時々、雲を突き抜けるように日ざしが降り注ぎ
そのうえ風がほとんど吹かなくって蒸し暑いこと……
6月の気温は
「6月の全国平均気温 平年よりも2.34度高く 統計開始以来最高」(NHK 7月1日)
このままだと……
「欧州各地で熱波 スペイン・フランスなどで最高気温40度超える」(NHK)「【気象庁会見】鹿児島 十島村 1日2回の震度5弱 地震活発に」(NHK)
これだけ地震が続くと不安でたまらないとおもいます。
やなせたかしさんも大地震を体験しています。
朝ドラ「あんぱん」第14週「幸福よ、どこにいる」では、
戦前・戦中は、新聞統制により高知では1紙だけが新聞を発行していたことが語られていました。
京都でも京都新聞1紙だけが発行されていたようです。
6月28日の記事で澤田瞳子さんの『京都はんなり暮し』より京都の空襲
西陣空襲について転記しました。
そこで少し触れていた馬町空襲について転記したいと思います。
今は、観光客で賑わっている地域ですが 5 空襲があった
馬町空襲
1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備部隊が、在留日本民間人多数とともに玉砕(ぎょくさい<全滅>)しました。
このときまでに、米軍はつぎつぎと日本軍が占領していた島々に上陸、各島に孤立していた日本軍守備隊は、援軍も補給もないなかで絶望的な戦いを挑み、最後は投降し捕虜(ほりょ)になるのを拒んで、全滅していきました。
ちなみに「玉砕」ということばが公式にはじめて使われたのは、1943年5月29日に北東太平洋・アリューシャン列島アッツ島の守備部隊が全滅したときだといわれています。
(『戦争のなかの京都』中西宏次 岩波ジュニア新書 2009年) 大本営発表。アッツ島守備部隊は五月一二日以来極めて困難なる状況下に寡兵(かへい)よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、五月二九日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌(てっつい)を下し皇軍の神髄(しんずい)を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後(じご)通信は全く途絶(とぜつ)、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉(ことごと)く自決せり。
サイパン島の飛行場が米軍の手に落ちたこと、またちょうどこのころ米空軍に最新鋭大型爆撃機B29が投入されたことにより、日本本土はいっきに爆撃の恐怖にさらされることになったのです。
B29は5000キロ以上の航続距離をもち、サイパン(のちグアム、テニアン島なども基地となる)を離陸して日本本土を爆撃し、ゆうゆう帰還することが可能でした。
サイパン陥落により「絶対国防圏」が崩壊した責任をとる形で、7月18日東条英機(ひでき)内閣は総辞職。
また、10月のレイテ沖海戦(このとき「神風(かみかぜ)特攻隊」が初出動)で日本海軍艦隊は事実上壊滅し、以後組織的な作戦行動をとることはほぼ不可能となりました。
本土にB29が初飛来したのは11月1日のことでした。B29は5000キロ以上の航続距離をもち、サイパン(のちグアム、テニアン島なども基地となる)を離陸して日本本土を爆撃し、ゆうゆう帰還することが可能でした。
サイパン陥落により「絶対国防圏」が崩壊した責任をとる形で、7月18日東条英機(ひでき)内閣は総辞職。
また、10月のレイテ沖海戦(このとき「神風(かみかぜ)特攻隊」が初出動)で日本海軍艦隊は事実上壊滅し、以後組織的な作戦行動をとることはほぼ不可能となりました。
このときは東京上空から写真偵察だけでしたが、24、27、29と東京には空襲警報が鳴りひびき、中島航空機工場など軍事施設が高高度から爆撃を受けました。
年が明け1945年に入ると、1月16日に京都市が初空襲を受けました。
これについてはすでにすこしふれましたが、もうすこしくわしく述べたいと思います。 この日深夜11時20分過ぎのことですが、東山区馬町(うままち)付近にB29 一機から数発の爆弾が投下され、現場は大混乱になりました。
死傷者数については資料によりまちまちですが、池田一郎他『京都の「戦争遺跡」をめぐる』(機関紙共同出版)によると、死者41人、負傷56人、家屋損壊300戸以上と記録されています。
現場から西へすこし離れたところに自宅兼工房があった陶芸家の河井寛次郎(かわいかんじろう 1890~1966年)は、この日の日記につぎのように書きました。 「上空ニセンカイスル飛行機ノバク音アリ友軍機ニシテハオカシイト思フナリドカンバチバチトヒドイ音ス」「馬町土橋辺盛ンニ燃エテ居ル(中略)バクダンノ穴アキ其辺一タイノ家皆半カイ硝子ハコトゴトクコワレシ由也」(『朝日新聞』京都版2008年8月31日「モノは語る 戦後六三年夏」より)
河井の旧居跡は現在、河井寛次郎記念館として公開されていますが、その一階板の間の床下には「防空壕」がいまも保存されているそうです。
河井と家族は、この夜も暗い防空壕に避難したのでしょうか。 翌日の新聞には報道されませんでしたが、翌々日(18日)の『京都新聞』(当時は新聞も統合により京都では1紙のみ)に「京都も戦場なり」「魔翼(まよく)遂に京都を侵す」「深夜不意打ちの盲爆」「間髪(かんぱつ)の防護活動に被害は僅少」などの見出しのもと、被災場所を○○区、○○学区などと伏せて、この爆撃被災が伝えられました。
記事の内容は、「木除き壁を掘り学友五人を救出・敢闘(かんとう)二時間殊勲の乙女達」との見出しのもと、倒壊した寮の中から学友を救出した女学生(京都女子専門学校=現・京都女子大学)の奮闘談などが中心で、「被害は極く軽微」「被爆の家屋も大半が修理完了」などと報じられました。
しかし、じっさいには現場は凄惨(せいさん)な状況になっていました。
『京都空襲 語り伝える京都の戦争2』(久津間保治著、かもがわ出版、1996年)から、当時16歳で立命館中学3年生だった服部好宏さんの体験談を引用します。 自分の家は、すぐ近くに落ちてきた爆弾で二階が吹き飛ばされ、二階に寝ていた母と弟が即死していた。そして、同じ二階に寝ていた父は重傷を負っていた。父の肩あたりの出血はすさまじい血糊(ちのり)を流し続けていた。階下に寝ていた自分と祖母と妹は負傷しなかったが、自分のすることはまず、父に傷の手当てを受けさせることだと思った。このため自分は気絶したままの父を肩にかついだ。そして表に出た。道路にいた人たちが、修道国民学校に負傷者の救護所が臨時につくられた、と教えてくれた。父を担架(たんか)に乗せて、自宅から百メートルほど離れた修道校に運び込んだ。
臨時の救護所は学校の講堂につくられていた。みると次々と重傷者が運ばれてきた。片足のちぎれた人がいた。はだけた胸から肩にかけてザクロのように肉塊がむきだした人がいた。だれもが目も当てられないほどにひどい傷を負っていた。講堂内は人いきれと血の臭いで異様な光景をみせていた。
(『戦争のなかの京都』中西宏次 岩波ジュニア新書 2009年) 「サイパン島陥落」(NHKアーカイブス 1944年度)
「日本ニュース 第216号 封切日 1944年7月22日」(NHKアーカイブス)
〝80年前、京都にも空襲がありました ~「馬町空襲」を語り継ぐ~(学校長のブログ)〟(京都女子大学附属小学校 25.01.21)
〝80年前、京都にも空襲がありました ~「馬町空襲」を語り継ぐ~(学校長のブログ)〟(京都女子大学附属小学校 25.01.21)
〝「学校日誌」が伝える80年前の戦争〟(NHK 6月17日)