昨日、父と妹がインフルエンザ予防接種をしたので、父は、散歩でなく散髪へ。
で、私は自転車で公園に向いました。
涼しくて気持ちよかったです(^_^)v
乗馬苑では、乗馬の訓練が行われていました。
タイのスティダー王妃は、千歳空港に飛行機を操縦されて来日されたのですね(°0°)
Royal World Thailandの投稿(10月15日)
「タイのスティダー王妃、政府専用機を操縦して北海道入り……」(読売新聞 10月16日)
タイで国際会議にあわせて開催されたイベント
「AIリスク議論 サイバー攻撃 システムぜい弱性検出後数秒で悪用」(NHK)〝緊急地震速報の過大推定 「過去の対策が機能せず」気象庁〟(NHK 10月16日)
第6章 日本列島で地震と津波に備える
●緊急地震速報とは
…前略…
具体的には、ゆれの始まる数十秒ほど前に、ゆれの大きさ(震度)や地震が起きた場所(震源)を伝えます。
ここでは地震波のP波が、強いゆれによる被害をもたらすS波よりも早く到達することを利用しています。
ちなみに、P波とS波の説明は第1章のコラムで行ったとおりです。
緊急地震速報が届くのは、ゆれが到達するほんの直前です。
しかし、そのわずかな間に私たちは大きなゆれに備えて、自分の身を守る準備をすることができます。
たとえば、列車のスピードをおさえたり、工場で作業中の機械をまえもって止めたりできるので、被害を未然に防いだり、なるべく小さくしたりすることができるのです。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)先日訪ねた清閑寺で月照のことを少し触れたのですが、
西郷隆盛と一緒に錦江湾に身を投じて亡くなった僧侶だという位しか知りませんでした。
月照と信海について故大西良慶和上が書かれていますので転記しますφ(.. )
清水寺の歴史と信仰 大西良慶
四 月照と信海
草創後の清水寺の歴史については、室町・江戸期のたびたびの災火で資料が焼亡し、甚だ不明瞭であります。
今後、現存の資料でなんとか明らかにしたいと思っております。
しかし、幕末期にあって当寺では、月照(げっしょう)・信海(しんかい)という忘れることのできない名僧が出られました。
江戸時代三百年の鎖国政策は、大きく転回せんとし、幕府の横暴による王政復古へのめまぐるしい変化が伺われようとするころ、当寺から、月照上人(忍向、1813~1858)・信海上人(1816~1859)が輩出し、国事に奔走し、そのために幕府の怒りにふれ、両上人とも非業の最期をとげられました。
(『古寺巡礼 京都 24 清水寺』大庭みな子 大西良慶他 淡光社 昭和53年) 月照、信海は兄弟で、父を宗江といい、代々医を業とする家庭で、大阪平野の出でありました。
月照は幼名を宗久といい、文政10年(1827)15歳時、叔父にあたる蔵海(ぞうかい)上人の下で得度しました。
中将房忍鎧(にんがい)と命名をうけ、師の蔵海亡き後、22歳で清水寺住職本願二十四世となられました。
約20年間住職をつとめ、成就院の本願として法務にはげみつつ、長く絶えていた密教の子島流の再興につとめ、若くして住職となり、諸寺をたずねて修道にはげんだのであります。
安政4年(1857)6月に、奈良の子島寺千手院に伝えられている飛行紺紙大曼荼羅(ひこうこんしだいまんだら)(縦372糎、巾300糎)の写得を発願し、京都東福寺山内の即宗院(そくしゅういん)の採薪亭(さいしんてい)で、その業を専ら精進しておられた。
今日、成就院の宝庫に未完成の絶筆の曼荼羅として蔵されていますが、国事のために遂に完成半ばで筆を措かざるをえなかったのであります。 その当時の国情は、嘉永6年(1853)アメリカの軍艦が、浦賀に来て幕府に開港を迫りそのために国内では、開港か攘夷(じょうい)かの両論が沸騰し、大騒動の中で、大老の井伊直弼(いいなおすけ)が勅許を得るいとまなく、幕府独自にアメリカと和親条約をむすびました。
幕府の横暴な行動に、世論は幕府を倒せという反幕の輿論がおこって、まこと国情騒然となったのであります。 安政5年(1858)も中葉を過ぎ、勤王の志士達がつぎつぎと捕えられ、月照の身も非常に危険となり、近衛忠煕(このえただひろ)の命をうけて西郷隆盛と共に西下し、まず奈良へ向おうとしたが警戒がきびしく、西郷の故郷の島津藩へ入ったのであります。
ところが折りあしく西郷を厚く信任していた藩主島津斉彬(しまずなりあきら)公が亡くなったところで、藩の事情も大きく変っていて、西郷の意向も汲んでもらえず、これ以上滞在して迷惑をかけてはいけないと、月照は西郷と共に、薩摩の鹿児島の三舟(みふね)の沖に入水、46歳の生涯を閉じたのであります。 月照は、江戸時代の末、一面沈滞した仏教界の中にあって、仏法の興隆を頭にえがきつつ、又、清水寺に伝えられながら長く途絶していた密教の子島流を再興したい一念に燃え、先に印可をうけた弟の信海を師として、子島流の再興をなし、法の興隆の為に非常な努力をつづけたのであります。 又歌をよくした月照は師の蔵海の影響もあり、30歳ころより歌葉をたしなみ、特に三十の中葉を過ぎるころより、歌葉を通じて近衛公との交渉が深まり、やがて青蓮院宮(しょうれんいんのみや)、そして勤王の志士との接触の機会が多く、そうした道程の中で勤王、そして国体護持に身を捧げることになったのです。 月照には『落葉塵芬集』と『詠草』の歌葉集(約七百首の歌葉)があり、その中に月に関する歌葉が八十余首もあります。
普門品
いつこにかやとらさるらむ夜半の月 仰く心も水もきよくは
融天院僧正の都婆を供養して
遠からぬ阿のふるさとに君はいて 蓮の花や月を見るらむ
など、月を仰ぎ月を友とし、阿のふるさとを詠んだ歌葉が多く、月照の心情をよくあらわしています。
月照は、法の諱(いみな)を忍介といい、忍介を「仁武可為」、「仁武我胆」ともよび、忍向と名を改めたのは、37歳の時であります。
月照の名もこういうところかとったものであり、夜半にのぼった月を眺め、月にも似てなんの不純もない澄みきった心に、浄土の世界があり、己が心の中に月のような美しい世界、浄い心があってほしいとたえず月を仰いでいたのです。 真言宗には「月輪観(がちりんかん)」という教え、観法をたてます。
それは月輪を媒介とする阿字観(あじかん)であり、月照の心境は、阿字観、すなわち浄らかな澄んだ浄土そのものの心境であると理解してよく、密教思想への深い理解と造詣があったといえましょう。 月照は、また慈雲(じうん<1718~1804、江戸末期の人で、真言宗正法律の祖で『十善法語』を著した>)に深く傾倒し、自らも戒行にきびしく生きると共に、十善戒(じゅうぜんかい<十の善と戒めの方向>)を中心とした慈雲の大乗仏教の戒行の大乗戒を深く信奉された。
十善戒の月照の歌
忍辱不瞋恚(にんにくふしんに)(十善戒 第九)
塵はかりいからてしのへしのひてそ 山より高くとくはるもらむ
正直不妄語(しょうじきふもうご)(十善戒 第四)
いつはりて生らんよりはしら露と 身はいさきよく消えもはてなむ
とあり、戒行への厳しい態度をこの歌からもよく知ることができるのです。 月照が、弟子忍慶(にんけい<1835~1890>)に与えた言葉に
「僧徒國事に奔走する職分に非さる者の如しと雖も 國のために害を除き、國のために難に赴く 是れ眞に佛意に合する者 それ國に生れ國害困難を坐視傍觀する 之れを徒食と謂う 豈佛の意ならんや 少年 此の語を忘ることなく 我が志を遂げよ」
とある。
この言葉のなかにも、月照の利他度生の思想から無為の徒、徒食を戒めている。 自らを接すること秋霜烈日、他に接するに利他度生、月の如く澄んだ無所有の高風、そして妙法妙律の僧風、そして
弓矢とる身にしあらねと一筋に 立てし心の末はかわらじ
一路に生死をのりこえてゆく崇高な護法の精神と共に、混沌たる世相のなかに烈々たる菩薩道に生きる月照を、西郷隆盛が傾倒したのもうなずけると思われるのです。 月照の実弟の信海は、月照が寛永4年(1851)に隠居した後、清水寺成就院の本願二十五世となって護法求道に精進されました。
18歳の時、密教学の本山の高野山に登り、学僧である霊明の住持する大聖院に寄寓し、ひたすら精進され、安祥流の伝授をうけ、倶舎(くしゃ)・唯識(ゆいしき)・華厳(けごん)などについても修学されている。
高野山に遊学中、天保14年(1843)9月2日、高野山の中門辺から出火し、大塔・灌頂堂・金堂・御影堂等の伽藍が焼失した時、信海は身を挺して消火につとめた功を賞されて、終身学俸を与えられたといわれています。
そして30歳の時、高野の修学院の住職に任ぜられたのです。
今日、当寺には信海の写得の聖教や、署名入りの聖教が蔵されてあり、修学の熱意がよく伺われるところであります。 遍照尊院の栄秀大阿闍梨から「灌頂(かんじょう)総密印子島流」を受け、同流の相承(そうじょう)を安政2年(1855)に、明くる3年には「蓮華胎蔵儀軌解釈上中下」を写得、「声明許可印信」を伝授するなど、孜々(しし)として法流の伝授、密教の研究につとめられました。
信海は40歳までの約20年間、修学の生涯をおくり、その学風は高く、2年後の42歳の時、国家安穏の祈禱等をなしたということで幕府の手にかかり、安政6年1月、江戸におくられ小塚原で亡くなったことは惜しみても余りありといえましょう。 求道一路に生きた月照は、愛憎忿怒の煩悩に即して慈悲、摂取の菩薩道がうごく図相の「理趣曼荼羅(りしゅまんだら)」を天保5年(1834)に写得して以来、戒律においては慈雲に深く傾倒し、阿字観を修しつつ、菩提の道を求めました。
一方信海は、高野山で修道の道に専念しつつ、唯識学と共に三論も華厳も極め、法流の伝承につとめる等、時として自説をくつがえすことのない学者的風格の人でありました。
このように、月照・信海両上人の勤王思想は単なる観念的なものでなく、塩食を絶ち五十日間の国家の安穏、外敵退散の祈念をするなど、深い仏教的素養と信仰からでる運動であったということ強調しておきます。
(『古寺巡礼 京都 24 清水寺』大庭みな子 大西良慶他 淡光社 昭和53年)
転記した本は、絶版になっているようですが
『新版 古寺巡礼 京都 第26巻 清水寺』(森清範 田辺聖子 淡交社 2008年)
あの人に会いたい「大西良慶(おおにしりょうけい)」(NHKアーカイブス 2004年)
「森清範貫主に聞く、良慶和上とのとっておきの思い出」(清水寺よだん堂 2015年2月13日)
〝「和尚」さん、読み方は「オショウ」?、「ワジョウ」?〟(NHK放送文化研究所)















