2025年8月3日日曜日

一雨ほしいけど

連日「熱中症警戒アラート」が出ている。
何日も雨が降っていないのでヒマワリもグッタリとしていました。
天気予報をみると木曜日くらいに雨が降りそうなんだけど…
香山リカさんの投稿(8月2日)に

大学教員時代、カルトの恐ろしさと心理学的勧誘手口を学ぶため、脱会した元信者をゼミのゲストスピーカーに招いたことがあった。
国立大の授業に物足りなさを感じて思想研究会に入部、悩みを聞いてもらいながら会で勉強を重ね、最後の最後に「統一教会」だと知らされたときは、抜けられなくなってたそう


(投稿にはある政党の「業務連絡」が引用されています)
 「あとがき」つづき 

 ようやくエリザベス・サンダース・ホームのプロジェクトに戻ろうとした2011年、三陸沖を震源とする大地震が東日本を襲った。
さらに福島第一原発が水素爆発をする様をニューヨークの自宅で目にしたのだ。
まさに戦後の豊かさがぽんと音をたてるように簡単に崩れて、恐ろしい時代の到来を予感させるようだった。
ただ、この地震は想定外のものではなく、過去に遡って文書をひもとけば予想されたであろうことを認識させられた。
(『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年)
 沢田美喜について占領期の戦いだけを考えていたわたしに、この事実は、土佐の井ノ口村からはじまる岩崎家の歴史や岩崎彌太郎自身の人生、そして三菱が誕生し、財閥になるまでをも辿る必要があることを示唆したのである。
占領期だけを探っても、美喜の全体像が浮き上がることはなかった。
日本の近代史から眺め直してみると、そこに岩崎家の娘として多くを語られてこなかった美喜の新しい側面がみえてくるのだ。
この仕事に通算十年かかってしまったのは、ほかでもない十年というスパンでないと見えてこない美喜の像があったからであり、また十年という歳月で美喜のものがたりが何層にも深まったからである。
 政治的な発言をほとんどしなかった美喜だが、講和条約が発効した後の昭和28年1月7日に、「私が大臣なら」という朝日新聞のインタビューで、外務大臣に擬せられた美喜は思い切ったことを語っている。
「再軍備問題なんかも広い意味の外交ね。あたくしは再軍備絶対反対。とくに戦争の後始末を仕事としてやっている身ですもの、戦争はまっぴら。武器を持っているから武器に制されるのよ。剣の下に天国はございません。賠償問題はいくらかよくなるっていうけど、果たしてどうかしら。値切れるだけ値切って、マケられるだけマケてもらおうなんて第一ヒキョウよ。与えた損害はあくまで払うべきだと思うの。一ぺんに払えなければ、期限を延ばしてもらって、何年かかっても払うべきだわ」
 昭和55年5月、戦後35年を迎える年にスペインのマヨルカ島で客死した沢田美喜は、それまでに五百六十名の混血孤児を含むおよそ二千人に孤児を育て上げた。
彼女が亡くなってから、三十五年後のこの夏、安保法制を大幅に変更しようという現在の日本政府の動きを美喜が知ったら、間違いなく声をあげて猛然と反対することだろう。
わたしと同じ世代の混血孤児たちはもう六十代後半になったが、「戦争の後始末」と美喜が語った仕事はまだまだ終わっていない、とこぼすにちがいない。
 戦後七十年という大きな節目に、占領期を語ることは、ますます意義あるものになってきた。
この十年、戦争を生きた世代が次々に亡くなって戦争の記憶が見事に風化していくなかで、わたしたち敗戦直後に生れた昭和二十年代世代は恐らくあの時代の臭いと空気、貧困と焼け跡の名残りを覚えている最後の世代となった。
昭和二十三年七月、東京・神田神保町で生れたわたしが占領期を知ることは自分自身を知ることであるし、戦後の日本を検証することでもある。
その時代の日本を知ることなくして、これからの日本がわかるはずもない。
そして、これからの日本を真剣に語り、新しい方向性を見いださなければならない現在ほど、沢田美喜のように時代の空気や趨勢に立ち向かう覇気と勇気が必要なときもないのではなかろうか。

 …後略…

(『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年)
 澤田美喜の活動は、

 パールバックとジョセフィン・ベーカー
 養子にほしい


 エリザベス・サンダース・ホーム園長の澤田美喜さんは、毎年アメリカ各地で講演し、「あなたたちの子どもたちが日本で暮らしています。子どもたちを育てるのはアメリカの責任でもあります」と訴えました。
静かに聞いていたアメリカの人たちは、募金箱に次々とお金を入れました。
(『②混血孤児-エリザベス・サンダース・ホームへの道』本庄豊編 汐文社 2014年)
 美喜さんの話に感激し、ホームの子を養子にしたいと申し出るアメリカ人もいました。
美喜さんは子どもたちの将来のため、養子にほしいという申し出を積極的に受け入れました。
美喜さんの古くからの友人であるパール・バックさん(アメリカのノーベル文学賞作家)は「私は混血孤児たちがアメリカのものであり、当然アメリカへ連れてくるべきであると信じます」と話し、養子縁組のための努力をおしみませんでした。
1953(昭和28)年の統計によれば、当時の日本の混血孤児の総数は3972人で、そのうち施設に入っている混血孤児は482人、あめりかを中心として養子にほしいという希望は740人あったといいます。
エリザベス・サンダース・ホームからは68人の孤児たちが養子としてアメリカに渡りました。
 ミランダ城の混血孤児

 美喜さんの友人であるジョセフィン・ベーカーさんは、ダンサー、歌手として世界的に有名なアメリカ人女性でした。
戦争中は連絡がとだえていましたが、戦後になると交流が復活、1956(昭和31)年、ベーカーさんがエリザベス・サンダース・ホームを訪ねました。
ホームへの支援金集めのため、ベーカーさんは沖縄をのぞく日本国内の23ヶ所で公演しました。
集まったお金(旅費をのぞいたすべて)をエリザベス・サンダース・ホームに寄付したのです。
 広島で公演したベーカーさんは、広島平和祈念資料館に立ち寄りました。
資料館の前の売店で仕事をしていた老人の肩にケロイド(やけどなどのあとにできる、赤い色のもりあがり)のあとがあるのを見たベーカーさんは、その肩に手を置いてこう言いました。
「こんなことは、許されることではない。…勝った国は、勝って良かったと思っても、大切なものを失ってしまう…」
 公演後、美喜さんと相談したベーカーさんは、エリザベス・サンダース・ホームの黒人の孤児2人(秋男<あきお>とテルヤ)を養子にします。
そのころ、南フランスのドルトーニュにあるミランダ城に住んでいたベーカーさんは、各国にいた混血孤児をミランダ城に引き取りました。
その数は12人になりました。
 ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵のなかに、エリザベス・サンダース・ホームからアメリカに養子として渡ったヨシアキがいました。
戦争のために生れた混血孤児が、戦争のために死んだのです。
(『②混血孤児-エリザベス・サンダース・ホームへの道』本庄豊編 汐文社 2014年)
国連広報センターの投稿

平和とは単に争いがないことではなく、
人種、肌の色、信条、宗教、性別、階級、
カースト、その他の社会的な違いに関わらず、
誰もが活躍できる環境をつくることです。
」 

-ネルソン・マンデラ(元南アフリカ共和国大統領)

( 画 像 )

未来へのプレイリスト
ピーター・バラカン プレゼンツ メッセージソング with いとうせいこう」で紹介されていた

The Specials - Nelson Mandela (Official Music Video)」(ユーチューブ)

ビリー・ホリデイを紹介していたのが
映像の世紀バタフライエフェクト「奇妙な果実 怒りと悲しみのバトン」(2024年5月13日)
今朝の父の一枚です(^^)/
アブラゼミの背中を見ると……

 蟬 せみ
○盆にセミを捕るものではない(愛知)。
…中略…
群馬県北群馬郡では、セミは人間が生まれ変ってきたのだから、盆前には殺すなといい、壱岐でも、盆の仏様がセミに乗ってくる、セミの足に乗ってくる、セミの足に赤い小さいものが付着しているのが仏様だという。
いずれも、盆の頃に鳴くセミを精霊の乗り物とか、魂自身の姿と考えたもので、同様の俗信はトンボにもある。
 …後略…
(『日本俗信辞典 動物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 2021年)