少々の雨では、すぐに乾き、湿度が上がり蒸し暑くなるだけですね…
「あすは40度予想も “ことしは統計史上最も暑い夏に” 気象庁」(NHK)
公園では、クズが、地面だけでなく木を覆い隠すほど繁茂しています。
先日、放送された
サイエンスZERO「迷惑植物?“クズ”驚異の生命力に迫る」
かつてくず餅や葛布などに利用されてきたクズが厄介者扱いにされています。
宇都宮大学雑草管理教育センター小林浩幸教授
キツネの話ではないですけれどももともとは自分の都合で飼い慣らして利用してきたものですよね。
きちんと管理し、新たに活用する責任というのはあると思います。
(『星の王子さま』よりキツネの言葉に
「あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれなくなるよ。」
「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。」)昨日の朝ドラ「あんぱん」第22週「愛するカタチ」 (109)
なかなか素直になれない佳保の態度について、SNS上で評判悪かったですね(^_-)
似顔絵をもらった瞬間の笑顔から、態度を一変させる演技は見事でした。
元小学校教師だったのぶがお手上げになり、蘭子に相手になってほしいと頼みます。
大好きな父親を亡くした直後なので、素直になれないどころか
ピリピリした攻撃的な態度になるのは無理のないことだと思います。
また、戦前・戦中の子どもたちとは違ってしまったことを暗に示していたように思います。
そして蘭子のモデルは向田邦子さんではないかという指摘があります。
佳保のモデルは中園ミホさんかな?
向田邦子さんと中園ミホさんの対談を実現させたかったのかな(^_-)「岩波俳句」で池田澄子さんが紹介していた石垣りんさんと宗左近さん
詩集<表札など>
崖
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
(『現代詩文庫46 石垣りん』思潮社 1971年)
それがね
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年たつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
(『現代詩文庫46 石垣りん』思潮社 1971年) 宗左近さんの「炎える母」は、長い詩なので…
自伝 わだつみの一滴
…前略…
(昭和20年)
五月二十三日夜、アメリカ空軍の空襲で原宿の家が一冊の書物みたいに、あっけなく焼けあがった。五月二十五日夜、寄寓先きの四谷左門町のお寺の離れが、同じくアメリカ空軍の空襲で焼けた。逃げ出したとき、私と母は炎の海のただなかに取り残された。
手と手をにぎりあって、炎の海のなかを走った。どこまでも走った。掌がずり落ちた。わたしだけが、なおも走った。わたしは母を置き去りにした。わたしは、わたしを生んで育ててくれた母を殺した……
(『現代詩文庫70 宗左近詩集』思潮社 1977年)
身体中白い繃帯にまかれたわたしは、翌朝、四谷左門町の焼け跡の石の上に坐っていた。わたしは、母を殺した。自分を殺すことのできないニヒリストのわたしは、兵隊となって敵の手によって自分を殺すこともできず、また敵を殺すこともせず、母を殺した。受動と能動の中間のニヒリストのわたしは、自分と他人との中間者である生みの、育ての母を殺した…… ふと、焼けただれた瞼をあけると、東大国語研究室副手大野晋の心配そうに覗きこんでいる黒い目が顔前にあった。かれはまだ、わたしが母を殺したことを知らないでいるはずだった。その国語研究室の副手は、ため息を一つついてから、敵性言語である英語を使って、言った。「ヴェーリー、アグリー(ひどく、醜いね)」。
…後略…
(『炎の花』所収・1972年7月ニトリア書房)
(『現代詩文庫70 宗左近詩集』思潮社 1977年) 「物理学者」という肩書きで投稿されている方が
加藤登紀子さんのことを「チャイナ生まれだったんですね」と…
この方の父親は、どなたかが「物理学者」ご自身の投稿を貼り付けておられた。
「私の父は満州から奇跡の生還。陸軍にいて乗馬の名手だったようですが、戦時の話はほとんどなしでした。」
ということは、馬に乗れるほどの上級の将校だったのでしょうか?
戦時の話はほとんどしなかったのには理由があるのでしょうね。
昭和20年8月15日から内地では、空襲がなくなりました。
しかし、満州などの外地の日本人はそこから地獄の日々が続きます。
無敵だと信じていた大日本帝国に見捨てられ置き去りにされたのです。 まんしゅう母子地蔵を前に
東京・浅草、浅草寺境内に「まんしゅう母子像」(正式名・母子地蔵座像)があるのをご存知だろうか。
浅草は大勢の観光客でにぎわうが、像の由来を知る人は少ないかもしれない。
旧満州(中国東北部)からの引き揚げ者らが1997年に建てた石像だ。
(『ちばてつや自伝 屋根うらの絵本かき』新日本出版社 2016年)「満州」で終戦を迎えた多くの日本人は住む家を追われたが、戦後の混乱ですぐに帰国できなかった。
終戦の年のひと冬で大勢が飢えと寒さで死に、最終的に18万人以上の日本人が帰国できずに亡くなったといわれている。
子どもやお年寄り、弱い人から順番に死んでいった。
死なせてしまうよりはましだからと、身を切られる思いで子どもを、娘を中国人に託した人もいた。
それが「残留孤児」や「残留婦人」だ。 建立(こんりゅう)のきっかけは、元満州開拓少年義勇軍の一員で、中国残留孤児を支援した千野誠治(ちのせいじ)さん(故人)との出会いだ。
赤塚不二夫さん(同)、森田拳次(もりたけんじ)さんら引き揚げ者の漫画家が開いた平和漫画展を訪ねてきた。
あの冬、「満州」で亡くなった人にはお墓がない。
土が凍って穴が掘れず、埋められない遺体もあった。
「お墓に手を合わせることさえできない人のために祈念碑を造りたい」とのことだった。
それで僕ら漫画家も協力し、サイン会を開いたりして資金を集めた。
幼子をおんぶし、もう1人の手を引く母をかたどり、引き揚げをイメージした母子像が完成した。
以来、毎年4月に漫画家たちが集まり、法要を営む。 母子像を訪ねると、寒い季節には襟巻(えりま)きやコートを着せられ、子どもが好きそうなお菓子が供えられている。
時々、口に何か、食べ物を押し付けたような跡がある。
きっと「満州」で大切な子を亡くした人がお参りされたのだと思う。
その方の心情を思うと、胸が締め付けられる。
こうした方々の悲惨な経験を経てもたらされた平和の大切さをいま一度、かみしめておきたい。
そして、母子像を前に、僕らを救ってくれた徐集川(じょしゅうせん)さんのいた中国と日本の明るい未来を信じたいと思う。
(『ちばてつや自伝 屋根うらの絵本かき』新日本出版社 2016年)
「母子地蔵を撫でる」(「ぐずてつ日記」2016年4月10日)
母子地蔵の原像(デッサン)を描いたのはちばてつやさんです。第4章 12人の引揚げ漫画家たち 石子順
林静一
母に抱かれて
林静一(はやしせいいち)は、引揚げ漫画家のなかで一番若い。
1945年3月に営口で生まれた。
46年に母と二人だけで帰国した。
保険業をしていて現地召集された父はもどってきたがそこで亡くなった。
姉もかの地で逝ってしまった。
〝満州〟の記憶はまったくない。
しかし、私が引揚げ漫画の作品を描いてほしいと要請したところ、引き受けてくれた。
送られてきたこの作品を見た瞬間、これが描きたくて参加してくれたのだと思った。
(『ぼくらが出合った戦争 漫画家の中国引揚げ行』石子順、ちばてつや、森田拳次 新日本出版社 2012年) 母と子の像である。
子と向きあい抱きしめた若い母が、この子とともに日本に帰って、この子とともに生きぬこうと心に決めた図である。
この母の手ひとつで育てられて自分がいる――といった母への林静一の感謝の思いがあふれている。 これは引揚げ母子像だ。
美しくもきびしい。
愛するものを失ったつらさがある。
母と子の帰国する喜びがある。
母と子との目と目とが見つめあうそこに永遠の愛がある。
かの地で亡くなった父と姉への思いだけでなく、日本に帰ることができなかった数多くの母と子への追悼の念がこめられている。 林静一は1962年に東映動画に入った。
1963年、手塚治虫のテレビ漫画「鉄腕アトム」に対抗して、東映が半年遅れて制作した高畑勲、宮崎駿たちのテレビ漫画「狼少年ケン」の制作にかかわった。
67年に『ガロ』に「アグマと息子と食えない魂」で漫画家デビューした。
70年の青春漫画「赤色エレジー」は一挙にその名を有名にした。
76年にロッテの「小梅ちゃん」の美少女キャラクターTVCMでベニス国際広告映画祭銅賞を受賞した。
87年、長編アニメーション映画「源氏物語」でキャラクターデザインを担当してモダンな源氏絵巻を描きあげた。
「赤色エレジー」は2011年8月に舞台で上演され、またアメリカやフランスで訳されて刊行された。
2010年に出たフランス語版『赤色エレジー』の装丁など斬新なイメージなっている。
「現代の竹久夢二」ともいえるような林静一の美少女の叙情画は、いまも各地の美術館で林静一展として展覧されている。
母の生命力がそこに息づいている。
(『ぼくらが出合った戦争 漫画家の中国引揚げ行』石子順、ちばてつや、森田拳次 新日本出版社 2012年)
企画展「漫画でたどる引揚げ展」(平和祈念展示資料館)
林静一さんたちの絵を見ることができます。
今朝の父の一枚です(^^)/前にもシワシワになった柿の実を撮していました。
63 「猛烈な雨」や「猛暑日」はやっぱり増えている
地球温暖化が私たちの生活に及ぼす大きな影響のひとつは、極端な大雨や猛暑が増えているということです。
実際に日本では、最近約40年では全国で1時間に80mm以上の猛烈な雨が増える傾向にあります。
また、過去約100年で1日の最高気温が35℃以上の猛暑日や、夜間の最低気温が25℃以上の熱帯夜も増えており、逆に1日の最低気温が0℃未満の冬日は少なくなっています。
積雪量も過去30年で減る傾向にあります。
ただし、大雨や大雪は年ごとの変動が大きいため、長期的な変化傾向はもっとデータを増やして調べる必要があります。
地球温暖化の影響をコンピューターシミュレーションで調べた研究では、温暖化により豪雨の雨量が増えている可能性があるという結果が出ています。
また、「ある年の猛暑は温暖化がなければ発生しなかった」という結果も出ています。
私たちは、これまで以上に極端な現象に対して、日ごろから備えておく必要があるといえます。
(『空のふしぎがすべてわかる! すごすぎる天気の図鑑』荒木健太郎 KADOKAWA 2021年)