
私は「ワシャ、ワシャ、ワ・シ・や!」と聞こえます。
大勢、ないている中でメスに気に入ってもらえるのはワシやとないているのかな?
メスは、ワシャ、ワシャとないているなかで、婿さんをどうやって選ぶんだろう?

クマゼミの羽化」(小学3年)
夏 七月 文月(ふみづき)
 大暑(たいしょ)

 「大暑」は二十四節気のひとつで、毎年7月23日頃です。
太陽がもっとも高くなる夏至から約一カ月後にあたり、「大暑」の名のとおり、1年で一番気温の高い夏の盛りになります。
 梅雨の間に蓄えられた湿った大地の水気が、夏の強い太陽に照らされて一気に蒸発していくために、蒸し暑さを伴い、生き物には厳しい季節。
(『鳩居堂の歳時記』広田千悦子著 鳩居堂監修 主婦の友社 平成28年)
 そんな暑さを少しでもしのぐために、日本人はさまざまな知恵を絞ってきました。
「暑い暑い」と困りながらも、五感を使い、涼を取ること自体を楽しんできたようなところもあります。
 その証拠に、現在は冷房という文明の利器がありながらも、昔ながらの「暑気払い」を忘れることはありません。
 伝統的な暑気払いのひとつ、「扇子」は、手軽に持ち歩けて、涼も取れる優れものです。
折りたたみができ、広げれば末広がりの縁起のよいかたち。
やわらかく手首をしならせて静かにあおげば、やさしい風を送ることができ、眺めているまわりの人まで涼しくなります。
 竹や木などを骨とし、布や紙などで作られた扇面には、伝統的なデザインや美しい動植物など、なまざまなモチーフが描かれ、ひとつひとつ広げて眺める楽しみもあります。
時にはあおぐ手を止めて、その造形を楽しんでみるのもいいでしょう。
(『鳩居堂の歳時記』広田千悦子著 鳩居堂監修 主婦の友社 平成28年)

今、町中で見かけるハンディー扇風機は、風が目に当たるとドライアイの危険性があるのでご注意下さい。
7月8日に放送された
NHK映像ファイル あの人に会いたい「永井路子(作家)
永井路子さんが敗戦を迎えた時のことを話していました。

……
それまで教えてもらった歴史というものが
いかにでっち上げられた
簡単にいえばインチキだったか
ということを思い知らされたわけ
例えば足利尊氏は逆賊だ
楠木正成は大忠臣だと
縛られるような気持ちがありました
それがこう敗戦を機にはらりと解けた
見直してみると歴史っていうのは
一つの結論だけじゃないんだな
いろんなものがあるんだっていうことがわかってきまして
……
「1937(昭和12)年9月5日 『無からの抗争』(白水社)」(前橋文学館)。

  歴史教育への一抗議

 数年来の事である。
京都の等持院へ見物に行き、女学生の修学旅行団と一緒になつた。
教師に率ゐられた娘たちが、足利氏十三代の木像の前に来た時、口々に喧々囂々(けんけんがうがう)としゃべり始めた。
「これが尊氏よ。」
「こいつが義満だわ。」
「逆賊!」
「悪人!」
「こんな者。皆叩き壊してやると好いわ。」
「馬鹿ツ!」
「馬鹿ツ!」
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
 そして口々に唾を吐きかける真似をした。
僕は女学生諸君の烈々たる忠君精神に驚いたが、一方ではまた、こんな教育をして好いものかと言ふことに疑問を抱いた。
引率の教師はおそらく後でこんな訓話を生徒たちにするのであらう。
「皆さんもこの尊氏等のやうに、死して悪名を千古に残し、死後にも人から辱しめられるやうなことをしてはなりません」しかし僕は考へるのである。
悪名を千古に残したのでは尊氏でなく、今日の学校教育の方針が、無理にそれを残させたのであると。
なぜなら尊氏その人は、決してしかく腹黒の悪人ではなく、また真に憎むべき大逆叛人でもなかつたからだ。
直木三十五氏は、尊氏を評して「成功した西郷隆盛」だと言つた。
維新の元勲であつた西郷隆盛が、後に謀反を起して朝敵となつたのは、彼自身の意志によつたのではなく、失職した不平士族や郷党にかつぎあげられ、半ばそれの犠牲的傀儡となつたのである。
足利尊氏の場合が、これと全く事情を等しくして居る。
尊氏がもし立たなかつたら、当時の失職した武士階級者は、必ず他の首領を見付けて乱を起したにちがひないのだ。
 学校教育に於いて、何よりも子供に教へなければならないことは、すべての日本人が生れ乍ら忠君思想に深いこと。
日本に於ては、決して支那西洋に於ける如き、真の謀反人や逆賊が居なかつたと言ふことである。
この点の教育資料として、尊氏は最も好い題目を提供する。
なぜなら足利尊氏は、西郷隆盛と同じく、最後までその朝敵となる運命を悲しんで居たからである。
義貞の軍が錦旗をひるがへして攻めて来た時、彼は剃髪しようとして臣下にさへぎられた。
かつて後醍醐天皇から受けた御寵恩は、尊氏の心に銘じて生涯忘れないところであつた。
彼が北朝を擁立した後に於て、吉野朝廷の如きは全く武力なき一片の葦すぎなかつた。
北朝の大軍隊を以て迫れば、これをただ一夕にして亡ぼすことが出来るのである。
これがもし北條義時や北條高時だつたら、即座に遠島に流し奉つたにちがひないのだ。
しかも尊氏があへて北條氏の轍を踏まず、北朝と並んで南朝を並立させたのは、心に深く皇室を崇敬し、畏れかしこんで居たからである。
そのため彼は子孫三代の長きに亙つて、南北両朝間に反転の紛議を残し、容易に天下を統一することができなかつた。
 後醍醐天皇が崩御された時、尊氏は声をあげて慟哭(どうこく)し、大寺院を建立して盛大な法事を営み、天皇の御冥福を祈り奉つた。
当時大義名分の観念が殆んどなく、武士が朝廷を重んじない時代に於て、これが人心収攬(しうらん)の政略でなく、尊氏の赤心であつたことは明らかである。
しかも尚尊氏は、自己の背恩の罪を深く悲しみ、夢窓国師に懺悔して日夜説教を聞いたと言はれる。
仇楠正成が死んだ時さへ、暗涙を浮べて悲嘆したと言はれる彼である。
旧恩厚き天皇の崩御に際して、如何に耐へがたく悲しみ傷んだかは察するにあまりある。
だがそれ位なら、初めからなぜ謀叛などしたのだといふ疑問が起るが、西郷隆盛の場合と同じく、そこには時代の避けがたい潮流があつたのである。
彼は心に涙を流しながら、手に弓矢を取つて敵に向つた。
尊氏の一生は、日本歴史に於ける最も深刻な悲劇であつた。
そして歴史教育の先生等は、そこを最もよく生徒に教へなければならないのだ。
即ち言へば、日本に決して謀叛人や逆賊が居ないと言ふこと。
すべての反乱は他の事情であり、そしてすべての日本人等は、生れながらの忠君主義者で、嬰児の如く天皇をしたひ奉つてることを教へるのである。

…つづく…

(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)/
暑いので水を飲みにきているのかな?
クチバシの基部が黄色いので今年生れた子のようです。
「嘴(くちばし)が黄色い」という諺がありますね(^_-)

昨日は、循環器科の診察の前に血液検査と尿検査をしてきました。
初め左腕を出したのですが、採血する血管が見つけられないようで右腕にかえました。
心筋梗塞で入院した時に、腎不全にもなったので尿検査をしてもらっていますが
この時期、汗をかくためかなかなか出ません…
帰宅後、眼科を受診。
来月、眼底検査をすることに(半年に一回)。

ブログの更新を休んでいる時にやっていることの一つに
過去の記事のリンクを訂正したり削除したりしています。
公式のサイトでもリニューアルされていてリンク切れになっているのがあります。
また、私の以前のブログのようにサービス停止でなくなっているのもあります。
少しずつ見直しているのですが、昨日の時点で2015年11月の記事までしか直せていません
先が長い……(^_^;