2023年6月21日水曜日

夏至

蒸し暑いこの時期、
昔から疫病が流行っていたので
六月の晦日(30日)に夏越しの祓が行われてきました。
大神神社では、夏至のころに行われているそうです。

大神神社で「茅の輪くぐり」始まる 年後半の無病息災祈る〟(奈良NHK)

(追記 6月22日)
またまた…WindowsUpdateでパソコンの調子が悪くなったので
修理をお願いすることにしました。
新しいパソコンを購入しましたが、まだ届いていないので
blogの更新をしばらくお休みします。
雨には慣れている奄美大島で線状降水帯が発生して

鹿児島 奄美大島で大雨 360人余が孤立状態 土砂災害に厳重警戒」(NHK)

予測が難しい線状降水帯について
サイエンスZERO「“線状降水帯”の予測最前線 豪雨激甚化時代に命を守れ!
よく、天気予報が外れたとぶつぶつ呟く人がいますが、
天気予報について少しでも理解するとその難しさがわかると思うのですが。
線状降水帯の予報は、現在、30%ほどだそうですが
野球選手で3割バッターといえば強打者ですよ!
これからさらに研究が進み的中率は上がってくると思います。
もうじき大谷選手の打率4割3分5厘に並ぶかな?
大谷翔平 「週間MVP」5回目選出 イチローさんの最多記録に並ぶ〟(NHK)
  短夜(みじかよ)

 2020年の夏至(げし)は6月21日。
1年でもっとも夜が短い日です。
黄昏(たそがれ)どきが長く、夜明けが早いのです。
なんだか寝不足になりそうですが、そんなことより、明け易(やす)い夜を惜しむ気持ちに重きをおくのが「短夜」の本意だといわれてきました。

 みじか夜や枕に近き銀屏風(びょうぶ)  蕪村(ぶそん)

 明易(あけやす)や雲が渦巻く駒ヶ嶽(こまがたけ) 前田普羅(まえだふら) 
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
 午前四時ころになると東天がほのかに明るくなってきます。
そんな時間に蕪村は目覚めたまま横になり枕辺の屏風の銀の放つ鈍い光りを瞼(まぶた)に感じています。
ところが前田普羅の方は戸外の大景を見ています。
冬であれば二人とも睡眠中という時間でしょう。

 余命いくばくかある夜短し 正岡子規(まさおかしき)

 正岡子規にとってとても大事であった一刻一刻の時間。
子規の心中が伝わってくる早い夜明けです。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
気がつくのが遅かったのですが、白いネジバナだと思います。

 超小型ながら立派なラン

…前略…

 日本各地の明るい草地や芝生に生えるラン科の多年草。
6~8月に高さ10~40㎝ほどの花径を立て、可憐なピンクの花を咲かせる。
分布は広く、ヨーロッパ東部からシベリアを経て中国、日本、さらに東南アジアからオセアニアにわたる。
 花穂のねじれは一定ではない。
巻く向きは左右ほぼ同数、ピッチも緩急さまざまだ。
同じ株から出る花穂の中にも、右巻き、左巻きが混じっている。
ねじれの向きは遺伝的に決まるのではなく、確率的にどちらかに転ぶことがわかっている。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
 ねじれることには意味はあるのだろうか。
花を訪れて花粉を運ぶのは、小型のハチ。
横から花にもぐり込むハチの行動習性に合わせ、花は横向きに咲く。
視覚で花を探すハチを呼ぶには、小さな花は集まった方が効果的。
だが、花がそろって一方を向けば、茎はそっちに傾くのが道理。
そこでネジバナは花の向きを順繰りに変えた。
花を螺旋につけることで重心が安定し、細い茎も直立する。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
6月6日に放送された
言葉にできない、そんな夜。第2シーズン (28)
で、太宰治の「酒ぎらひ」と共に紹介されていたのが萩原朔太郎の「酒に就いて
この随筆が発表されたのは
1936(昭和11)年 50歳 『廊下と室房』刊行(第一書房)。
萩原朔太郎年譜 前橋文学館
 酒に就いて

 酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。
だが私自身の場合でいへば、たしかに疑ひもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。
私がもし酒を飲まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。
青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされてゐた。
そのため生きることが苦しくなり、不断に自殺のことばかり考へてゐた。
その上生理的に病身であり、一年の半ばは病床にゐるほどだつた。
それが酒を飲み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体(からだ)の調子もよくなつて来た。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
 酒は「憂ひを掃う玉帚」といふが、私の場合などは、全くその玉帚のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たやうなものである。
神経衰弱とふ病気は、医学上でどういふ性質のものか知らないが、私の場合の経験からいへば、たしかに酒によつて治療され得る病気である。
一時的には勿論のこと、それを長く続ける場合、体質の根本から医療されて来るのである。
つまり飲酒の習慣からして、次第に神経が図太くなり、物事に無頓着になり、詰まらぬことにくよくよしなくなつて来るのである。
悪くいへば、それだけ心が荒んで来るのであらうが、神経質すぎる人にとつては、それで丁度中庸が取れることになつてゐるのである。
 アメリカ合衆国では、一時法律によつて酒を禁じ、ためにギャングの横行を見るに至つたが、今日の神経衰弱時代を表象する文明人の生活で、酒なしに暮し得るといふことは考へられない。
一体酒を罪悪視する思想は、ヤンキー的ピューリタンの人道主義にもとづいてる。
ところでこのピューリタンといふ奴が、元来文化的情操のデリカを知らない粗野の精神に属してゐる。
ピューリタンの精神は、ヘレニズムの文化に対する野蛮主義の抗争である。
すべての基督教の中で、これが最も非哲学的、非インテリ的な卑俗実用主義の宗教である。
そこで救世軍等の宗教が、いかに街頭に太鼓を鳴らし、百度酒の害を説いたところで、文化人であるところの僕等芸術家が、一向にそれを聴かないのは当然である。
 一般にいはれる如く、酒が性欲を興奮させるといふのは嘘である。
むしろ多くの場合は、酒はその反対の作用をさへも持つてる。
この事実については、僕は自分を実験にして経験した。
それはまちがひのないことである。
しかしだれも知る通り、酒は制止作用を失はさせる。
そのため平常克服してゐたところの性欲が、意志の覊絆(きづな)を離れて奔放に暴れ廻る。
そこで外観上には、酒が性欲を亢進させるやうに見えるのである。
実際のことをいへば、酒を飲んだ時の性欲は、質量の点で遙か平常に劣つてる。
その上に粗野で、感覚のデリカを欠いている。
真の好色を楽しむ者は、決して酒を飲まないのである。
 酒が意志の制止力を無くさせるといふ特色は、酒の万能の効能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。
実際酔中にしたすべての行為は、破倫といふほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほとに醜劣である。
酒はそれに酔つてる中が好いのであつて、醒めてからの記憶は皆苦痛である。
だが苦痛を伴はない快楽といふものは一つもない。
醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、初めから酒を飲まない方が好いのである。
酒を飲むといふことは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。
そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。
平常素面(しらふ)の意識では出来ないことが、所謂酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。
一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまつた男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓ふであらう。
その悔恨は鞭のやうに痛々しい。
だがしかし、彼がもし酒を飲まなかつたら、生涯そんな豪遊をすることも無かつたらう。
そして律儀者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかつた。
酒を飲んで失敗するのは、初めからその冒険の中に意味をもつてる。
夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。
…つづく…
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)/

巻第十一 2475 
 我が宿の軒に羊歯(しだ)草生ふれども、恋ひ萱(わすれ)草、見れど、まだ生ひず

自分の屋敷の軒には、羊歯が生えているけれども、恋を忘れるという萱草は、幾ら見ても、生えていない。
(『口訳万葉集(中)』折口信夫 岩波現代文庫 2017年)