歩いているうちに曇ってきたので早目に帰りました。
というのも自転車でやってきていたので、雨は、避けたい(^_^;
猫又ならぬ二股になった猫じゃらし(エノコログサ)に出合いました(^_-)
〝歌川国芳「五十三駅 岡崎」〟(太田記念美術館より)前回の日記で紹介した
歴史探偵「藤原京と持統天皇 “世界遺産”をつくった謎の女帝」に
持統天皇が関わった主な事業(天武天皇から引き継いだものも含めて)
●藤原京造営
●全国の道路・水田整備
●約30年ぶりの遣唐使派遣
●国号「日本」を認めさせる
●飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)施行
●古事記・日本書紀 編さん
●万葉集の元となった歌集編さん
●伊勢神宮の式年遷宮スタート
●大宝律令完成
「持統天皇」(奈良偉人伝)番組の中で武田佐知子さんの御進講が紹介されていました。
「古代の衣服と社会・国家・国際関係」(大阪大学名誉教授 武田佐知子 宮内庁 令和7年)
以下に紹介する著書は品切れになっているので図書館から借りました。
3 男装した則天武后
日本では男女とも白
天平勝宝4年(752)に営まれた東大寺大仏の開眼法要の儀式は、まったく元旦の儀式と同じように執り行われ、五位以上の官人は礼服(らいふく)を着用した『続日本紀』は特記した。
その際、文部百官(もんぶひゃっかん)を率いて列席した女帝孝謙天皇は、天皇のみが着用することのできた冕冠(べんかん)をかぶり、父の聖武太上天皇と、母の光明皇太后は、玉冠(ぎょっかん)をかぶって、それぞれ法要にのぞんだことを前節で明らかにした。
そして衣服は、そろっていずれも白い絹の衣服であったことも米田雄介氏らの研究によって明らかになった(前節注1・2参照<省略>)。
(『衣服で読み直す日本史』武田佐知子 朝日選書 1998年)
白を貴い色とし、天皇の衣服を白とするのは、律令(りつりょう)法以前からの、日本の固有の色に対する価値観の反映である。
平安時代、9世紀初めの弘仁年間になって、袞冕(こんべん)十二章や黄櫨染衣(こうろぜんのころも)(詳しくは次節で説明)が、天皇の衣服としてあらたに規定された時、帛衣(はくい)、すなわち白い練絹(ねりぎぬ)でできた衣は、天皇の「大小神事及び季冬奉幣諸陵(きとうほうへいしょりょう)」の時に限定して着用される衣服となった。
この時、皇后の衣服も規定されており、これも「助祭の服」、つまり神事などの時に着用する衣服として、天皇と同じく帛衣が規定されているのだ。 中国の規定では、皇后の助祭の服としては、褘衣(きい)とよばれる衣服があり、助祭と朝会諸大事の際にも着用することになっていた。
ところがわが国ではあえてそこを変改し、この褘衣は、皇后の元正受朝(朝賀を受ける)の服として規定されるだけなのである。 またこのように天皇と皇后が、性差を超越して、同じ色の衣を着用するという在り方も、中国と異なった、日本固有の衣服慣行に由来する。
考えてみれば、日本の衣服令の特徴のひとつとして、色で身分的格差を視覚的に表現することがあげられるだろう。
こうした日本令の原則にもかかわらず、天皇と皇后の間に、色の差などが持ち込まれていなかった。
「我朝(わがちょう)以二白衣一為二貴色(きしょく)一、天皇服也」(「喪葬令」服錫紵条、令釈及び古記)とあるように、最も貴い色とされていた白い服を、皇后もまた、天皇とともにまとっていたとすれば、天皇と皇后を一種同等とみなす考えのあったことを示唆していよう。
かかる意識環境があってこそ、大仏開眼会の時に、孝謙天皇と聖武太上天皇と光明皇太后の三者が、一様に同じ白い礼服を着て法要に臨んだという事態も、不自然でないものとして理解できるのだ。 さらに付言すれば、この白い礼服は、外見上は、男女同形態の衣服であった。
つまり女帝も、太上天皇も、皇太后も、同じ衣服をまとった可能性がある。
正倉院の「礼服礼冠目録断簡」と称する文書についても前節でも検討を加え、和田軍一氏の復元を見た(110・111ページ参照<省略>)。
ここには聖武太上天皇と光明皇太后の、礼服一式の目録があがっている。
その礼服は、聖武太上天皇について、帛袷袍(はくのあわせのほう)一領、襖子(おうす)二領、汗衫(かんさん)一領、褶(ひらみ)一腰、袴一腰などが列記されている。
一方、光明皇太后には、帛綾袷袍一領、単衣(ひとえ)一領、絮綿褶一腰などが挙げられているのだ。 聖武について襖子が二領書き上げられているのは不自然で、これもあるいは一領は光明皇太后のものではないだろうか。
襖子は、のちの下襲(したがさね)に相当する内衣で、袍(ほう)の下、衫(さん)の上に着る衣だとする説がある(山本らく「日本上代被服構成技法の観察」『共立女子大学紀要』一)。
いまはこれに従っておく。
同じ帛の袍の下に、襖子と肌着の汗衫、あるいは単衣を重ねて着て、下半身には、聖武太上天皇はまず袴をはいた上に褶をまとう。
日本の衣服令における礼服の褶は裳(も)の一種、すなわちスカートである。
これは光明皇太后が帛綾袷袍に褶をつけた姿と、外見上かわるところがない。 つまり帛礼服を着た聖武太上天皇と、光明皇太后は、見たところでは、男女差が衣服形態の違いからはうかがえない、ほぼ同じ姿だったといえるだろう。
孝謙天皇の衣服については、この目録には記載がない。
しかしのちの時代、十世紀の史料『西宮記』巻十九に、女帝の衣服として「白御衣」があげられている事実を見れば、これがおそらく古代最後の女帝だった、孝謙天皇の礼服を踏襲しているものかと推察され、大仏開眼会の孝謙天皇もまた、聖武太上天皇、光明皇太后と同じく、白礼服に身を包んで盛儀に列席したのであったろう。
このように見てくると、女帝として即位した孝謙天皇は、白い礼服をまとい、頭上に冕冠をいただいて、少なくとも元日や大仏開眼会、それにおそらく即位礼などに臨んだと考えられるのだが、その姿は、父聖武が、天皇として君臨したころの姿と、外見上はほとんど差がなかったといえよう。
そして日本古代の女帝の衣服や冠は、男帝と区別がなかったらしいというのは、以下のような想定を可能にしてくれよう。天皇は性差を超えた存在であり、たとえ女性が位につこうとも、そこへ女性という性を持ち込むことはないと意識されたのだと考えられないだろうか。
それゆえ、女性の即位が許容されたのであり、即位した女帝は、性を超越した「天皇」という存在に変質するのだと。
中国の女帝 (省略)
カンザシをはずす (省略) 天皇たるもの
このような中国の状況と前節からみてきた古代日本を比較してみる。
元正朝賀の義と同様の盛儀として開かれた大仏開眼会において、女帝たる孝謙天皇が、ひとり天皇の標識たる冕冠をかぶり、衣服は聖武太上天皇や光明皇太后とも共通の、白い衣服を着たということは、古代のわが国では天皇の衣服やかぶりものは、性による制約を受けない、いわば性差を超越したものであったといえないだろうか。
それは女帝を多く輩出した古代日本であってみれば、きわめて当然の位置付けであった。 平安時代になって、女帝の衣服が男帝とは別に定められたが、その規定ができて以降の認識・価値観からみれば、冕冠をかぶった孝謙天皇の姿も、男装にほかならないだろう。
しかし「男装」というのは後世的表現であって、開眼会当時においては、天皇という存在はその位につく者の性別を問わないことを本質としたのだといえるかもしれない。
あるいは服飾に性別がなかったことからすれば、天皇は性を超越した存在だったといったほうが適切で、そこに古代日本の天皇制の特質を見て取ることもできるのである。
(『衣服で読み直す日本史』武田佐知子 朝日選書 1998年)
サントリー学芸賞(思想・歴史)1985年受賞
『古代国家の形成と衣服制 ―― 袴と貫頭衣』(武田佐知子 吉川弘文館)「米アンソロピックCEO“AI開発ペース減速させる必要”」(NHK)
「“AIが人々の命奪いかねない”アンソロピック研究者が退社表明」(NHK 9月10日)
私たちの周りは情報で溢れているのに
流れてくる情報は、偏っているようです。
AIが私たちが検索した内容から好みに合った情報を提供していると思います。
日本やアメリカなどでは、SNSから流れる情報が人々の投票行動に大きく影響しているようです。
嘘もくり返し流すと真実のように思われてしまう。
洗脳がSNSで行われていると思うのは、思い過ごしでしょうか。













