2025年10月7日火曜日

寒暖差が大きいですね…

出かけるときはヒンヤリするくらいだったのに
歩いていると汗が出てきました。
ソメイヨシノの返り咲き
酷暑ですっかり葉が落ちていました。

ノーベル賞 坂口志文さん“受賞を機に 免疫研究分野 発展を”」(NHK)
記事の中に〝「制御性T細胞」発見まで 20年近くにわたる長い研究〟とあるように
研究成果がでるまでに長い時間が必要です。

ノーベル賞 坂口氏と長年親交がある京都大学の研究者も祝福」(NHK)
正しいことやっていればいつか評価されるんだなと思った

今の日本では、すぐに結果を求められる。
 翅が傷んでも懸命に生きているアゲハ
今度の自民党総裁の発言「ワークライフバランスという言葉を捨てます」が波紋を広げているようですね。
義弟は、50代でくも膜下出血で亡くなりました。
私も50代で心筋梗塞を発症しました。
仕事のストレスから病気や精神的なストレスなどで過労死になる方がおられます。
現役世代のみなさんが体と心の健康を維持できますように!
朝ドラ「ばけばけ」を見ていると、武士の世の中から明治になり
時代の流れについて行けなかった松野家のみんなは、
日に日に世界が悪くなる…」と
没落して悲壮なはずなのに明るい。

第1週「ブシムスメ、ウラメシ。」 (4)の最後に
アメリカ、シンシナティで
一方 そのころ 新聞記者の仕事を失い餓死寸前のレフカダ・ヘブンがおトキちゃんと同じくうらめしい日々を送っていました
グレーテルのかまど」でラフカディオ・ハーンを取り上げてくれないかなぁ!
と言うのは、苦しいシンシナティ時代からニューオーリンズに移ってから書かれた本

 八雲が残した唯一の料理書 河島弘美

 …前略…

 さて、本書と最も関係の深いニューオーリンズ時代に戻ろう。
27歳でオハイオ州シンシナティから移って以来の10年間、これはハーンにとっての充実の時代であった。
はじめハーンはこの街で窮乏生活や熱病に苦しんだ。
だが、後にハーンの優れた伝記を著したエリザベス・スティーヴンスンが、「タイムズ・デモクラット」に入社してからのハーンについて、「作家として名をあげはじめ、新聞記者として最も幸福な活動期を迎えた頃」と述べたとおり、やがてハーンは記者としての仕事をこなしつつ読書や翻訳に励み、周囲の人たちとの交際を楽しみ、ハーバート・スペンサーの進化論や東洋、特に中国や日本への関心を深めるといった具合に、20代から30代にかかる若さにふさわしく、さまざまなことに関心をもって生き生きと暮らすことになる。
(『小泉八雲のレシピ帖』河島弘美監修、鈴木あかね訳 CEメディアハウス 2025年)
 ニューオーリンズはミシシッピ川の河口近くにある港町で、アメリカには珍しいラテン系の街でもある。
まだシンシナティにいた頃、ジョージ・ワシントン・ケイブルという人物の文章をたまたま読んで心をひかれたことが、ハーンにニューオーリンズ行きを決意させた理由の一つと言われる。
ケイブルが描いたニューオーリンズのクレオール文化に、ハーンは夢中になったのである。
 クレオールという語は多義的だが、その語源は「植民地生まれのヨーロッパ系住民」をあらわすスペイン語の「クリオーリョ」である。
ニューオーリンズに赴いたハーンが見出したのは、ルイジアナ地方に入植したフランス人、スペイン人およびその子孫たちの文化だった。
ハーンは昔のフランス風ニューオーリンズの名残りの文化、つまり優美なフランス風の香りにアフリカ的な趣の混じった、この独特の文化を好んで街を探訪し、クレオール文化の衰退を憂えた。
もともと寒さが苦手で、ラテン民族のラテン文化に深い共感を寄せるハーンには、この南欧的な雰囲気は大きな魅力だった。
クレオールの物語、音楽、ことわざ、薬草などと並んでクレオールの料理も、ハーンの知的好奇心を刺戟したに違いない。
後述するように、初のクレオール料理書としての自著の意義を自負するハーンの言葉にも、また料理書の性格そのものにも、そのようなハーンの姿がよくあらわれているように思う。
 街の観察から得られた素材はたびたび「アイテム」紙上に載り、読者を楽しませた。
新入り記者ハーンは、地元の日常生活や風物を軽妙にまとめた記事に、独特の味の版画のカットをみずから添えて、それまであまり個性のなかった小新聞「アイテム」を結果的に廃刊から救う働きをしたのである。
しかし、一番楽しんでいたのは、書いているハーン自身だったのではないだろうか。
 筆まめなハーンが多数残した書簡の中にも、この街に暮らす満足感がにじみ出ている。
  大鴉(おおがらす)はこんなふうに過ごしております。朝はお日様と共に起き、コーヒーを一杯飲んで、パンをひと切れ食べる。それから社へ行って、「アイテム」の載せる駄文をでっち上げます。できたら下宿に帰る。窓の外の蔦(つた)と蚊の大群で薄暗いその部屋に、わがスペイン語の先生をお迎えするのです。勉強のあとは中華料理のレストランへ出掛けて、すごい食事――大鴉の栄養感覚は非常に発達しておりますからね。その後二時間ばかりを古本屋で過ごして床につきますが、真夜中に起きてパイプをふかします。
 「大鴉」とは自分のことで、古い友人ワトキンに宛てたこの一節には、ハーン自身のシンボルとして小さな鴉のカットが散りばめられ、いかにも上機嫌な様子が目に浮かぶ。
記事の執筆、勉強、古本探しといった知的な行動にアクセントをつけているのがコーヒーとパン、パイプの一服、そしてたっぷりした正餐という楽しみである点に注目したい。
よい香りが文面から漂ってくるようだ。
 他にも、ハーンが自分のクレオール風の一日について友人クレイビールに報告した手紙に、次のような一節がある。
  朝食に朝早くレストランに行って、無花果(いちじく)一皿、ブラック・コーヒー一杯、クリーム・チーズ一皿――これは北部のとは違って、牛乳を固めてクリームに浮べた素敵なものですが――それにとうもろこしのマフィンを二、三個と、卵一個を平らげます。
 なんともおいしそうで、食欲をそそられる文章ではないか。
 ニューオーリンズはまた、ハーンが料理店経営という事業を計画し、相棒の裏切りにあって二〇日あまりで失敗するという、生涯に一度のエピソードを生んだ土地である。
どんな料理でも相場の半額の五セントで提供する、南部で一番安い店をうたった広告ビラはシンシナティのワトキンのもとへも送られ、ハーンに印刷の仕事を教えたこの年配の友人を驚かせた。
 おいしい料理を食べさせてくれるコートニー夫人の食卓に出会ったハーンが、そこへ通いやすい住まいを求めて何度か引っ越しまでして常連となったのも、このニューオーリンズのことである。
のちにハーンは書簡や献辞で夫人への感謝の気持ちをあらわしている。
食べることへのハーンの並々ならぬ関心を感じずにはいられない。
 そのハーンがクレオール文化への尽きぬ興味と食べることへの関心を重ね合わせたところに誕生したのが、これも生涯にただ一冊となった料理本である。
『クレオール料理』( La Cuisine Créole )というタイトルのついたその本は、やはりハーンが集めたクレオールのことわざ集『ゴンボ・ゼーブ』、ハーンが一部寄稿した『クレオールガイドブック』と共に、ウィリアム・H・コールマンによって発行された。
コールマンはハーンがニューオーリンズに来たばかりの頃にできた友人で、その後ニューヨークで書籍を扱っていた。
1884年12月からニューオーリンズで開かれる博覧会に向けてこの三冊を出版し、街を訪れる人たちに大いに売ろうと、ハーンのほうからもちかけた計画だったらしい。
ところが、出版が翌年4月まで遅れてしまい、残念ながらもくろみははずれた。
それでも、三冊の中で当時一番売れたのは『クレオール料理』だったという。

 …中略…
 発行当時は別として、この料理本はその後、あまり読まれてこなかった。
あのハーンに料理の本があったという意外性が印象づけられるだけの存在であったようだ。
確かに、日本に関する研究書や『怪談』などいわゆる再話作品の著者、文学を講義する教師、あるいはセンセイショナルな記事を書いた記者としてのみハーンを見るなら意外に感じるのも当然だが、常に民俗学的関心を持ち、好奇心も食欲も旺盛だったという一面を考えるとき、意外性は薄れる。
民俗学者としてのハーンの側面は最近注目されているが、民話やことわざを収集したのと同じ動機、同じ要領で、ハーンはクレオール料理のレシピを集めたのだ。
そう考えれば、ハーンが料理の本を著したのも、むしろ自然な成り行きだったのかもしれない。
 それにしても、食文化という言葉もあるように、文化の重要な一分野である「食」の世界に真剣に取り組んだハーンの着眼点はさすがである。
当時のニューオーリンズの食生活をこれだけまとまった形で残した功績は大きい。
カニを、ザリガニを、亀を、クレオール料理では当時どんな風に調理していたのか、我々はこの本で知ることができる。
実に面白い本だ。

 …後略…

(『小泉八雲のレシピ帖』河島弘美監修、鈴木あかね訳 CEメディアハウス 2025年)

評伝ラフカディオ・ハーン』(E.スティーヴンスン)
今朝の父の一枚です(^^)/
父のお供で石清水八幡宮にお参りをするのですが、いつも訪ねたいと思いながらお参りできていない神社があります。

 台風観測は神頼み 

 京都の南、祇園四条から京阪本線で30分ほど行ったところに石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)があります。
台風の航空機観測のプロジェクトを開始したとき、まずここにプロジェクト成功の祈願に行きました。
その初めての参拝のとき、電車でたまたま向かいに座った乗客が、「飛行神社」と書かれた袋を持っていることに気がつきました。
 飛行神社は石清水八幡宮のある山の麓にあり、航空自衛隊の方をはじめとして、多くの航空関係の方が安全を祈願しに参拝する神社です。
ちょうど航空機で台風の観測を始めようとしているときでしたので、不思議なご縁を感じて、その日すぐに参拝しました。
それ以来、私の研究室には、飛行神社のお札がかかっています。
 台風の航空機観測の最も難しいところは、台風への安全なアプローチの仕方でも、観測の方法でもありません。
発生しようとしている台風が、観測するべき台風かそうでないかを判断することです。
予算が限られているので、1年間に観測できる台風はたかだか一つです。
つまり観測のチャンスは1度だけで、しかも研究目的を達成できるような台風でなければなりません。

 …つづく…

(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)

台風の研究は、災害の国、日本にとって国民の命と財産を守る研究のはずなのに…