先日、バスで通った四条通を逆に歩きました。
まだ9時過ぎなので観光客も少なく気持ちよく歩けました八坂神社御旅所
「境外のお社・ご祭神」(八坂神社)
祇園祭は、7月から一月間行われますが
4月現在は、静かです(^。^)
「祇園祭行事日程」(祇園祭山鉾連合会)
「巡行図」(八坂神社八坂神社
◆庶民に支持された「祇園さん」
…前略…
身分を問わず楽しめる娯楽の誕生
さて、この時代、祇園祭の見物が身分にかかわりなく楽しめるものであったことに注目したい。
特権階級が文化を専有すべきだとする考えは、室町時代に急速に失われていくのだ。
室町時代の狂言の流行は、このことと深くかかわるものである。
なぜなら狂言の脚本は、明らかに民衆の観客を喜ばせるためにつくられているからだ。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年) 室町時代のなかばに、公家を笑い物にする作品を演じた狂言師が罰せられる、という事件があった。
皇族の伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)はそのとき、公家の零落(れいらく)を笑う話をつくるとはけしからんと記している。
しかし、狂言をおもしろがる公家や僧侶も多かった。
そのため、一時的弾圧にもめげず、あちこちで狂言が演じられつづけた。
狂言鑑賞の場では、上流階級の人びとも民衆の視点に立って演劇を楽しむようになったのである。
…後略…
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年) 摂社(せっしゃ) 冠者殿社(かんじゃでんしゃ)(重要文化財)
御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒魂(あらみたま)
祭 日 10月20日 午後2時
当社は四条通を東へ真ッすぐ進んだ先に所在する、八坂神社の境外摂社(けいがいせっしゃ)で、「官社殿社」と表記されることもあります。
御祭神(ごさいじん)は八坂神社の主祭神(しゅさいじん)でもある素戔嗚尊(すさのをのみこと)の荒魂をお祀(まつ)りしています。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、御神霊(ごしんれい)の穏やかなはたらきを和魂、猛々(たけだけ)しいはたらきを荒魂といいます。
当社は室町時代後期に作製された『上杉本洛中洛外図屏風』に「くわぢやとの」の名で描かれており、御旅所(おたびしょ)がこの地に移転する以前からすでに現在の地にあったとされています。
また、かつては烏丸高辻(からすまたかつじ)の大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)、万寿寺高倉(まんじゅじたかくら<現在の官社殿町(かんしゃでんちょう)>)にあったとも伝わります。
なお明治45年の四条通拡幅に伴い、旧社地より南方に後退しています。
10月20日が冠者殿社の祭日で、これを俗に「誓文払(せいもんばら)い」といいます。
昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、利益を得るための商売上の駆け引きの中で時には他者を欺(あざむ)くことに対する償(つぐな)いの意識をもっていました。
この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、お客様に利益を還元(かんげん)する商道徳がしっかり守られていました。
この本来の誓文払いの精神を継(つ)ぎ、毎年10月20日には商売人は商売繁昌(はんじょう)を、一般の方々は神様の清き心を戴(いただ)き家内安全で過ごせるよう願って大勢の方が当社に参拝されます。
社殿は令和2年12月23日に重要文化財に指定されています。
八坂神社 冠者殿社
御祭神 素戔嗚尊の荒魂
祭 日 10月20日
御神徳 商売繁昌・家内安全
由 緒
冠者殿社は天照大御神に身の潔白を誓約された素戔嗚尊を誓文払いの神としてお祀りし商家をはじめ京洛の人々からの崇敬を集めています
社前に建つ鳥居は冠者殿社に提灯の灯りを捧げ誓文払いと商いの伝統を広め伝えることを目的に設立された冠者殿社崇敬会が設立十周年の節目に奉納したもので
第六十二回式年遷宮による伊勢の神宮の撤去材を以て平成27年3月29日竣工しましたこんなところにあったんだと思いました。
歩いていないと気がつかない……
円山応挙宅址(まるやまおうきょたくあと)
下京区四条通堺町東入ル南側 立売中之町(たちうりなかのまち)
応挙は享保18年(1733)丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現亀岡市)の農家に生れたが、幼少より画を好み、17歳のとき、京都に出て狩野派の画家石田幽汀(ゆうてい)の門に入り、画法を学んだ。
写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得、幾多の名作を世にあらわした。
この地に居をかまえたのは、若い頃、近くの四条道場金連寺(こんれんじ)の境内に借家住いをしていた関係からでもあろうか。
その画風は当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春(ごしゅん)の四条派と京都画壇を二分する流派(円山派)をなした。
寛政5年(1793)応挙は病にかかり、間もなく回復したが、その後は歩行の自由を欠き、視力も衰えた。
それにも拘らず、毎年伏見の梅渓(うめだに<現伏見区桃山>)に梅見に行くのを楽しみとしていた。
亀山候以来の名作「保津川図」を描いて間もなく同7年(1795)7月17日、63歳で没した。
墓は太秦の悟真寺(ごしんじ)にある。 膏薬辻子(こうやくのずし)
膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。
また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられていた。
この地域は、皇后を何代も輩出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が、天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。
天慶3年(940年)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。
京都でも、空也上人が、道場の一角に塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。
そして、空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになったとされている。
京都市残念ながら戸が閉まっていて入れませんでしたが、
「京都神田明神」
御祭神 平将門命・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)
平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。
この地は天慶の乱に敗れた将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。
古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、このたび将門公を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えいたしました。
皇居のほとり、千代田区大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、弱きを助くる」精神を慕い、参拝者がたえません。東京に鎮座する神田明神は、大己貴命・少彦名命とともに、平将門公を祀る神社です。
天平2年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶2年(1309)に将門公が合祀されました。
元和2年(1616)に江戸幕府により江戸城(現在の皇居)から見て表鬼門守護の地へ遷座しました。
江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。
神田明神の大祭 「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍が上覧しました。
明治7年(1874)には、明治天皇も親しくご参拝されました。
現在は「祇園祭」「天神祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、二年に一度、5月中旬に行われ、二百基に及ぶ神輿が賑やかに担がれております。尚、この土地・建物は、神田明神責任役員氏子総代遠藤●●氏のご遺志を継ぎ、娘の●●德子様より寄贈されたものです。
平成30年4月吉日
〒101-0021 東京都千代田区外神田2-16-2
神田神社社務所
(電話・ファック番号:省略)
名前は、「●●」として伏せています。
「京都神田明神例祭のおしらせ」
「神田祭 江戸時代から続く神田明神の祭礼」(NHKアーカイブス 2013年)
この後、訪ねる宅址の方の日記に出てくるのですが「日吉神社」
由緒などを記した案内板を見落とした…(^^ゞ
三ツ森稲荷なので狐が祀られていますが、
隅っこにいたのが…… タヌキ 福を呼び込む出世の神
不思議な霊力を持つタヌキ
日本昔話に見られるように、タヌキは人を化かす生き物だと考えられていた。
これは、人間や犬などに襲われると死んだふりをし、隙を見て逃げ出すという習性から生れたものだという。
昔から不思議な霊力を持つ動物だと見られており、タヌキを神として祀ると、福や富がもたらされるという信仰が生まれた。
柳森神社(東京)の境内にある福寿社にはタヌキの像が置かれる。
江戸時代、五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)が祀ったもので、「お狸さま」と呼ばれている。
八百屋の娘から大出世を果たした桂昌院にあやかり、「他を抜く」として、タヌキの象が置かれるようになったという。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)
「秋葉原・神田 柳森神社」(千代田区観光協会)訪ねたいと思っていたのが
与謝蕪村宅址(終焉の地)
蕪村は享保元年(1716年)摂津國東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたと言われている。
二十歳の頃一人江戸に下り早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。
27歳師巴人が没した後江戸を離れ関東、奥羽地方へ長い旅に出る。
関東、東北地方を遊歴する事約十年蕪村は寛延4年(1751年)36歳で京都に上り浄土宗総本山知恩院の近くに居を得る。
3年足らずで京都を去り丹後宮津へ赴き浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。
42歳で再び京都に戻った蕪村は姓を谷口から与謝と改め画を売って生活をたてる決心をし、やがて妻帯する。
その後数箇所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生み出したのである。 蕪村の幻の日記に次の様にしるされている。
「安永三年十一月某日(蕪村59歳の時)
近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空家ありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって三日前移転する。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊が一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る。」
註 昭和36年までここに路地があり、地蔵尊は昭和22年8月釘隠町町内会の総意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。
蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。 大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)
ここはかつて、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御(みこしとぎょ)のとき、三基の神輿のうち、大政所(素戔嗚尊)神輿と八王子(八柱御子神<やはしらのみこがみ>)神輿の二基が安置される場所であった。
残る少将井(しょうしょうい<櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)>)神輿は烏丸竹屋町にあった少将井御旅所に渡御していたが、天正19年(1591)に豊臣秀吉により、これら二つの御旅所が四条寺町に移築・統合されて、現在の御旅所となった。
天延(てんえん)2年(974)に、この地に住んでいた秦助正(はたのすけまさ)が、夢の中で八坂大神の神託を受け、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。
天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めたという。
今でも神輿還御(みこしかんぎょ)の時には神輿が立ち寄り、神職が拝礼する。
京都市扁額を見上げると「八阪大神」と書かれていました。次に訪れたのは真宗佛光寺派 本山佛光寺
仏光寺(ぶっこうじ)
渋谷山(しぶたにさん)と号する真宗仏光寺派の大本山。
本尊は阿弥陀如来。
東国から帰洛した親鸞のため、1212(建暦2)年に高弟の源海(げんかい)が山科東野に建立した興隆正法寺(こうりゅうしょうぼうじ<興正寺>)が起源とされる。
1329年(元徳元)年、7世了源(りょうげん)のとき東山渋谷にうつった。
1327(嘉暦2)年、本尊が盗難にあい、二条河原に遺棄された。
その夜、宮中にひと筋の光がさし、あやしんだ後醍醐(ごだいご)天皇が光をたどらせると仏像を発見した。
この奇瑞(きずい)から「阿弥陀仏光寺」の勅額(ちょくがく)を賜り、寺名を改めたという。
了源の名帳・絵系図による結縁勧請(けちえんかんじょう)で信徒が増大し、本願寺など真宗他派を凌駕(りょうが)した。
文明年間(1469~87)に14世経豪(きょうごう)が本願寺蓮如(れんにょ)に心服し、旧名を復して興正寺を名乗って末寺48坊中、42坊を率いて帰依(きえ)したため、以後寺運は衰微した。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年) 1586(天正14)年、豊臣秀吉の大仏殿建立にあたり、渋谷から現在地に移転。
現在の堂宇(どうう)は天明(てんめい)・元治(げんじ)両度の大火に類焼したあとの再建である。
本堂(阿弥陀堂)には本尊の阿弥陀如来立像(りゅうぞう)がまつられ、かたわらに聖徳太子立像(鎌倉期・国重文)および了源の像が安置されている。
また大師(だいし)堂(御影<みえい>堂)には親鸞像が奉安されている。
ほかに鐘楼・書院・寝殿がたち並ぶ。
周囲には光薗院(こうえんいん)や大行寺(だいぎょうじ)などの子院が軒を連ねている。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)桜が咲いた
今年も咲いた
誰かに
頼まれもせず
自慢もせず
ただ花を咲かせ
散っていく
それがすばらしい 燈篭町会所(保昌山)
燈篭町は、祇園祭のとき保昌山を出す町内である。
町会所の敷地は、享保19年(1734)に近江屋五郎兵衛から購入したことが町有文書にみえ、以来この敷地は変化していないと考えられる。
また、町内には、大島家傳次郎が会所を町内へ寄付したとの伝えが残るが、大島家は文政8年(1825)に没しており、このときは建物を寄付したものと思われる。
現在、ここには会所家、土蔵、稲荷大明神社が建つ。
会所家は、明治3年(1870)の造営で、二階が一部路地の上にまたがり、その表の間は祭りの時にはお飾り場となる。
二階の室内は長押をまわし、格天井を張り、御神体を安置する中央部を折り上げて、格式ある構成をしている。
土蔵は、文化5年(1808)に造営されたものである。
この町会所は、会所家以外の建物がそろい、また、会所家のお飾り場にも特色があって、祇園祭町会所として貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
京都市
長徳3年(997)、因幡(現在の鳥取県)国司・橘行平(たちばなゆきひら)が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(がるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来が像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。
この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。
なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。
堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。
この薬師如来立像は藤原時代の一木造りの優品で、重要文化財に指定されている。
嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。
京都市ネコのお守りがあったので妹へのお土産にしました。
帰ってから妹に渡すと、娘にあげるといいました(^-^)
…◆…◆…◆…
鴨さんの記事に
「病気の克服を願い 因幡薬師さま」(2014年3月23日 日曜日)
京都の市街地の真中、四条烏丸。
ここにあるのが真言宗平等寺、通称「因幡薬師」さま。
日本三如来様のお一人ということで
まさに病気平癒の薬師如来様がいらっしゃるお寺です。
特に「がん封じ」の薬師様。
昨夜は痛みのためほとんど眠れない夜に。
朝一番でお詣りし、精一杯のお願いをしてきました。
今日は作り笑顔の一日になりそうです。
…◆…◆…◆
今週は、父と妹の通院がつづきますので
今回の京都町歩きがつづきます(^^ゞ

























Kazeさん
返信削除仏光寺の東側の町屋に泊まったのに
ついついお喋りに花が咲き
立ち寄るチャンスを逃してしまいました
次回訪れてみたいと思います
becoさんコメントありがとうございます(^^)/
削除久しぶりに会った友だちと
お喋りの花が咲くのは当然ですよね(^_-)
σ(^^;)は一人なので
キョロキョロしながら歩いていますが
見落とすことが一杯です(^^ゞ