2023年6月18日日曜日

曇り空だけど

曇り空でしたが、風がなく蒸し暑かったです。
まさに「風待月(かぜまちづき)」でした。
まだまだ暑さに慣れていないのに

前橋で35.5度の猛暑日 あすも西日本や東海は真夏日の見込み」(NHK)
ショウリョウバッタが隠れん坊をしているのは

第5章 「花」の謎
 Q39 ネジバナの花のねじれる方向は、なぜ右と左の両方にあるのか?
(質問内容は省略)
 ネジバナ(写真5-3<省略>)の花のつき方には右巻き、左巻きのほかに、ねじれていない変異体もあります。
質問のように、ほぼ一対一で右巻きと左巻きが現れる場合には、「どちらになるかが偶然に表れること」が、その株の遺伝的性質とみなせそうです。
 右巻きだけ、左巻きだけ、そしてねじれていない変異型品種の交雑実験をすれば、どの性質が優性なのかがわかるはずです。
ただし優劣が対立遺伝子によって決まっているとは限りません。
優劣の見分けられない中間遺伝の場合もありますから、たいへん慎重な実験が必要でしょう。
(『これでナットク!植物の謎 Part2』日本植物生理学会編 ブルーバックス 2013年)
 花の並び方は、花の下にある特殊な葉(苞葉<ほうよう>)のつき方(葉序)で決まります。
その苞葉がどこにつくかは、その苞葉より古い苞葉がどこに配置されていたかによって決まります。
新しい苞葉は、古い苞葉からなるべく離れた位置にできます(40ページQ12参照)。
らせん葉序は右巻きと左巻きが一対一で出現するのが一般的ですから、ネジバナの花のねじれる方向が左右両方あることは、むしろふつうのことといえるでしょう。
(『これでナットク!植物の謎 Part2』日本植物生理学会編 ブルーバックス 2013年)
桜桃忌は遺体が発見された6月19日に行われています。
6月19日は、太宰治の誕生日(1909年)です。
ただ、太宰治が山崎富栄さんと玉川上水に入水したのは1948年6月13日です。
太宰治略年譜」(三鷹市)

山崎富栄さんについては松本侑子さんの『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』を読んでほしいと思います。
 禁酒の心

 私は禁酒をしようと思つてゐる。
このごろの酒は、ひどく人間を卑屈にするやうである。
昔は、これに依つて所謂浩然之気を養つたものださうであるが、今は、ただ精神をあさはかにするばかりである。
近来私は酒を憎むこと極度である。
いやしくも、なすあるところの人物は、今日此際、断じて酒杯を粉砕すべきである。
(『太宰治全集第五巻』筑摩書房 昭和51年)
 日頃酒を好む者、いかにその精神、吝嗇卑小になりつつあるか、一升の配給酒の瓶に十五等分の目盛(めもり)を附し、毎日、きつちり一目盛づつ飲み、たまに度を過して二目盛飲んだ時には、すなはち一目盛分の水を埋合せ、瓶を横ざまに抱へて震動を与へ、酒と水、両者の化合醗酵を企てるなど、まことに失笑を禁じ得ない。
また配給の焼酎に、薬缶一ぱいの番茶を加へ、その褐色の液を小さいグラスに注いで飲んで、このウヰスキイには茶柱が立つてゐる、愉快だ、などと虚栄の負け惜しみを言つて、豪放に笑つてみせるが、傍の女房はニコリともしないので、いつそうみじめな風景になる。
また、昔は、晩酌の最中にひよつこり遠来の友など見えると、やあ、これはいいところへ来て下さった、ちやうど相手が欲しくてならなかつたところだ、何も無いが、まどうです、一ぱい、といふやうな事になつて、とみに活気を呈したものであつたが、今は、はなはだ陰気である。
「おい、それでは、そろそろ、あの一目盛をはじめるから、玄関をしめて、錠をおろして、それから雨戸もしめてしまひなさい。人に見られて、羨やましがられても具合ひが悪いからな。」
なにも一目盛の晩酌を、うらやましがる人も無いのに、そこは精神、吝嗇卑小になつてゐるものだから、それこそ風声鶴唳にも心を驚かし、外の足音にもいちいち肝を冷やして、何かしら自分がひどい大罪でも犯してゐるやうな気持になり、世間の誰もかれもみんな自分を恨みに恨んでゐるやうな言ふべからざる恐怖と不安と絶望と忿懣と怨嗟と祈りと、実に複雑な心境で部屋の電気を暗くして背中を丸め、チビリチビリと酒をなめるやうにして飲んでゐる。
「ごめん下さい。」と玄関で声がする。
「来たな!」屹つと身構へて、この酒飲まれてたまるものか。
それ、この瓶は戸棚に隠せ、まだ二目盛残つてあるんだ、あすとあさつてのぶんだ、この銚子にもまだ三猪口(みちよこ)ぶんくらゐ残つてゐるが、これは寝酒にするんだから、銚子はこのまま、このまま、さはつてはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか、と部屋中をぎよろりと見まはして、それから急に猫撫声で、
「どなた?」
 ああ、書きながら嘔吐を催す。
人間も、かうなつては、既にだめである。
浩然之気もはつたくれもあつたものでない。
「月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して盃出したる、よろづの興を添ふるものなり。」などと言つてゐる昔の人の典雅な心境をも少しは学んで、反省するやうに努めなければならぬ。
それほどまでに酒を飲みたいものなのか。
夕陽をあかあかと浴びて、汗は滝の如く、髭をはやした立派な男たちが、ビヤホオルの前に行儀よく列を作つて、さうして時々、そつと伸びあがつてビヤホオルの丸い窓から内部を覗いて、首を振つて溜息をついてゐる。
なかなか順番がまはつて来ないものと見える。
内部はまた、いもを洗ふやうな混雑だ。
肘と肘をぶつつけ合ひ、互ひに隣りの客を牽制し、負けず劣らず大声を挙げて、おういビイルを早く、おういビエルなどと東北訛りの者もあり、喧々囂々、やつと一ぱいのビイルにありつき、ほとんど無我夢中で飲み畢るや否や、ごめん、とも言はずに、次のお客の色黒く眼の光のただならぬのが自分の椅子から押しのけて割り込んで来るのである。
すなはち、呆然として退場しなければならぬ。
気を取りなほして、よし、もういちど、と更に戸外の長蛇の如き列の末尾について、順番を待つ。
これを三度、四度ほど繰り返して、心身共に疲れてぐたりとなり、ああ酔つた、と力無く呟いて帰途につくのである。
国内に酒が決してそんなに極度に不足してゐるわけではないと思ふ。
飲む人が此頃多くなつたのではないかと私には考へられる。
少し不足になつたといふ評判が立つたので、いままで酒を飲んだ事のない人まで、よろしい、いまのうちに一つ、その酒なるものを飲んで置かう、何事も、経験してみなくては損である、実行しよう、といふ変な如何にも小人のもの欲しげな精神から、配給の酒もとにかくいただく、ビヤホオルといふところへも一度突撃して、もまれてみたい、何事にも負けてはならぬ、おでんやといふものも一つ、試みたい、カフエといふところも話には聞いてゐるが、一たいどんな具合ひか、いまのうちに是非実験をしてみたい、などといふつまらぬ向上心から、いつのまにやら一ぱしの酒飲みになつて、お金の無い時には、一目盛の酒を惜しみ、茶柱の立つたウヰスキイを喜び、もう、やめられなくなつてゐる人たちも、かなり多いのではないかと私には思はれる。
とかく小人は、度しがたいものである。
…つづく…
(『太宰治全集第五巻』筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ザクロの花にクマバチが潜りこんでいます。

昨日、父と妹が6回目のワクチン接種をしました。
父は、注射を打ったところが痛いと話していましたが、
歩かないと足腰が弱るといって散歩しました。
妹は、熱こそ36.9度でしたが、
昨夜は、寝返りを打つと注射をしたところに痛みがはしり1時間おきに目が覚めたそうです。
早く、インフルエンザのように年1回の接種ですむようになってほしいですね。
また、アレルギー検査のように事前にワクチンを打っても大丈夫なのかを
検査できるようになれば安心してワクチンを打てるのにと思います。