2025年8月31日日曜日

酷暑でしたが…

昨日、父が今日の散歩を休むと言ったので町歩きをすることにしました。
最近の酷暑(危険な暑さ)に何処にしようかと迷ったのですが
JRの踏切を渡って…

(更新しました)
このマンホールの蓋の図柄は宇治橋かな?
今日は宇治橋を渡らないのだけど…
  龍目井(りゅうもくせい) 

この井戸は寛文元年冬、隠元禪師が掘らしめられたもので、萬福寺を龍に譬へ、これを龍目となし、天下の龍衆、善知識が挙って此處に集まらんことを念願されたもの
禪師曰く「山に宗あり 水に源あり 龍に目あり 古に耀き 今に騰る」
駒蹄影園碑
 Koma-no-ashikage-en Monument

鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが
茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、
通りかかった栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵上人(みょうえしょうにん)が馬を畑に乗り入れ、
その蹄(ひづめ)の跡に種のを蒔くように教えたと伝えれています。
この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、
大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです。

 栂山(とがやま)の尾上(おのえ)の茶の木分け植えて
    (あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影
                   明恵
 総門 S ōmon 

◆重文 江戸時代(元禄6年)
萬福寺総門の前に立つと、いかにもこれから中国風の禅院に足を踏み入れる、の感がある。
中央を一段高くし、左右を一段低くした、いわゆる牌楼(ぱいろう)式の門で、漢門ともいわれる。
屋根の両端には摩伽羅(まから)と呼ばれる、インドにおける想像上の動物が置かれる。
わが国の鯱(しゃち)に似るが、鰭(ひれ)ではなく脚が付いており、ガンジス川に生息するというインドの女神の乗り物とされるワニに原型があるという。
水辺での最強の動物であることから、聖域結界の象徴として祀られる。
(『新版 古寺巡礼 京都 第19巻 萬福寺』梅原猛:監修、仙石泰山、夢枕獏:執筆 淡光社 平成20年)
 放生池 Hōjōike 
 江戸時代(寛文4年)

三門の前方には風水思想をもとにした半月形の放生池(ほうじょういけ)がある。
放生池は寺院にとって殺生禁断を象徴とする場所として造られることが多い。
隠元禅師は中国にあって以来、放生思想を強く持っていたことでも知られる。
(『新版 古寺巡礼 京都 第19巻 萬福寺』梅原猛:監修、仙石泰山、夢枕獏:執筆 淡光社 平成20年)
 「黄檗山萬福寺の三棟(法堂・大雄宝殿・天王殿)が『国宝』へ指定されました!」(黄檗宗大本山 萬福寺)

宇治の萬福寺が国宝に 輪島の總持寺祖院など6件が重要文化財に」(NHK 2024年10月18日)

国宝だった長崎の黄檗宗福済寺(ふくさいじ)は原爆で焼失しましたが

長崎 原爆で焼失した国宝の寺 被爆前に撮影の動画見つかる」(長崎NHK 8月5日)
 前に来た時は、なかったなぁ…
隠元禅師大茶会~茶和天下~」(小笠原流茶道 2024年11月4日)

 Ⅴ 禅の展開
 白隠・隠元
 菩薩禅を復興し、禅を日本化
 

 禅は鎌倉時代に中国から輸入され、室町時代に大きく発展したが、禅が本当に日本の庶民のものになったのは江戸時代ではないかと私は思う。
…中略…
 江戸時代の禅を論じるとき、沢庵の次ぎに白隠を論じなければならないが、この沢庵と白隠の間に無視することのできない一人の禅僧がいる。
それは隠元隆琦(いんげんりゅうき)である。
 隠元は明(みん)末に日本に渡来し、ついに黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の開山(かいさん)となったが、この隠元の招聘(しょうへい)と黄檗山萬福寺の開山にもっとも尽力したのが龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)などの妙心寺の僧であったことに私は注意したい。
妙心寺の開山、関山慧玄(かいざんえげん)は大徳寺の開山、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の弟子であるが、開山慧玄は宗峰妙超と違って頂相(ちんぞう)も公案(こうあん)も語録もほとんど残していない。
開山は禅の説く「無」の精神に徹底した生涯を送ったのであろうか。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 隠元は明の福州(ふくしゅう)府福清(ふくせい)県(福建省)の人であり、6歳のときに父は楚(そ)に出かけて帰らなかった。
彼は早くから出家の志をもっていたが、母を養うために出家もできず、ようやく29歳のときに黄檗山の鑑源興寿(かんげんこうじゅ)の弟子となった。
隠元は学問に熱心な上に修行にも励み、禅僧として頭角を現し、やがて1637年、明の崇禎(すうてい)10年、わが寛永(かんえい)14年に名刹(めいさつ)黄檗山萬福寺の住持(じゅうじ)となり、その令名(れいめい)は高かった。
(「開山大師帯来菩提樹」 ぼだいじゅ 宇治市名木百選)

 しかし時は明末にあたり、清(しん)兵の攻撃が絶えず、落ち着いて禅の修行に耽(ふけ)る暇(いとま)はなかった。
そして1654年、明の永暦(えいりゃく)8年、わが承応(じょうおう)3年来朝し、長崎の興福寺(こうふくじ)の住持となった。
時に隠元63歳であった。
当時、明から亡命する僧は多く、それらの僧は長崎の興福寺、崇福寺(そうふくじ)などに滞在していた。
妙心寺の僧龍渓や竺印(ちくいん)、禿翁(とくおう)などは隠元を妙心寺に迎えようとしたが、妙心寺には反対派もあり、実現が難しく、やむなく隠元は龍渓の寺である摂津富田(せっつとんだ)の普門寺(ふもんじ)に滞在した。
しかし再三にわたる幕府への陳情の結果、ついに京都・宇治に黄檗山萬福寺の開山が認められた。
これはもちろん龍渓たちの熱意にもよるが、一つには時代の要請にもよろう。
(重要文化財「鎮守社」)

 幕府は宋(そう)代の中国でできた朱子学(しゅしがく)を国教とした。
それによって徳川初期においては中国崇拝の思想的風潮が起こった。
中国の儒者、朱舜水(しゅしゅんすい)が幕府に熱狂的に迎えられたのもそのような風潮によろうが、儒学者の朱舜水に加えて仏僧の隠元を迎えることによって、幕府は教学奨励の精神を国の内外に示そうとしたのであろう。
そして三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)は禅僧沢庵(たくあん)のために東海寺(とうかいじ)という巨大な寺を品川(しながわ)に建てた。
家光の嫡男、四代将軍家綱(いえつな)は明の禅僧隠元のために寺を建てることを、家光の宗教政策をいっそう発展させることであると考えたのであろう。

 …後略…

(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
天王殿(てんのうでん)
顔をチョコンと出して出迎えてくれたのが
 第九章 人々の暮らしの中の存在
 1 出身国はバラバラでも一つの船に 七福神
 布袋


 七福神の中に一人だけ人間がいます。
それが布袋。
唐の時代の終わり、10世紀頃に実在した中国の禅僧で、契此(かいし)という名前だったそうです。
太鼓腹がトレードマークで、いかにも福々しいイメージですが、実際の布袋は、ちょっと変わり者だったようです。
いつも人々に食べ物やお金など、物乞いをし、それを一つの大きな袋に入れて持ち歩いていたとか。
吉凶を占うこともあり、亡くなった後、その姿を絵に描かれることが増え、福の神として祀られるようになりました。
大きなお腹をした笑顔の布袋さんは、子供たちに囲まれている図柄も多くみられます。
人を引きつける魅力にあふれた福の神ということができるでしょう。
(『神話でたどる日本の神々』平藤喜久子 ちくまプリマー新書 2021年)
 2019年12月2日、2011年3月19日と訪ねた時も出張中でした。
やっと会えました(^_^)v

 韋駄天(いだてん)
足の非常に速い神。
邪神を払いのける大きな力を持っているといわれるので、僧や寺を守る神として祀られている。
(「黄檗山萬福寺全景之図」黄檗宗大本山萬福寺発行)

お会いできなかった韋駄天像もあるそうです。

 韋駄天立像 Idaten 范道生作
 江戸時代(寛文2年) 木造
 像高126.0cm 文華殿安置

甲冑を身にまとい、三叉戟(さんさげき)を戴く兜を着し、合掌した両腕の上に宝剣を横たえる。
本体の甲冑の文様は盛上彩色によって丁寧にあらわされる。
禅宗寺院では護法神として、また伽藍の守護神として庫裡(くり)などに安置される場合が多い。
本像は寛文2年(1662)に観音・祖師像などと共に范道生によって造像されたもので、初め法堂に安置されたが、同8年に建立された天王殿に移された後、舎利殿・松隠堂に移り、現在は文華殿に安置されている。
(『新版 古寺巡礼 京都 第19巻 萬福寺』梅原猛:監修、仙石泰山、夢枕獏:執筆 淡光社 平成20年)
酷暑のさなか萬福寺を選んだのは、屋根つきの回廊で結ばれています。
所によって風鈴が涼しげな音色で迎えてくれます。
京都を歩くと観光客が多いのですが(という私もですが…)
ほとんど姿を見ませんでした。
暑い時や雨の時の穴場だと思いますよ(^_-)
余裕があれば三室戸寺や平等院へ
 大雄寶殿(だいおうほうでん)

釈迦如来坐像(中尊)摩訶迦葉(まかかしょう)尊者(右)と阿難陀(あなんだ)尊者(左)
羅睺羅尊者(らごらそんじゃ)

十八羅漢
大雄宝殿内の左右両壇に九体づつ安置されている十八体の羅漢像のこと。
羅漢とは修行者。
この中の「羅睺羅尊者」は釈尊の実子であり、後に出家する。
胸の中から仏の顔がのぞいている。
これは唯心の浄土己身の弥陀を表わしている。
(「黄檗山萬福寺全景之図」黄檗宗大本山萬福寺発行)
獅子なのかな?
十八羅漢と違ってケースの中に入っています。
夜な夜な遊び回っているのでガラスケースの中に閉じ込めているのか(^_-)
お寺に行くとついつい撫でてしまう賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
 怨親(おんしん)平等塔由来

昭和12年日中両国干戈を交うるに至り、
痛恨にも両国の戦病死夥し
当寺はその創立中国と最も深き因縁にあり
当時の住職山田玉田和尚いたくこれを愁い、
戦禍に斃れた両国の将兵及び諸民の精霊を慰さめんと
妙法蓮華経6万9千643文字を一字一石に謹書して宝筺印塔に納め
その冥福を祈ることを発願された
偶々信者四日市九鬼悠儼氏及びその一族深く感激して
この塔を建立し怨親平等塔と銘し
両国が一日も早く友好の昔にかえり 
親和親善の浄界実現を心から祈願された
(原文通りではありません)
 卍くずし 

天王殿、法堂、開山堂の前面には勾欄(こうらん)がある。
特に法堂のものは卍くずし、開山堂のものは卍の図案化されたものが工夫されている。
これも中国風の特徴である。
勾欄とは、欄干、手すりのことである。
(「黄檗山萬福寺全景之図」黄檗宗大本山萬福寺発行)
 蛇腹天井

黄檗天井ともいう。
法堂、大雄宝殿、開山堂の吹放ちになったろこの天井が、竜の腹、蛇腹のように曲がった天井になっている。
(「黄檗山萬福寺全景之図」黄檗宗大本山萬福寺発行)
  魚梆 
斎堂前の魚板。
大きな魚の形をし、口に球をくわえている。
木魚ではあるが時を報ずるもの。
魚は不眠不休でいるところから怠惰を戒めるためにこれを叩く。
三代目。
(「黄檗山萬福寺全景之図」黄檗宗大本山萬福寺発行)

開梆(かいぱん)
 雲版 Unpan 
 江戸時代(寛文元年) 青銅製 縦97.0cm 横105.0cm 厚4.0cm

雲版(うんぱん)は禅宗寺院において、食事や朝課の時刻を知らせるために打ち鳴らす鳴器の一種である。
萬福寺の雲版は、開梆(かいぱん)と並んで斎堂前に掲げられる。
両面に天衣の裾を長く延ばした二人の飛天が刻まれる。
また八葉単弁の撞座(つきざ)は、雲版全体から見るとかなり下方に位置する。
表面に「黄檗山萬福禅寺住持隠元琦置」、裏面に「寛文元年歳在辛丑南呂月吉日」とあり、寛文元年(1661)8月吉日に開山隠元禅師が萬福寺を開いて間もなく設置したことがわかる。
(『新版 古寺巡礼 京都 第19巻 萬福寺』梅原猛:監修、仙石泰山、夢枕獏:執筆 淡光社 平成20年)
萬福寺を訪ねた理由の一つに「賣茶(まいさ)堂」を覗きたいなぁと…
扉がコウモリの形になっています。
中を覗くと売茶翁の像があるのですが、暗くて、持参したカメラは50mmの標準レンズ。
試しに撮しましたが…(T_T)
山門を
   出れば日本ぞ
         茶摘うた

            七十三齢 菊舎

 一字庵田上菊舎は、宝暦3年(1753)10月14日、現山口県下関市豊北町田耕に生まれた。
16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。
子供がいなかったため、実家に復籍。
俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。
 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790)3月、38歳のときで、

  見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、
誠に唐土の心地し侍れば

  山門を出れば日本ぞ茶摘うた

と詠んでいる。
黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑から茶摘うたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。
 菊舎は、文政9年(1826)8月23日、同市長府にて死去。
享年74歳。

 句碑の銅板は第二次大戦中に金属供出により失われていたため
 平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。
酷暑の中、これ以上歩くのは危険だと思い帰ることにしました。
お昼近くになったので何処で食べようかと考えていたら
今度は、カレーが食べたいと思ったお店が中書島にあったことを思い出しました・
読んでいた本は、ラーメンの本ですが(^_-)
特製カレー」を戴きました(^_^)v
カレーうどん、カレーそばときてカレーライス(^_-)
お店によっていつまでも辛さが口に残るのですが
私にとってちょうどいい辛さで、食べたあとサッパリしていておいしかったです!
店名が「CaFe ゆきかぐれ」ってどういう意味なんだろうと思っていたら
壁に掛っていました。
前回、気付かなかったのは、若い女性が座っていたので気がつかなかったようです(^^ゞ
お店の方にお聞きすると友だちの友だちに書家の方がいて書いてもらったそうです。

帰宅後、2時間ほど昼寝……
(この酷暑の間、昼寝をするので更新が遅くなるかも…)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~
    今日も☀暑かったです😊

    京の街歩きは、黄檗山万福寺でしたか!
    若い頃とは言っても50年ほど前に
    普茶料理とセットで見学したことがありましたが。。
    もうほとんど忘れています。トホホです。
    布袋様だけ見覚えがありました~。。(#^.^#)

    屋根付きの回廊もあるのですね。
    酷暑の日も風鈴の音色が涼を呼んでくれ、
    元気がでますね。(#^.^#)

    カレーメニュー完食されたのですね。
    暑い時のカレー。。
    汗が出ますが、美味しいです。😊💕

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    1. カイさんいつもコメントありがとうございます(^^)/
      連日、危険な暑さが続きますね(;´Д`)
      この暑さの中、見学できるところと考えて萬福寺を訪ねました。

      >普茶料理とセットで見学したことがありましたが。。
      前日に決めたので一人でも予約できる普茶弁当も断念しました。

      >カレーメニュー完食されたのですね。
      カレーは奥深いですね(^_-)
      うどん、そば、ライスと続きいつかラーメンも食べたいなと思っています(^_-)

      まだまだ暑い日が続きそうです
      カイさんも無理をせず、この夏を乗り切りましょうねρ(^^)q

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