でも、公園を歩いていると土がカラカラに乾いていました。
今朝もヒマワリがクタッとなっていました。
「近畿 5日も午前中から危険な暑さ 熱中症と天気急変にも注意」(関西NHK)
このままだと大阪も8月中に40度を超えるかも知れない
「群馬 伊勢崎で41.8度 観測史上最高気温を更新 暑さの背景は」(NHK)「広島で被爆した作家・原民喜 作家の佐藤春夫に宛てた遺書発見」(広島NHK)
夏の花
太平洋戦争敗戦後に生れた重い季語の一つに「原爆忌」がある。
アメリカ軍は戦争末期の昭和二十(1945)年八月六日広島市に、九日長崎市に新開発の原子爆弾を投下。
この人類への核兵器の「試験的」使用により、大半が非戦闘員である膨大な数の住人が被爆、その多くが地獄的状況の下で死亡した。
それぞれ広島忌、長崎忌といい、併せて原爆忌という。
(『歳時記百話 季を生きる』高橋睦郎 中公新書 2013年) 被爆体験はさまざまな原爆文学を生んだ。
その一つが広島市出身で、十年余り生活を共にした妻の死後、千葉市から郷里に戻り被爆した原民喜(はらたみき)(明治38~昭和26〔1905~51〕)の小説『夏の花』。
題名はたぶん書き出しの「私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。(中略)その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐(かれん)な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた」に拠(よ)るのだろう。
しかし、この題名のイメージはさらに大きく拡がる。
「私」がポケットに線香の束、手に花を持って妻の墓に詣(まい)った記述の後に、「……原子爆弾に襲はれたのは、その翌々日のことであつた」と付け加える。 ここまで読み、さらに一篇を読み通した読者には、「私」を含む広島の住民を襲った原子爆弾そのものが、「私」が妻の墓に献(ささ)げた可憐な供花の対極にある兇々(まがまが)しい夏の花と見え、然(しか)るのちにこの作品全体が原爆の死者たち全体への言葉の供花と見えてくる。
この作品にはつづけて続篇『廃墟(はいきょ)から』、間を置いて前篇『壊滅の序曲』が書き加えられた。
民喜には三部作の後に発表した妻の死についての『美しき死の岸に』があり、妻の死に対してと同じ愛の思いを沈めた静かな視線で原爆を見つめたことがわかる。 三部作第二部『廃墟から』のからにはその状況から立ちあがる意志がこめられていたのだろうが、結果的に民喜は愛妻喪失と被爆体験の衝撃(しょうげき)から立ちなおれず、昭和二十六年三月十三日午後十一時三十一分、吉祥寺(きちじょうじ)・西荻窪(にしおぎくぼ)間の鉄路に身を横たえて自殺を遂げる。
その死の日は自殺の少し前に発表した「碑銘」と題するわずか四行の詩
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜(お)つ 天地のまなか
一輪の花の幻
に基づき、花幻忌と名づけられた。
花の幻が八月六日の原子爆弾、その結果喪(うしな)われた膨大な生命に通うことは言うまでもない。
(『歳時記百話 季を生きる』高橋睦郎 中公新書 2013年)
「お宝紹介① 佐藤春夫に宛てた原民喜の遺書」(実践女子大学 2025年7月)前回、澤田美喜とジョセフィン・ベーカーの交流を紹介しました。
二人は戦前にも交流していて
第5章 五番街の聖トーマス教会
…前略…
*
夫廉三の転任にともない、パリからニューヨークのマンハッタンに着いたのは昭和9年(1934年)2月の大雪の日だった。
ニューヨーク総領事になった夫の仕事は、美喜にいわせると「村の庄屋さん」役で、冠婚葬祭すべてに顔を出さなければならない。
そのうえ、ニューヨークという都市は「峠の茶屋」のごとく、米国から欧州へ、欧州から米国へ来る日本人のお偉方の通過地点となっている。
そのために夫の多忙さは尋常ではなかった。
(『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年) 美喜は45丁目にアトリエを借りて、絵画の勉強をつづける一方、サマーシアター(夏季限定の劇団)を組織し、十人くらいの素人と一緒にニューイングランド地方をまわって興行したこともあった。
あの広い茅町の家で、長屋に住んでいた馭者の息子のためちゃんや馬丁の子の清君などを集めて劇団をつくっていらい、美喜の演劇好きは変わらず、ニューヨークでも大いに情熱を傾けた。
五番街の聖トーマス教会で婦人援助会のなかの日本部の委員長に選ばれ、講演を頼まれるようになったのも、この頃のことである。 ニューヨーク市立図書館では、聖トーマス教会の1934年と35年版イヤーブックをマイクロフィルムで保存していた。
これを見ると毎月第2火曜日の午前11時から婦人援助会の定例会合が開かれる、とある。
婦人援助会委員長の名前などにつづいて、日本部には「ミセス・レンゾー・サワダ」の名前が記されてあった。
この婦人援助会は日本の学校や教会、とくに聖路加国際病院を援助したことが明記されている。
『清里の父-ポール・ラッシュ伝』によると、1935年、ラッシュが運営に関わった聖路加国際病院在米後援会の女性議員に美喜がなったことが、二人が知り合うきっかけになったという。 そんな多忙な日々を送っていたとき、ジョセフィン・ベーカーがニューヨークへ来ることになった。
ブロードウエイの有名なレビュー「ジーグフェルド・フォリーズ」と契約したのだ。
それも、フランスが世界に誇る豪華客船イル・ド・フランスでニューヨーク入りするというのである。
フランス各界の名士など多数の招待客が乗船するこの船で米国へ帰還するというのは、ジョセフィンにとって故郷に錦を飾ることにちがいない。 そう考えていた美喜の思惑とは裏腹に、彼女を迎えるために波止場へ向かうロールス・ロイスのなかで、アメリカ人運転手がとんでもないことを口にした。
「奥さま、黒人のベーカーをこの車に乗せなくてはいけないのですか……」
腹立たしいことばに返事もせず、ようやく下船してきたジョセフィンを迎えたのは、美喜と劇場の支配人秘書のふたりだけ。
その秘書の男もひと言ふた言、挨拶らしきことを口にすると、逃げるように立ち去ってしまった。
あれほど楽しみにしていたジョセフィンとの再会も束の間、渋い顔の運転手を尻目に車でホテルに向かう。
ホテルでは、
「ただいま、ホテルは満室です」
との応対。
次のホテルにまわってみると、そこも同様に満室というではないか。 ニューヨーク市内十一ヵ所のホテルをまわってみたが、どこでも宿泊は断られた。
黒人差別という現実を、改めて美喜は思い知らされた。
フランスはじめヨーロッパであれだけの成功をおさめた歌姫であっても、扱いが変わることはないのだった。
考えあぐねた美喜は、自らのアトリエへジョセフィンを連れて行った。
そこの管理人ですら、表のエレベーターの使用を禁じて、裏階段を使うことを条件にやっと受け入れたのである。
ジョセフィンはその夜、ひと晩泣き明かした。
ヨーロッパで成功して帰ってきた自分を、なぜアメリカは温かく迎え入れてくれないのか、と涙したのである。 いよいよはじまった舞台稽古でも、ときに髪の毛が逆立つほど悔しい思いを味わわされた。
それでもジョセフィンは非常な忍耐で怒りをこらえつづけた。
踊り子たちのなかには、ジョセフィンと踊るときに顔にマスクをかぶって踊りたいと言い出す者もあらわれた。
黒人と一緒にステージに出たと知れたら、ボーイフレンドに嫌われると平気でいう若いダンサーもいた。
ジョセフィンはそんな言葉にも耐えていた。
しかし、フィナーレは白人だけの方がいい、ジョセフィンは一幕前にホテルに帰ってくれ、という言葉に、ついにこう叫んだのである。「あなたたちのその白い皮膚の下には黒い心がある。そして、私の黒い皮膚の下には真っ白い心がある」
このときばかりは誰も口を開かなかった。
ジョセフィンはダンサーの間を抜けてすっと引き上げた。
その引きぎわの見事だったことに、美喜は感心した。
それからもジョセフィンは血のにじむような努力を重ね、芸の上で白人を見返してやるという意地を見せていたが、美喜が日本へ帰った後、腹に据えかねることが重なったらしく、失意のうちにフランスへ帰り、フランスの市民権を得るのである。 美喜はジョセフィンを通じて、米国内の黒人差別の実態をまざまざと思い知らされた。
公の場所ではバスでもレストランでも、あらゆるものが白人用と黒人用とに分けられていた。
それらの撤廃は、1964年の公民権法制定まで待たねばならなかったのである。
…後略…
(『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年)
映像の世紀バタフライエフェクト「パリは燃えているか」(2023年11月27日)
番組の中でジョセフィン・ベーカーについて紹介していました。
映像の世紀バタフライエフェクト(2023年11月28日)の投稿
1920年代「狂騒の時代」を迎えたパリ。戦後の復興を支える労働者やロシアや東欧で迫害されていたユダヤ人など多くの外国人を受け入れました。
黒人差別の激しいアメリカからやってきたダンサー、ジョセフィン・ベーカーもその一人です。
柿の実がでこぼこになっている。
カキ
黒柿
カキの古木を製材すると黒い模様が現われることがあり、これを「黒柿」と呼びます。
『村上天皇御記』には硯筥(すずりばこ)を黒柿の机の上に置くと記され、また『宇津保物語(うつほものがたり)』(吹上上)でも豪華な建物の表現に「紫檀・蘇芳・黒柿・唐桃などという木を材木として」とあるなど、黒柿は豪華な材木として珍重されました。
双六盤は黒柿で作ることが定式(じょうしき)です。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)
カキ
黒柿
カキの古木を製材すると黒い模様が現われることがあり、これを「黒柿」と呼びます。
『村上天皇御記』には硯筥(すずりばこ)を黒柿の机の上に置くと記され、また『宇津保物語(うつほものがたり)』(吹上上)でも豪華な建物の表現に「紫檀・蘇芳・黒柿・唐桃などという木を材木として」とあるなど、黒柿は豪華な材木として珍重されました。
双六盤は黒柿で作ることが定式(じょうしき)です。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)