2025年6月28日土曜日

梅雨明けのあと

肌を刺すような日ざし…
昨日、平年よりも20日程早い梅雨明けになりました。
と言うことは猛暑、危険な暑さが長く続くということ
水不足も心配ですね…
琵琶湖の水位は大丈夫かな?

梅雨明け なぜ早い? 東日本はいつごろ?」(NHK 6月27日)
朝ドラ「あんぱん」第13週「サラバ涙」(65)
面接試験で、過去に「愛国の鑑」として新聞記事に載ったことを指摘され
ているのを見ながら、「愛国の鑑」に祭り上げ、戦意高揚に利用したのは
軍部とマスコミだろうと突っ込みをいれていました。
戦前・戦中は軍部のご機嫌うかがいをして、戦後はGHQの顔色を見ている。

のぶ写真の現像をしているのを見ておかしいと投稿されているのを見ました(公式への返信以外で)。
大阪大空襲でも被災を免れた地域・建物があります。
たとえば四天王寺は1945年3月13日の空襲で焼け落ちましたが
六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物は残りました(「四天王寺の歴史」)。
また近くの愛染堂勝鬘院「多宝塔」も被災を免れました。
私は、かつて京都は空襲に遭っていないと思い込んでいました。

 夏――古都、今昔戦争語り

 日本の夏は、第二次世界大戦の記憶と切り離せない。
八月になるとテレビで毎年、戦争体験を扱ったドキュメンタリーや検証番組、高畑勲監督のアニメ映画、「火垂(ほた)るの墓」などが放映される。
 しかし四十代以下の京都の人は必ず、小学校で次のような話を聞かされているはずだ。
「京都は文化財が多いため、空襲はなかった」
 確かに京都市内には古い木造建築が多く現存しており、幕末の禁門の変以来、大きな火災は起きていないといわれる。
「アメリカは歴史が浅いから、古都である京都や奈良を尊んで攻撃をしなかったのよ」
 私の小学校の担任教師はそこから、いかに京都の町がすばらしいかと話し始めた覚えがあるが、とにかく子供心にこの話はひどく感動的に思われた……しかし、である。
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
「京都に空襲がなかった? なにアホなこと言うてんのや」
 こう私を叱(しか)りつけたのは、近くの荒物屋のおばあさま。
八十五歳というお年にもかかわらず大変お元気で、立ち話の中でも古い京都の話が次々飛び出してくるお方である。
「そら大きな空襲はなかったけど、終戦の年なんかは、あちこちで爆弾が落とされたんやで。最近の学校は、何教えてんのや」
 小さな身体を震わせてまくし立てられ、挙げ句の果てに教師批判まで始まった。
こうなると、人生経験からして太刀打ち出来るはずがない。
「ほんまに物知らずですみまへん」と頭を下げ、お聞きしたのは次の通り――。
 京都の空襲は大小約二十回ほど。
中でも被害が甚大だったのは、1945年1月16日の東山区馬町(清水寺の南西500メートルほどの地点)への空襲と、同年6月26日早朝の西陣空襲だったという。
 西陣空襲では7発の爆弾が落とされ、死者43人、負傷者3百人以上という被害を出した。
この辺りは今も昔も洛中(らくちゅう)随一の住宅密集地。
さらに前日が北野天満宮の縁日だったため、洛外に疎開していた人たちも久々に家に戻っていた。
あろうことか、その翌日朝に爆撃が行われたのである。
 現在、西陣の老舗「山中油店」の店先には、このときの爆弾の破片が展示されている。
また、京都でも知る人が少ない空襲の記憶を風化させるなとの声も市民の間には存在し、十数年前には近くの公園に、「空襲被災を記録する碑」が建てられた。
「戦時中は情報操作があったんで、馬町の空襲かて、『被害は僅少(きんしょう)』って発表されたんや」
 約五十人の死者が出た馬町空襲では、爆撃後、近辺の道が軍により封鎖されたという。
これが京都市内における最初の空襲であったための空襲被害隠蔽(いんぺい)工作であろう。
 3月10日の大空襲で知られる東京や、九千人近い死者を出した名古屋や神戸に比べれば規模も回数も段違いだが、それでも「文化財を守るため空襲がなかった」は嘘だといえる。
 考えてみれば、バロック様式の美しい町並みと数多くの文化財から、<エルベ河畔のフィレンツェ>と讃えられたドイツの古都・ドレスデンは、軍事施設がほとんどないにもかかわらず無差別空襲を受け、死者は3万人とも、一説には15万人ともいわれている。
このことからしても、連合軍が敵国の文化に敬意を払っていたとは考え難い。
  実はこの説の流布のきっかけは、終戦直後の11月11日付朝日新聞に載った「京都・奈良無傷の裏 作戦国境も越えて『人類の宝』を守る米軍の陰に日本美術通」という記事。
ここにはハーバード大学附属フォッグ美術館東洋部長・ウォーナーが、文化財保護の観点から京都・奈良の爆撃禁止を提唱したとあり、これが美談としてもてはやされ、あっという間に全国に広まった。
だが話の出所がGHQであることや、後にウォーナー自身がこの説を否定していることからして、日本占領を容易にするために意図的に流された話と考えるのが自然。
それにもかかわらずウォーナーがその後も「謙譲の美徳を持った人物」と賞賛され、没後、奈良や鎌倉に顕彰碑が建てられたのは、敗戦国・日本の願望だったのかもしれない。
 しかしそうなると、京都空襲の規模が他の都市と違う理由が判らない。
何故京都は空襲が少なかったのか?
実は空襲よりはるかに恐ろしい攻撃を仕掛ける計画があったため、京都への空襲は控えられていたのだ。
  1945年5月、アメリカの目標検討委員会は新型兵器・原子爆弾の投下目標都市として、5箇所を選出した。
 ――AA級目標…京都・広島 A級目標…横浜・小倉 B級目標…新潟
 ことに投下に最適とされるAAランクは京都と広島。
もうお判りだろう。
京都は原爆投下の候補地であり、原爆の威力が明白に判るようにと、あえて空襲が減らされていたのだ。
 検討委員会は、「京都は人口百万の工業地域で、日本のかつての首都。現在も日本の心理的中心地で住民は知的レベルが高く、この特殊兵器の意義を正しく認識しえると考えられ、京都への投下は精神面攻撃の観点からも有益」と太鼓判を押している。
 そうでなくても三方を山に囲まれ、南が開いている京都盆地は、原爆の破壊力検証には最良の地形。
そこで委員会は航空写真を分析し、旧国鉄の梅小路機関区を投下点と定めた。
現在この一帯は整備され、梅小路公園として市民に親しまれているが、ひょっとしたらここが広島の原爆ドームならびに長崎・平和記念公園のように、原爆被害を物語る忘れ難い場所となっていたかもしれない。
 当時、委員会の中で強硬に京都を推(お)していたのは、原爆実験の総指揮者・グローブス少将。
しかし陸軍長官・スティムソンは、京都が日本人の精神的中心地であることからこれに反対し、トルーマン大統領に「そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、日本人に、我々に対する友好的な感情を持たせることが不可能になる」と提言。
これが受け入れられ、6月下旬、広島・小倉・新潟・長崎が最終候補地と決定したのである。
 もしスティムソンの意見が通らなかったなら、京都は観光都市ではなく、平和希求のシンボル的都市として戦後を迎えただろう。
日本の古都・京都が壊滅していれば、この国の文化は現在よりさらに欧米化していたに違いない。
そうなればもちろんこの「京都はんなり暮し」はなかっただろうし、ひょっとしたら、私自身がこの世に生まれていなかったかもしれない。
「まあ、うちらがこうやって語っていかへんかったら、京都の空襲のことなんかすぐ忘れられるんやろうなあ」
 しみじみと仰るおばあさまの声と強い夏の西日が、私の背中を追いかけてくる。
両手には買う予定ではなかった洗剤と笊(ざる)が二つ。
まったく、戦前生まれはたくましい。
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)

オススメの本は、品切れになっていますが、
戦争のなかの京都』(中西宏次 岩波ジュニア新書 2009年)
そのアメリカは、イスラエルを後押ししてパレスチナの人たちを皆殺しにしようとしている。
もしも私が死んだなら」(NHK 6月27日)

ここでは攻撃されて死ぬこともあるし、恐怖、そして飢えで死ぬこともある。
ガザの中ではいろんな方法で死に至る。食べ物は何もない。本当にきつい。飢えは本当に起こっている。
この前、8歳の女の子に『何がほしい?』と聞いたら、その子は『もう死にたい』と答えたの


自分が生きたいと思った人生を生きることができる望みはほとんどないけれど、私は進み続けなくてはならない。すべてを記録し続け、ガザの子どもたちに、私がどう生きてきたか、どのような困難をくぐり抜けてきたか伝えなくては
今朝の父の一枚です(^^)/
もうじきヒマワリの花が咲きます。

 Q61 東を向いているヒマワリを西向きに植えかえたら、東に振り向くのか?

(質問省略)

 ヒマワリは、若いときからつぼみを付ける頃まで、茎の上部10~15cmが、朝は東(写真上<省略、以下同じ>)、正午は真上(写真中)、夕方は西(写真下)へと太陽を追って運動します。
そして花を咲かせる頃になると、生育している場所にもよりますが、東か西を向いて動かなくなります。
ちなみに、ヒマワリの花は1000~2000個くらいの花の集まりなので、全部咲くのに数日かかります。
 茎の東側が成長すると西を向き、西側が成長すると東を向きます。
つまり向きを変えるには茎が成長していることが必要で、これを「成長運動」といいます。
 したがって茎が成長しているときなら、東を向いているヒマワリに西向きに植えかえても、太陽が東にあれば東を向きます。
しかし花を咲かせた後は、もう成長をしていないので向きは変わりません。
(『これでナットク! 植物の謎』日本植物生理学会編  ブルバックス 2007年)