2023年6月7日水曜日

雨が止んで

昨日、ネムノキが咲いているのに気がつきました。
昨日の雨でどうなっているかと心配したけど
雨に負けずに咲いていました。
ネジバナも咲いていました。
ネムノキもネジバナも母が好きだった花です。

一方、被災地ではまだまだ片付けが続いているのに
西~東日本 あすからあさって大雨のおそれ 土砂災害などに警戒」(NHK)
ドロバチの仲間、エントツドロバチ(オオカバフスジドロバチ)だと思いますが
ナツメの花に来ていたので蜜を集めに来たのかな?
ミツバチの仲間でないのにと思っていたら幼虫を捕まえていました。

 エントツドロバチ 細腰亜目(有剣類) ドロバチ科

形態 オオフタオビドロバチに似るが、斑紋の色が赤橙色で、胸に斑紋がないことで識別できる。
生態 巣は既存杭を利用する場合と石面などに直接作る場合があるが、必ず煙突状の出入り口を下向きに設けるのが特徴。
煙突は巣の完成後に取り除かれる。
ハマキガやメイガの幼虫を狩るが、一括給餌ではなく幼虫の成長に合わせて食物を増やしていく(随時給餌)。
(『ハチハンドブック(旧版)』藤丸篤夫 文一総合出版 2014年)
 ユリズイセン(百合水仙)がもうじき花を咲かせる。
この花は、南米原産。

第二部 先住民にもたらされた災厄
 第六章 天然痘――先住民の凄惨な悲劇
 天然痘、はしか、インフルエンザ


 しかし、実際には先住民を死にいたらしめたのは虐殺そのものより、スペイン人が持ち込んだ疫病の影響の方が大きかった。
とくに、天然痘(てんねんとう)、はしか、インフルエンザなどの疫病が抵抗力をまったくもたない先住民をおそったのである。
おそらく、コロンブス一行も疫病をもたらしていたようだ。
1508年8月、コロンブスが第4回航海の終わりにカリブ海にあるエスパニョーラ島のサント・ドミンゴに寄港したとき、同島の先住民人口は七分の一になっていた、と彼らは報告している。
また、1508年11月にエスパニョーラ島を訪れた王室派遣の一官吏は、同島の全住民人口を約6万と推定しているが、もともとそこには100万人を超す人口があったと考えられている。
したがって、コロンブスが来てわずか十数年でエスパニョーラ島の人口は十分の一以下に減少していたのである。
(『先住民から見た世界史 コロンブスの「新大陸発見」』山本紀夫 KADOKAWA 2023年)
 この疫病は、まもなくメキシコ本土でも流行する。
ただし、それはコロンブス一行によるものではなく、メキシコを征服するために進軍してきたコルテス一行によるものであった。
この疫病については、サアグンが以下のような貴重な記録を残している。
  スペイン人がわれわれに対して戦いをしかける前に、疫病がまず広がった。始まったのはテペイルウィトルの月(1520年10月中旬と下旬)で、人びとの間に甚だしい損失をもたらし、一部は発疹(ほっしん)で体中を覆われ、顔・頭・胸にまで広がった。恐ろしい災厄であった。多数の者が死んだ。もはや歩くこともできず、ただ横になり、寝台に寝るばかりであった。動くこともできず、首を回すこともできず、体を動かすこともできず、脇腹を下にして寝ることすらできず、俯(うつぶ)せになることこも、仰向(あおむ)けに寝ることもできなかった。体を動かすと、激しく呻(うめ)き声を上げた。大いなる災厄となった。できものが体を覆い、包み、たくさんの人が死亡した。そして多くの人が飢えに苦しみ、餓死者が出た。誰も他人の世話をせず、誰もが人のことをかまわなかった(「メキシコの戦争」『征服者と新世界』大航海時代叢書 第II期 12 岩波書店)。
 これこそは、スペイン軍の一人の奴隷がメキシコにもたらした天然痘の流行のせいであった。
この流行によってアステカ王国の人口のほぼ半分が死亡し、そのなかには皇帝クイトラワクも含まれていた。
このような疫病の影響でアステカ軍の兵の士気は低下し、スペイン人たちによる征服を容易なものにした。
こうして、2000万人だったメキシコの人口は、天然痘の大流行によって1618年には160万人にまで激減したことが知られている。
 メキシコでアステカ王国が栄えていた頃、南アメリカではアンデスでインカ帝国が拡大をつづけ、エクアドルの現在の首都キトにもインカの都市を築いていた。
一方で、カリブ海を拠点としていたスペイン人たちは南下をつづけ、1509年頃には南アメリカ北端のダリエン(パナマ地方)にまで前進していた。
そして、そこに住みつき始めたスペイン人もいた。
 この頃からインカ帝国の領土の各地で、得体の知れない病気が発生し、多くの人間が死んだ。
やがて、エクアドルにいた第11代ワイナ・カパック王もこの病気に冒され、1525年頃に死ぬ。
これこそは、異邦人侵入の不吉な前ぶれにほかならなかった。
天然痘がパナマからの陸路を南下し、スペイン人に先まわりしてインカ帝国の領土に侵入していたのである。
第11代インカ王が疫病で亡くなったあとも、アンデス地域ではくりかえし伝染病の流行があった。
 きっとスペイン人が持ち込んださまざまな病原菌が、抵抗力をまったくもたない住民たちを襲ったにちがいない。
そして、その伝染病はアンデス中をまさに野火が広がるように蔓延(まんえん)し、無数の犠牲者を生みだしていったのであろう。
実際、スペイン人の侵入後、わずか30年ほどのあいだにアンデスの人口は四分の一に減少したという研究者もいる。
先住民にとってスペイン人は疫病神にほかならなかったのである。
 ただし、この伝染病の影響はアンデスでは一様ではなかった。
地域によってかなりの違いがあった。
その結果、グラフ(「ペルーにおける地域別の先住民人口の減少」省略)に示したように人口減少の程度も地域によって大きく異なっていた。
とくに、人口減少の酷かったのがペルーの海岸地帯で、南海岸ではほとんどの先住民人口が失われてしまった。
スペイン人たちが主として海岸地帯に住みついたため、先住民と接触する機会が多かったからであろう。
たとえば、征服者のピサロは1535年、中央海岸に現在のペルーの首都であるリマ市をスペイン人の町として建設していたのだ。
そのためか、ペルーの海岸地帯のなかで中央海岸は人口がもっとも多かった地域であったが、そこでも先住民の人口が激減したのである。
 一方、アンデスの高地部での人口減少は、海岸地帯にくらべれば比較的小さかった。
これは高地の先住民集落が険しい地形の山地に散在し、スペイン人たちが接近するのも容易ではなかったからであろう。
現在も、ペルー・アンデス南部からボリビアにかけての中央アンデス高地では先住民人口が多く、伝統的な文化の色彩が濃いのは、そのおかげであろう。
(『先住民から見た世界史 コロンブスの「新大陸発見」』山本紀夫 KADOKAWA 2023年)

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今回の新型コロナについて、いまだに「ただの風邪」という方がいます。
山内一也さんが

 そもそもウイルスに感染するとなぜ病気になるのだろうか。
ウイルス感染症の発病メカニズムは、ウイルス学が著しく進歩した現在でも、実はほとんどわかっていない。
 ウイルスを病原体として見ていると忘れがちだが、ウイルスに感染すると必ず病気になる(症状に気付く)とは限らない。

(『ウイルスの世紀 なぜ繰り返し出現するのか』山内一也 みすず書房 2020年)

と書かれています。
このことはインフルエンザを考えると分かると思います。
よくインフルエンザで学級・学校閉鎖が報道されますが

 ウイルスが気道粘膜に取りつくと猛スピードで増殖し、感染者の「咳」や「くしゃみ」によって、人間がひしめく都会にウイルスがばらまかれる。
時速150キロもの速度で飛び散るくしゃみは、ウイルスの強力な飛び道具だ。
インフルエンザの潜伏期は非常に短く、短期間で大流行を引き起こすことができる。
つまり、過密社会に完璧に適応したウイルスといえる。
 
(『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』石弘之 洋泉社 2014年)

感染したからといって、発病するとは限らないし
体力のある人は、回復することができます。
100人といえば多いですが、大濠中・高校の生徒全員が発病していません。
若いから早く治ると思います(後遺症がないことを祈っています)。
一方、体力のない高齢者などにとっては、人生の残り火を吹き消す病となります。

木、金、土曜日と3日間blogの更新をお休みします。
旅行ではなく、私と父の病院通いです(^^ゞ