2026年4月5日日曜日

柳小路~高瀬川(4月3日)

河原町に戻って路地裏に入りました(^_-)
ランチメニューの「牛ネックのシチュー」をいただきました。
2018年に来たときは「牛タンのハンバーグと温野菜」(^_^)v
お店に入ったときは、一人の女性客と二人連れのカップルがいて
二人連れの方は中国からの旅行者のようでした。
女性一人でも気楽に入れるお店だと思います。
電車の中などで読んでいた澤田瞳子さんの『京都折々暮し』は、
天神さんが晴れなら』を文庫本にしてくれました。
文庫本だと病院の待ち時間などに読めるから嬉しいです(^_^)v

先客が帰った後、カウンター席なので、
店主さんと少し話をしていました。
暫くすると欧米の方が5人、入ってこられた。
その中の若い男性が店主さんと少し話をされた後、店を出られました。
若い男性が二組のご夫婦を案内されたようです。
その後、三人組が入ってこられました。
中国からの旅行者のようでした。
暫くして先客の男性が隣の席になった方と英語で会話されていました。
どこから来たのかというようなことを質問されていたようです。
お店は「お二九と八さい はちべー
四条河原町からちょっと入った路地にあるので、初めての方は迷うかな?
前回と今回、美味しかったので
次回は、「季節の野菜のハラミ丼」に挑戦しようかな?
でも、食べきれるかなぁ…(「お料理 おしながき」)
 お店の隣りに鎮座されているのは「八兵衞明神
八兵衞さんの謂れについて
柳小路 八兵衛明神~西陣織屋のお地蔵さん見物」(西陣岡本)

そして八兵衞明神は、小さいながらも森見登美彦さんの『聖なる怠け者の冒険』に登場します。
立ち読み」にも載っています(^_-)

タヌキの絵本で好きなのが……
面白くてやがて哀しいけどクスッとするお話しです。
朝ドラ「ばけばけ」や「風、薫る」と同じ文明開化の頃のお話しです。
何故、大明神とお祀りされたかは絵本を読んでください(^^)/
 ごろはちだいみょうじん

 …前略…

 むらの ひとやらは、べんてんはんの もりに やしろをたてて おまつりしよった。
 いちめん おいなりさんの はたを たてて、あぶらげも わすれずに まいにち おそなえしとる。
 ごろはちに したら、
「まだ きつねやらと いっしょくたに しとるのかいな。
こっちは たぬきやで」
と、くやしがっとる ところやろ。

 それから、ぜんきょうじの ごいんさんも、ちょいちょい おきょうを あげにきよるのやが、 ごろはちは それにも もんくを いうとる ことやろ。
「あほらし。ほとけさんと ちがうがな。
こっちは れっきとした かみさんや、だいみょうじん さまさまや ないか」
 めでたし めでたし。
というたかて なにが めでたいのやろ。
(『ごろはちだいみょうじん』中川正文 作、梶山俊夫 絵、福音館書店 1969年)

社の旗に書かれていたのは「五呂八大明神
学生時代、よく飲みに行った「居酒屋 静」が隣り
2019年3月10日で紹介しましたが中原中也が訪れた「正宗ホール」を買い取ってお店を広げたそうです。
(京ものがたり)中原中也 「ダダ」との出会い〟(朝日新聞 2014年12月16日)

京ものがたり 作家・スター35人が愛した京都ゆかりの地』(朝日文庫)

  路地と辻子

 京都には次々とブームがやってきます。
つくられている、と言ってもいいでしょう。
少し前は町屋でしたが、今は路地裏ですね。
本当の京都は路地裏に潜んでいる。
僕もそんな本を書いて、路地裏ブームにひと役買ったのではありますが。
 路地と書いて、京都の人は<ろぉじ>と読みます。
子音に母音をくっつけて長く伸ばすのは京都人の習わしです。
 お陽さまも、<おひぃさま>です。
目は<めぇ>だし、歯は<はぁ>です。
短く言いきってしまうのに比べて、母音を伸ばすと余韻が残るような気がします。
 ろじ、と言い切るより、ろぉじ、と言ったほうが親しみが持てますでしょ。
路地の奥に何かが潜んでいるような気もしてきますし。
 さて路地という言葉。
ただ単に細い道のことを言うのではありません。
行き当たりになっていて、通り抜けできない道のことを路地と言うのです。
そして通り抜けできる道は辻子(ずし)と言います。
 この路地と辻子が洛中にはたくさんあり、名前が付いているところもあれば、名も無き路地や辻子もあります。

 …後略…

(『京都のツボ 識れば愉しい都の素顔』柏井壽 集英社 2016年)

第十四回 京都の路地(ろーじ)」(京都ツウのススメ 光川貴浩)
京阪三条に向かっていると前を歩く人が持っていた紙袋が「村上重本店
Uターンしてお土産を買うことにしました(^-^)
もうじき母の命日
京都に行くと母がお土産にリクエストした「しば漬」(+「こぶ大根」)
高瀬川にでると桜が満開で、観光客も満開(?)… 

高瀬川開削400年―角倉了以と素庵」(鴨川納涼床への誘い)

大悲閣千光寺で角倉了以(すみくらりょうい)の足跡を訪ねました。
了以の子・素庵(そあん)も魅力的な人物です。

 12章 寛永文化人の面影
 嵯峨本
 

 角倉了以の長子与一、素庵は、父の安南貿易や諸川開鑿の事業を助けかつその後を継いだばかりでなく、学芸へのはげしい情熱の持主でもあった。
 天正16年(1588)素庵は18歳のとき、当時相国寺にいた藤原惺窩(ふじわらせいか)をはじめて訪ねていらい、惺窩に師礼をとって儒学にふかく志をよせた。
慶長9年(1604)京洛で論語集註を講じていた林羅山と相知って、羅山を惺窩に紹介し、日本の二大儒を結び合わせたのも素庵であった
羅山はつねに素庵を先生として遇したのである。
のちに慶長19年(1614)春のころ、幕府に仕えた羅山が金座を担当していた後藤庄三郎と図って学校を京都に建て、惺窩をその祭酒(学長)たらしめようと計画したが、この時に当って設立の事務一切を担当したのも素庵であった。
この計画はついに実現できなかったが、素庵はその敷地の獲得のためにも奔走した。
京都を学問の府としようという、彼の熱情がしからしめたのである。
彼はひとり儒学においてあらわれたばかりではなく、和書に対しても深い教養をもっていた。
和歌に書道に佳ならざるはなかった。
ことに書道の師となったのは、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)であって、素庵は実にその流の随一と称せられた。
当時、光悦は近衛信尹(このえのぶただ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに寛永の三筆とうたわれたが、信尹を敬遠して素庵を加え、洛下の三筆と称することもあった。
素庵と光悦との関係は、師弟関係というよりもいっそうこまやかなものであった。
(『京都』林屋辰三郎 岩波新書 1962年)

 嵯峨本(さがぼん)という出版のしごとは、この素庵を中心とした交友関係のなかから生れた。
王朝いらいの出版の歴史のながれは、経典や縁起といった仏教のわくのなかに閉じこめられていたが、中世がおわるとともにせきをきったように、そのわくを破って各方面にながれ出てきた。
とくに朝鮮役後に輸入されてきた木活字による印刷技術は、いっそう拍車をかけたであろう。
その場合には出版に三つの中心があったことは注意すべきである。
一つは、後陽成・後水尾両天皇のもとで出され勅板といわれる、『日本書紀神代巻』、『職原抄(しょくげんしょう)』など、一つは徳川幕府が中心となった伏見板・駿河板といわれる、『吾妻鏡(あずまかがみ)』、『貞観政要(じょうがんせいよう)』など、最後の一つが嵯峨本といわれる角倉素庵を中心とした出版であった。
この三つの出版には、それぞれの持ち味があって、勅板と伏見・駿河板には公家と武家のそれぞれの政治的立場からの古典がえらばれているのであるが、嵯峨本はひろい教養的立場から古典が挙げられている。
はじめて刊行されたのは『史記』で、慶長9年(1604)ごろに出された大判のものであったが、ふつう嵯峨本とされるのは、主として和書であり、とくに版画をともなっていた点で注目されるものである。
たとえば『伊勢物語』のように挿絵入りのものや、『方丈記』、『観世流謡本』のように雲母模様摺(きららもようずり)の下絵のあるものなどがある。
こうした嵯峨本は、光悦が自ら工夫をこらして料紙・装潢(そうこう)の意匠をこころみ、光悦・素庵相たずさえてその版下を書いたと考えられる。
そこでは中院通勝(なかのいんみちかつ)のような当時第一流の学者が定本を提供し、観世大夫黒雪などとのふかい親近関係が書目の選定に役立っていた。
嵯峨本の世界は、こうした人々の協力のもとにつくられたのである。
それはおそらく京都の町衆のつくり出した最も美しい芸術品の一つであるとともに、後代の印刷技術の上に重大な影響を与えたものといえよう。

 …後略…

(『京都』林屋辰三郎 岩波新書 1962年)

嵯峨本『伊勢物語』」(印刷博物館) 

装潢文化財修理の特徴」(国宝修理装潢師連盟)

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