2025年8月18日月曜日

しばらく……

朝からグタッとなるような猛烈な暑さ。
天気予報を見ているとしばらくは、猛烈な暑さは続きそうですね(;´Д`)
急な雷雨があるようですが、降らないですね…。

近畿 19日も猛暑日の予想 熱中症対策を続けて」(関西NHK)

追記:私、父、妹の通院がつづきますのでしばらく更新はお休みします。
石峰寺の五百羅漢は「撮影禁止」なのですが
2010年3月に訪ねた時は、撮影禁止ではなかったと思います。
それが2011年1月に訪ねた時に受付で撮影禁止と告げられました。
マナーの悪い方がいたのかな?
歴史探偵「天才絵師 若冲と応挙」で番組の最後の方に
澤田瞳子さんが石峰寺の五百羅漢を案内していました。
番組をご覧になった方はわかると思いますが、順路が狭く、急なところです。
そんな場所で撮影をされると通行が困難になると思います。
先日、石峰寺で購入した写真集の帯に

若冲が演出した石峰寺の五百羅漢。
その奇抜なデザインは
独特のユーモアにあふれている。
お伽噺の世界――
ワンダーランドに住む若冲がここにある。
     美術史家 辻惟雄
 あとがき 
       水野克比古

 …前略…

 私が少年期から心引かれた石峰寺の羅漢さんを、カメラを持って始めて訪れたのは1969年の秋だった。
それ以後、ある時は雑誌取材の仕事で、またある時は単行本の取材で、そして先代御住職の依頼で絵葉書制作のために集中的に石像にカメラを向けた。
その後途切れもしたが石峰寺様とのおつきあいは続き、四十数年の時が経った。
私にとって長く、また短い時間であったが、映像として2000枚ほどの写真が残った。
 この写真集の上梓にあたって、新しく撮影した写真と合わせて選び抜く作業は、本当に感慨深く貴重な時間だった。
この素晴らしい機会を与えて下さった皆様に、心から感謝を申し上げます。
(『若冲 五百羅漢 石峰寺』水野克比古 芸艸堂 2013年)
 石峰寺と若冲
           岡田秀之

 江戸時代中期を生きた伊藤若冲(1716~1800)が晩年を過ごした百丈山石峰寺は、京都伏見稲荷大社の南にある小高い山の中腹に位置する。
急な階段をあがると、土壁が赤く塗られた中国風の山門があり、その奥に本堂、左手に庫裡がみえる。
参道の左右には様々な草木が植えられていて、四季折々の風情を楽しむことができる。
(『若冲 五百羅漢 石峰寺』水野克比古 芸艸堂 2013年)
 伊藤若冲は、正徳6年(1716)2月8日、京都錦小路(にしきこうじ)市場の青物問屋(あおものとんや)・枡源(ますげん)の長男として生まれた。
23歳のとき、歿した父親のあとを嗣いで、枡屋源左衛門(げんざえもん)を名乗ったが、40歳のとき、弟の宗巌(そうがん<1719~1792>)に家督を譲って隠居し、絵の世界に没頭していく。
 宝暦7年(1757)、若冲42歳頃から約10年の歳月を費やして完成した動植綵絵(どうしょくさいえ)三十幅、「釈迦・文殊・普賢像」(三幅)をはじめとする彩色画や墨の滲みを利用した筋目描(すじめが)き技法による水墨画、また若冲が下絵を描いた版画など、晩年まで精力的に制作を続ける。
 若冲が石峰寺門前に住み始めたのは、60歳頃と考えられている。
広島安芸(あき)藩の浅野家に仕えた平賀白山(ひらがはくさん<1745~1805>)が書いた『蕉斎筆記(しょうさいひっき)』(東京大学附属総合図書館蔵)という史料には、寛政5年(1793)に大坂の絵師・松本奉時(まつもとほうじ)が、翌年白山自身が石峰寺を訪問したときの様子が次のように書かれている。
 若冲は石峰寺門前に住んでおり、絵一枚の値段を米一斗(いっと)と決めて、絵が一枚売れるとその売れたお金で、若冲が書いた下絵をもとに石製の羅漢一体を造っていた。裏山には五百羅漢や釈迦入滅の場面などが石像によって再現され、それらの周りを巡るように道がつけられていた。この裏山への入口横に若冲の指示で新しく造られた面白い建物があった。また、若冲には真寂(しんじゃく<もしくは心寂>)という名の妹がおり、他人からみると若冲の妻のようにみえたという。(要約)
 若冲の下絵をもとに造られた石像は、本堂右の小道をさらに奥に進んだ裏山に現存している。
剽軽(ひょうきん)な表情をした羅漢をはじめ、釈迦、文殊、普賢、地蔵や牛などの動物までさまざまな像が並んでおり、訪れる人々を飽きさせない。
当時の石峰寺の様子を伝える「石峰寺図」(66・67頁:省略)などをみると、山を一周すれば、お釈迦さまの生涯や仏たちの世界を疑似体験できる、いわば体験型テーマパークだった。
近年、石像一点ずつの撮影や石像の正確な位置を把握するための測量など調査が進められている。
 また、「新しく建てられた建物」とは、白山が訪れた寛政6年(1794)、大坂の豪商・葛野氏が寄進した観音堂と思われ、若冲が描いた花卉図が天井を飾っていた。
この観音堂は明治初めの廃仏毀釈によって破壊され、天井画は売りに出されてしまった。
幸い京都・信行寺(しんぎょうじ)の檀徒によって買い取られ、現在168面の花卉図と「米斗翁八十八歳」という署名がある一面が、同寺外陣の天井画として再利用されている。(非公開)
 このほか、近年の過去帳の調査によって、『蕉斎筆記(しょうさいひっき)』に登場する若冲の妹「真寂(しんじゃく)」(心寂)は、若冲の実の妹ではなく、明和2年(1765)9月に歿した弟宗寂(そうじゃく<生年不明~1765>)の嫁・深窓真寂禅尼(しんそうしんじゃくぜんに<1733~1798>)であることが判明した。
つまり、義理の妹と約30年間同居し、夫婦のように仲睦まじく生活していたのである。
 寛政12年(1800)9月10日、若冲は85年の人生を終える。
彼の墓碑(26頁)は、本堂横からすこしあがった高台にあり、京都市内を見おろすように西を向いて建てられている。
右側には若冲の弟・宗巌(白歳<はくさい>)の孫にあたる清房(せいぼう<1794~1854>)が発願し、貫名海屋(ぬきなかいおく)が編んだ文が彫られた筆塚が立つ。
この銘文には、天保元年(1830)に起こった地震で大きな被害を受けた石像群を清房が修理復元し、その3年後に筆塚を建立したと書かれている。
 若冲が歿してすでに200年以上が経過したが、若冲人気は衰えるどころか、ますます高まり、若冲作品が出品される展覧会には、多くの若冲ファンが詰めかけるという。
確かに、美術館や個人が所蔵する若冲作品が公開される展覧会等も貴重だが、それに加えて私は石峰寺への参拝をお勧めしたい。
 毎年9月10日に営まれる若冲忌の法要は、阪田御住職の唐韻(とういん)の読経や大きな銅鑼の音など、他の宗派の法要とはちがう迫力が感じられる。
そして、若冲がプロデュースした石像たちは、若冲の不思議な世界、「若冲ワンダーランド」へと導いてくれるだろう。
   ( MIHO MUSEUM学芸員)
(『若冲 五百羅漢 石峰寺』水野克比古 芸艸堂 2013年)


石峰寺図」(京都国立博物館)
今朝の父の一枚です(^^)/

 第6章 ムクドリとホシムクドリ
 ムクドリだって言葉が話せる


 ムクドリとホシムクドリは、ムクドリ科の鳥である。
古くから、人の言葉をおぼえて話すことが知られていたキュウカンチョウ(九官鳥)や、ハッカチョウ(八哥鳥)も同科だ。
 オウムやインコ舌は弾力のある筋肉のかたまりで、人間の舌に似ているため、言葉をつくりやすいとよくいわれる。
だがそれは、事実であり、事実ではない。
 鳥類は、左右の肺に向かって気管支が分かれる部分にある「鳴管」という器官を使って声やさえずりをつくっている。
喉に声帯をもつ人間とはちがうやりかただが、声帯と鳴管には機能的な近さもある。
 インコやオウムはさえずりをもたないが、鳴管と気道と舌のかたちを上手く組み合わせることで、人間の言葉に近い「音」をつくっている。
それはひとつのやり方ではある。
だが、「発声」の方法としては、鳥類の中でも異例といえる。
 さえずる鳥「鳴禽」は、鳴管だけでさまざまな音をつくり出すことができる。
音程の変化も自在だ。
キュウカンチョウやカラスも、舌はふつうの鳥類とあまり変わらず、オウムやインコの舌には似ていない。
それでも鳴管の微細なコントロールによって人間の声に似せた音を出し、「言葉」に聞こえる音の連なりを生み出すことができる。
ムクドリ科の鳥は、とくにそれが上手い。
 …つづく…
(『鳥を読む 文化鳥類学のススメ』細川博昭 春秋社 2023年)