2025年6月30日月曜日

六月晦日

危険な暑さが続いています。
長袖を着ているのだけど日ざしが突き抜けてくる!

大阪 京都 大津で今季1番の暑さ 7月7日頃にかけて猛暑か」(関西NHK)
絶版になっている本ですが山に登っていた頃に読んでいました。

6月
 茅の輪
(ちのわ)くぐり

 旧暦六月の晦日(みそか)は、昔から重要な折り目の日とされてきました。
この日に、夏越(なごし)の節供とか、六月(みなづき)の祓(はら)いなどと言って、各地でいろいろな行事が行われてきました。
 ところで、我が国では、大陸から暦(こよみ)が入ってくる前に固有の暦があったようです。
これを古暦(これき)などと言っている人がいます。
この古暦では、1年を二期に分け、六か月ごとに同じ行事をしたのではないかと考えられています。
つまり、正月が1月と7月に2回あり、6月の晦日は2回目の正月の年越しの日に当たっているというのです。
だからこの日に行なわれる行事には、古い習俗が残っているといわれます。
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
 神社の中にはこの日、茅の輪という行事をするところがあります。
 茅の輪というのは、茅(ちがや)を何本も束ねて、それを麻でくくって大きな丸い輪にしたもののことです。
この輪をくぐると災いを免れるなどと言っていますが、本来は身を清めるために行なうものでした。
 諏訪郡下諏訪町東山田に、浮島社というお宮があり、ここでは6月30日に茅の輪くぐりをします。
 直径2メートルほどの茅の輪を作って、厄年(やくどし)の人は、お札をふところに入れて三回くぐり、それが終わるとお札を川へ流します。
流し雛の行事と同じように、汚れをお札につけて水に流すということでしょう。
 小県郡真田町の真田の山家(やまが)神社では、これを7月14日、15日の二日間、また更埴市屋代の須々岐水(すずきみず)神社では、7月31日の夜行なっています。
これらは新暦となってから、このように日を変えたものでしょう。
 さらに諏訪市中洲(なかす)にある諏訪大社上社では、6月30日と12月31日の2回行なっています。
このように年二回行なうのは、一年を二期に分けていたころの古いしきたりを残しているものと思われます。
 名越(なごし)の行事の一つとして行なわれる茅の輪くぐりは、新しい年に訪れる神を迎えるために、罪や汚れを祓って身を清めるという考え方から生まれたものでしょう。
   (浅川欽一 民俗研究家)
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
 6月17日紹介してから間があきすぎましたが(^^ゞ

(「カレーライス隆盛の秘密」つづき)

 ところで、先ほどからずっとご飯、ご飯といっていますが、白米をぶっかけにすると「罰当たり」と怒鳴られました。
外食は別にして家庭のぶっかけ飯には白米が多少入ることはあっても、茶碗のなかの主流は麦、稗、粟といった雑穀類です。
白米は銀シャリと呼ばれるほど大事にされましたから、汁をかけるなんてもったいない。
そんな考えは地方に行けば行くほど強いものでした。
(『うつくしく、やさしく、おろかなり——私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年)
 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で、弥次さん喜多さんが立ち寄った店のひとつに丁子屋(ちょうじや)があります。
静岡県の安倍川の近くに現在もあるこの店で有名なのは麦とろご飯。
とろろ汁のかけ飯で今も麦飯を使っています。
その理由は嚙まずにかっ込むので白米より消化がいいということですが、これは現代的な解釈でしょう。
真相は、白米が食べられなかった江戸時代の食生活の名残だと思います。
 当時の庶民の主食はまだ雑穀だったといっても過言ではありません。
雑穀をなんとかおしく食べようとして知恵をしぼった結果、ぶっかけ飯が発明されたのでしょう。
そして、ありあわせの素材を駆使して見事においしい料理を編み出しました。
ぶっかけ飯は江戸庶民の知恵の結晶なのです。
 それにひきかえカレーライスは最初から白米を使っていました。
そのため、それまでのかけ飯とは一線を画したちょっと高級な料理として定着していったのです。
それでも白米に対する遠慮は、「日本式」のカレーライスの盛り付けに見てとれます。
ご飯を汚さぬよう、片側にだけルーがかけられます。
そしていきなり全体をかきまぜず、白いご飯とルーを一口ずつスプーンにとり行儀よく食べ進むのです。
本場の人が見たら奇妙な儀式ですね。
 ともあれ、当時は庶民には高嶺の花。
そんなカレーライスを庶民がようやく口にしはじめるのは、明治が終わって大正時代になってからでしょう。
民主主義と資本主義経済がうまく機能しだして、庶民にもお金が届いてくるようになったとき、カレーライス人気が沸き起こりました。
けれどもそんな幸せな時は長続きせず、戦争の暗雲が庶民の上にのしかかります。
そして敗戦。
日本人は江戸の庶民に逆戻り。
稗や粟、薩摩芋の食事を強いられてぶっかけ飯も復活しました。
 このときの記憶が生々しい世代が、娘のぶっかけ飯を戒めるのもわかります。
やがて終戦後しばらくたってようやく食卓に白いご飯が復活し、家々ではカレー粉と小麦粉を炒めてカレーライスを頻繁につくるようになりました。
みんなで卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでカレーをかけた白米を食べることができるようになった世の中が、どんなにうれしかったことでしょう。
 家庭のカレーライスは蕎麦屋のカレーライスと同じで、かつおだしがきいていて、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、そして豚肉が入っていました。
考えてみますとこのカレーライスこそ江戸のぶっかけ飯の直系です。
ただカレーをかけるのはいつもまっ白なお米のご飯。
今は白米を食べられる豊かな世の中に感謝したいものですね。
 当時より豊かになったのはうれしいことですが、豊かさが当たり前になってしまうと、いつか必ずつかんだものを手放すことになるでしょう。
反対に厳しかった時代の辛さを知れば今の幸せを守ろうとするはずです。
ときには、身近なカレーライスの来し方に思いをはせながら嚙みしめてみてはいかがでしょうか。
そうすれば今の世の中の何を守らなければいけないかも、わかるような気がするのです。(談)
   (「別冊サライ」2000・4)
(『うつくしく、やさしく、おろかなり——私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年)
 朝ドラ「あんぱん」第14週「幸福よ、どこにいる」 (66)の冒頭は昭和21(1946)年1月
この頃の日本人はよく生き延びることができたなと思います。

 5章 日本における食と資本主義の歴史
 飢餓脱出期(1945~1954年) 


 1945年8月に敗戦した日本では、とにかく食料が極度に不足し、餓死者も続出しました。
アニメ映画の『火垂(ほた)るの墓』(高畑勲監督、1988年)を見たことがありますか?
野坂昭如の戦争体験を題材とした作品です。
映画の冒頭で主人公がお腹を空かせて衰弱死したのは三ノ宮駅でした。
今では繁華街の大きな駅ですが、敗戦直後には映画で描かれたように、都市部の駅で子どもたちがボロボロ餓死していた状態でした。
(『食べものから学ぶ世界史―人も自然も壊さない経済とは?』平賀緑 岩波ジュニア新書 2021年)
 戦中から、戦争を遂行するための統制経済下で、物資を国家が人びとに割り当てて販売する「配給制度」がとられており、食料も世帯ごとに決められた量しか購入できない状態でした。
 敗戦後は、さらに食料が不足したため配給制度が続けられましたが、不完全で、しかも「配る」といっても物資が足りず、決められた量も入手できない状態でした。
戦後の方が食料が不足した要因としては、日本が戦中まで朝鮮半島や台湾を含めた領域内で食料を調達していたこともあります。
日本の近代化を支えた女工や労働者、軍隊を、朝鮮米や蓬萊米という日本が支配していた地域から財閥などが調達したコメで養っていたけれど、この食料の移入が途絶えたこと、戦時中に農村から農業の担い手が奪われ国内の農業生産も滞っていたこと、戦争が終わって満州や台湾、東南アジアなど海外に出ていた兵隊や日本人が一気に内地に戻ってきたことなどなど、さまざまな要因がありました。
 敗戦直後はとにかく食料を含む物資が全面的に欠乏し、少ない物資を購入しようとインフレーションが進み、政府はそれを統制しようと新しい通貨に切り替えたり配給制度を守らない「闇市」や闇取引を警察で取り締まったり、混乱の時代でした。
 戦争中から戦後にかけて食糧難を経験したため、ひもじさや栄養失調の思い出が強くて昔ながらの食事を否定したり、本来の「家庭の味」の原体験を持たなかったりした世代を生み出したといわれています。
戦争や戦後を経験された年配の方に会う機会があったら、当時の食事事情について聞いてみてください。
 ひもじさの反動もあり、戦争に負けた日本の全てを否定する気持ちもあり、戦後には日本を占領した勝者である「進駐軍の食べ物」、米国の食生活に憧れる気持ちも高まったそうです。
 あまりに食料が不足すると暴動が起きかねないため、治安維持の目的からも米国から「食料援助」が行われ、パンと脱脂粉乳による学校給食も始められました。
脱脂粉乳とは、牛乳から脂肪に富んだ部分(クリーム)を分離した部分(よく言えばスキムミルク)から、ほぼ全部の水分を除いて粉末にしたものです。
 当時の脱脂粉乳は欧米では人間の食べるモノとみなされないような不味(まず)いものだったそうで、年配者から話を聞くとかなり不評だったようです。
 このときの食料援助によって救われた命もありましたが、人道的な目的だけでなく、米国農業や外交における政策的な意図や、小麦や大豆を輸出したい穀物商社など企業の思惑も絡んでいたことに注意してください。
 敗戦直後には、同じくボロボロとなっていた欧州を復興させるためとして、欧州復興計画「マーシャル・プラン」が実施され、米国産の小麦や大豆が戦略的に西側欧州諸国に輸出されました。
戦後、米国と旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が対立し、1949年10月に中国共産党の中華人民共和国が成立するなど「冷戦」が激化すると、アジアの共産化を防ぐ壁としての日本や、当時独立を始めていた途上国に対して「食料援助」を含む、米国産の小麦や大豆など食料の輸出も戦略的に進められました。
 日本では、戦前から財閥も関与して成長していた製粉業や製油業の大手企業が、これら米国からの小麦や大豆を歓迎して、戦後の企業再建を進めていきました。
大豆などから搾油した植物油は、戦前には主に工業用や軍需用に使われていましたが、戦後の食糧難時代には食用油として、高カロリーの栄養改善食として奨励されました(油はメタボの敵と避けられがちな現在とはぜんぜん違いますね)。
コメばかりの食事は非難されて、小麦から作ったパンが奨励された時代でした。
 これを米国の「小麦戦略」と批判する声もありますが、日本の政府や日本の大手企業も率先して、小麦粉や大豆油などの消費増加を促す運動を展開したことに注意してください。
 例えば、油脂への統制が解除されると、日本の油脂産業は食用油の消費拡大を促すイベントして1951年「東京油まつり」を開催しました。
これは当時の農林省、食糧庁、東京都、油脂製造業会(業界団体)が後援し、賞金や賞品の抽選会を行ったりして人を集め、油の食用を推奨したものです。
 やがて日本の経済社会が復興し、1955年から高度経済成長期に入ると、その購買力の増加を狙って、米国産小麦や大豆がさらに売り込まれることになります。
(『食べものから学ぶ世界史―人も自然も壊さない経済とは?』平賀緑 岩波ジュニア新書 2021年)

昭和の生活 1950年代」(NHKアーカイブス)

今も米不足?の状態なのでパン食が増えるかも知れませんね。
情熱大陸「柴田ケイコ 絵本作家