2023年6月15日木曜日

不安定な天気

歩いているとき、傘をささなてくも歩けるほどの小雨。
午後のニュースを見ていると

近畿 兵庫中心に激しい雨予想 土砂災害・浸水・増水十分注意」(関西NHK)
この花を見てパッと浮んだ名前…
でも、雌しべと葉の大きさが違うなと…
でも、いつもはすぐに名前が浮んでくるのになかなか出てこない…
帰宅後、画像を編集していても出てこない…
検索のキーワードまで浮んでくるのに
イライラ、モヤモヤしながら編集していると
何の前触れもなく花の名前がでてきた
森山良子さんの「Ale Ale Ale」♪そのままだった(^^;
  妻を忘れる――物忘れ

 物忘れしげくなりつつ携へて妻と行くときその妻を忘る 宮 柊二

 妻を伴って外出したのだが、うっかりその妻を忘れてしまっていた。
このごろ、物忘れが多いが、いっしょに居る妻を忘れるとは、われながらなんとまあ。
 この歌を初めて読んだとき、笑ってしまったが、何度読んでも読むたびにやはり可笑(おか)しい。
加齢とともに誰(だれ)でも物忘れが多くなるものだが、いっしょに歩いていた奥さんを忘れたという話は聞いたことがない。
 しかしありそうな話である。
きっと実際に宮柊二は、大切なつれあいを忘れたにちがいない。
それをこのように、あっけらかんとひとごとのように歌っているのがこの歌の身上だろう。
 この歌を作ったときの宮柊二は、65、6歳であり、日本芸術院賞を受けたころであった。
しかし、彼は長年にわたる多くの病気と、迫ってくる老いに苦しんでいた。
脳梗塞(のうこうそく)のために、手足もことばも不自由だった。
そんな中で、こんなトボけたユーモラスな歌を作っていたのである。
(『現代うた景色 ―河野裕子の短歌案内』河野裕子 中公文庫 2014年)
 散歩かと声かけくれし老婦人誰なりしかも思ひ出せざり  大悟法利雄

『九十歳前後』という歌集にある歌。
この歌を作ったとき作者は90歳だった。
大悟法利雄は、4年前に92歳で亡くなったが、この人も宮柊二のように死ぬまで現役の歌人であった。
 90歳の作者は、運動のために散歩を日課としていたのだろう。
(あ)る日、「お散歩ですか」と、一人の老婦人からこえをかけられ、はたと困った。
あれ、この人は誰なのだろう。
名前どころか、誰なのかさえわからないのである。
『九十歳前後』には、数えきれないほどたくさんの物忘れの歌がある。
この老歌人が、いかに自分の物忘れを、つまり老いを気にしていたかがよくわかる。
 記憶力衰へつつもふるさとの鳥わたりゆく夕ぐれ想(おも) 田原昭巳

 人間の記憶力は、12歳をピークに以後衰えてゆくそうである。
そのことが老いるに従って、はっきりと自他共にわかってくる。
この歌の作者は、何十年も昔に見たふるさとの夕ぐれの景を、なつかしく思い出している。
幼少のころ見た情景とその情感は、人生の夕映えを飾るように齢(とし)と共になぜか鮮やかに甦(よみがえ)ってくるものであるらしい。
 新聞や歌誌の投稿欄、何冊もの歌集にあたってみて、物忘れの歌が予想よりはるかに多かったことに驚いている。
 人の名前を忘れ、眼鏡を忘れ、傘を忘れ、歯科の予約を忘れ、漢字を忘れ、子の名前を忘れ、いっしょに歩いている妻さえ忘れ、時にはそれらを忘れていたことさえ忘れて人は老いてゆく。
そして、「物忘れはげしくなりしみづからを時にし憎む老の身あはれ」(渡辺千鶴)と物忘れの激しさに自分自身を憎んでしまうことさえある。
それ程にも、老いがもたらす身の衰えは情なく辛(つら)い。
 しかし、どのようなものであれ現実をどこかで肯定することによって、人は生きてゆけるのだろう。
宮柊二の、一見トボけたユーモラスな物忘れの歌は、老いの引き受け方のひとつの知恵のあり方を示しているような気がする。
 新しく覚える力は衰えるけれども、幼少期をねんごろに鮮明に思い出すという老いの記憶力の生理。
それは、自然が私たちに与えてくれた恩恵のようにも、慰藉(いしゃ)のようにも思われるのである。
(『現代うた景色 ―河野裕子の短歌案内』河野裕子 中公文庫 2014年)
 「酒ぎらひ」つづき

 をととひの夜、ほんたうに珍しい人ばかり三人、遊びに来てくれることになつて、私は、その三日ばかり前から落ちつかなかつた。
台所にお酒が二升あつた。
これは、よそからいただいたもので、私は、その処置について思案してゐた矢先に、十一月二日夜A君と二人で遊びに行く、といふハガキをもらつたので、よし、この機会にW君にも来ていただいて、四人でこの二升の処置をつけしまはう、どうも家の内に酒が在ると眼ざはりで、不潔で、気が散つて、いけない、四人で二升は、不足かも知れない、談たまたま佳境に入つたとたんに、女房が間抜顔して、もう酒は切れましたと報告するのは、聞くはうにとつては、甚だ興覚めのものであるから、もう一升、酒屋へ行つて、とどけさせない、と私は、もつもらしい顔して家の者に言ひつけた。
(『太宰治全集 第十巻』太宰治 筑摩書房 昭和52年)
酒は、三升ある。
台所に三本、瓶が並んでゐる。
それを見ては、どうしても落ちついてゐるわけにはいかない。
大犯罪を遂行するものの如く、心中の不安、緊張は、極点にまで達した。
身のほど知らぬぜいたくのやうにも思はれ、犯罪意識がひしひしと身にせまつて、私は、をととひは朝から、意味もなく庭をぐるぐる廻つて歩いたり、また、狭い部屋の中を、のしのしと歩きまはつたり、時計を、五分毎に見て、一図に日の暮れるのを待つたのである。
 六時半にW君が来た。
あの画には、おどろきましたよ。
感心しましたね。
ソバカスなんか、よく覚えてゐましたね。
と、親しさを表現するために、わざと津軽訛の言葉を使つてW君は、笑ひながら言ふのである。
私も、久しぶりに津軽訛を耳にして、うれしく、こちらも大いに努力して津軽言葉を連発し、呑むべしや、今夜は、死ぬほど呑むべしや、といふやうな工合ひで、一刻も早く酔つぱらひたく、どんどん呑んだ。
七時すこし過ぎに、Y君とA君とが、そろつてやつて来た。
私は、ただもう呑んだ。
感激を、なんと言ひ伝へていいかわからぬので、ただ呑んだ。
死ぬほど呑んだ。
十二時に、みなさん帰つた。
私は、ぶつたふれるように寝てしまつた。
 きのふの朝、眼をさましてすぐ家の者にたづねた。
「何か、失敗なかつたかね。失敗しなかつたかね。わるいこと言はなかつたかね。」
 失敗は無いやうでした、といふ家の者の答へを聞き、よかつた、と胸を撫でた。
けれども、なんだか、みんなあんなにいい人ばかりなのに、せつかく、こんな田舎までやつて来て下さつたのに、自分は何も、もてなすことができず、みんな一種の淋しさ、幻滅を抱いて帰つたのではなかろうかと、そんな心配が頭をもたげ、とみるみるその心配が夕立雲の如く全身にひろがり、やはり床の中で、ゐても立つても居られぬ転輾がはじまつた。
ことにもW君が、私の家の玄関にお酒を一升こつそり置いて行つたのを、その朝はじめて発見して、W君の好意が、たまらぬほど身にしみて、その辺を裸足で走りまはりたいほどに、苦痛であつた。
 そのとき、山梨県吉田町のN君が、たづねて来た。
N君とは、去年の秋、私が御坂峠へ仕事しに行つたときからの友人である。
こんど、東京の造船所に勤めることになりました、と晴れやかに笑つて言つた。
私はN君を逃すまいと思つた。
台所に、まだ酒が残つて在る筈だ。
それに、ゆうべW君が、わざわざ持つて来てくれた酒が、一升在る。
整理してしまはうと思つた。
けふ、台所の不浄なものを、きれいに掃除して、さうしてあすから、潔白の精進をはじめようと、ひそかに計画して、むりむりN君にも酒をすすめて、私も大いに呑んだ。
そこへ、ひよつこり、Y君が奥さんと一緒に、ちよつとゆうべのお礼に、などと固苦しい挨拶しにやつて来られたのである。
玄関で帰らうとするのを、私は、Y君の手首を固くつかんで放さなかつた。
ちよつとでいいから、とにかく、ちようとでいいから、奥さんも、どうぞ、と、ほとんど暴力的に座敷へあがつてもらつて、なにかと、わがままの理屈を言ひ、たうとうY君をも、酒の仲間に入れることに成功した。
Y君は、その日は明治節で、勤めが休みなので、二、三親戚へ、ごぶさたのおわびに廻つて、これから、もう一軒、顔出しせねばならぬから、と、ともすれば、逃げ出さうとするのを、その一軒を残して置くはうが、人生の味だ、完璧を望んでは、いけませんなどと屁理屈言つて、つひに四升のお酒を、一滴のこさず整理することに成功したのである。
解題「酒ぎらひ
 昭和15年3月1日発行の『知性』第3巻第3号に発表された。
人文書院刊『思ひ出』に「余瀝 近事片々」の総題の下に初めて収録され、のち、若草書房刊『太宰治随想集』に再録される。
(『太宰治全集 第十巻』太宰治 筑摩書房 昭和52年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワセミに出会って喜んでいました。

昨日、循環器科の先生に体調を聞かれたので
天候が不安定な時は、気分が悪くなったりしますと報告すると
先生も気圧の変化で頭痛がするそうです。

土曜日に父と妹が新型コロナワクチンを接種します。
父は9月に92歳になりますし、妹も基礎疾患があるので嫌々ながらも受けます。
私は、7月末に接種を受ける予定です。
この2月に東京の叔母が感染して入院していたそうです。
友だちは、職場でクラスターが発生した後、数日して感染しましたが、喉の痛みだけで完治しました。
新型コロナが5類に移行してから感染者が増えているようですが、生きていくために働かなくてはなりません。
以前のような対策は、とられないでしょうから、各自、感染対策をするほかないと思います。