2025年9月7日日曜日

父の誕生日に

今日は、父の誕生日でお参りにいってきました。

編集作業がおわりました。
山の上なので少し涼しく感じますが、やはりまだまだ暑い
 一番心配していたのは本殿の階段です。
手すりを伝ってゆっくり上がりました。
この後、ご祈祷をしていただきました。
若宮社にタスキ(清め衣)を納めました。

 若宮社
御祭神 第十六代天皇 仁徳天皇
御神徳 男性の守護神 祈願成就 学業成就

 若宮殿社
御祭神 応神天皇皇女
御神徳 女性の守護神 祈願成就 身心健康

この二社の神様は当宮の御祭神、応神天皇様のお子様であります。
ご祈祷を受けられた皆様には、着用されました清め衣を納めて戴き、この一年
八幡大神様のお子様のようにお守り戴けますようお祈り下さい。

(以下、撮影順と違います)
末社 三女神社 御祭神 宗像三女神

第8章 八幡信仰の全国的広がりと神仏習合

 …前略…

 石清水八幡宮の成立

 時の流れは、平安遷都後の政治刷新の努力もむなしく、しだいに有名無実化へと向かう律令政治の中で、藤原氏の台頭が目立つようになってきた。
それも、奈良時代末期から大いに天皇を支えてきた藤原式家にかわり、藤原北家が台頭してきたのであって、ついに天安2年(858年)、北家の藤原良房(よしふさ)が人臣(じんしん)初の摂政となった。
(『八幡神と神仏習合』逵 日出典 講談社現代新書 2007年)
 良房は翌貞観元年(859年)4月15日、奈良大安寺の僧行教(ぎょうきょう)に命じて宇佐の八幡神宮に参詣させた。
これは当初、文徳天皇と良房の娘明子との間に生まれた惟仁(これひと)親王(文徳天皇第四皇子)の即位成就を祈るためであったが、その前年の秋に親王は無事即位して清和天皇となったため、改めて参向し、一夏(いちげ)の間、六時不断に大乗経を転読し、真言密教を念持して大菩薩に祈ったのである。
また、これと併行して、同年4月1日、良房が願主となって、宇佐弥勒寺において、八幡三所権現のために一切経の書写をおこなわせており、これは約三年半を費やして完成する(『宮寺縁事抄』十三、『石清水遷座略縁起』、『託宣集』巻十一など)。
末社 竈神殿<そうじんでん>) 

 八幡大菩薩に対する良房の崇敬には、重大な事態が背景としてあった。
惟仁親王の即位は年長の三皇子を押しのけてのことである。
良房にとっては、世の非難をそらすために皇位継承に権威を示してきた八幡大菩薩の冥助(みょうじょ)にすがり、反対者を圧伏しようと考えたであろうし、即位したとはいえ、幼少の天皇を護り、北家の繁栄と安泰のために、八幡大菩薩の加護は必要欠くべからざるものであったと考えられる。
そのためには、遠く離れた宇佐の八幡宮をないがしろにするわけではないが、この大菩薩を京都近辺に勧請することこそ最良の手段であった。
 行教の宇佐参向は、このような背景をもってなされ、貞観元年(859年、天安3年は4月15日をもって貞観元年と改元された)7月15日の夜半にいたり、「われ深く汝の修善に感応し、敢<あえ>て応忍せず、都に近く座を移し、国家を鎮護せん」との託宣を受けた。
 行教は歓喜して帰洛の途につき、8月23日、山崎離宮のあたりで、再び「われ都に近く移座せん、王城を鎮護せんがためなり」、その場所は「石清水男山(いわしみずおとこやま)の峰なり、われそこに現はれん」との託宣を受けたという(『石清水八幡宮護国寺縁起』、『宮寺縁事抄』十など)。
 (鬼門封じ

 行教は山城守紀魚(兼)弼の子として備後に生まれ、大和の大安寺に住し、三輪および真言密教を学び伝燈大法師位についた僧であるが、ここで彼が紀氏の出身であることに注意しておくべきであろう。
大安寺における彼は東室第二坊に住した。
唐に渡り帰朝後、宇佐の八幡宮に参詣して一夏九旬の間籠(こも)り続け、大同2年(807年)、八幡大菩薩を大安寺の鎮守として勧請する(第6章参照)など、行教と八幡大菩薩との関わりはきわめて深かった。
 このような経歴の持主である行教が再び宇佐に派遣され、八幡大菩薩を京都近辺に勧請するにいたった背景には、藤原北家と紀氏との複雑な関係があったものと推考されている。
良房が惟仁親王を即位させて清和天皇が出現する過程で、皇位を争って敗れた惟喬(これたか)親王(文徳天皇の第一皇子)の母は紀氏出身であり、同親王の即位達成のために大いに祈禱した真言僧真済(しんぜい)も紀氏出身であった。
いわば、清和天皇の即位が実現することによって、名門紀氏は大きな打撃を受け一族凋落(ちょうらく)の危機に瀕していたといえよう。
あたかもその時、行教に良房から八幡大菩薩崇拝の使者としての誘いがあった。
一門の活路を見出す好機と行教が受けとり、あえて藤原北家の意向のために一大行動を決意したものと考えられよう。
 石清水八幡宮(現京都府八幡市高坊)の成立は貞観2年(860年)とされる(貞観元年とする説もある)が、この場所、つまり男山(おとこやま<雄徳山、143メートル>)には、もとから石清水寺という寺院があった。
この寺院は紀氏の氏寺であった可能性が強い。
 石清水八幡宮の成立にともない、この寺を改築し名も護国寺と改め、神宮寺としたのである。
別当には行教の弟子安宗(あんしゅう)がつき、その後、別当の地位は長く紀氏の系統によって継承されていく。
話はもどるが、行教は先の二つの託宣を得たことについて奏聞(天皇に申し上げること)すると、ただちに宣旨(せんじ)が下り、木工寮権允(ごんのじょう)橘良基を遣わして宇佐と同様六宇の宝殿(つまり八幡造)を造立せしめ、石清水八幡宮が成立する(写真36参照:省略)。
つまり、宝殿造立工事が完成し、三所の御像を安置するのは翌貞観2年のことであっただろう(『日本三代実録』貞観十八年八月十三日条、『宮寺縁事抄』十三、『石清水遷座略縁起』など)。

 …後略…

(『八幡神と神仏習合』逵 日出典 講談社現代新書 2007年)
 摂社と末社 

 築地塀(ついじべい <信長塀>)に囲まれた御本社の周りには、御祭神に所縁の深い、摂社や末社に位置付けられる社があります。
 北東にある若宮社若宮殿社の歴史は古く、御本殿から遅れること70年程、平安時代前期のうちには創建されていました。
現在の両社殿は寛永年間(1624~1644)頃の建築で、国の重要文化財となっており、若宮社は珍しい日吉(ひえ)造です。
御本殿での祈祷ののち、「清め衣」に願いを書き、男性は若宮社、女性は若宮殿社に奉納します。
 他の社も鎌倉時代までには数多く建っており、そのようすは古絵図から知ることができます。
多くは戦国時代頃に一旦失われましたが、水若宮(みずわかみや)社と住吉社は江戸時代前期に再興されました。
寛永頃の建築で、国の重要文化財に指定されています。
その他の社は江戸時代末に建てられました。
 北西隅の校倉(あぜくら<宝蔵>)は、江戸時代中期からある類例の少ない校倉建築で、京都府指定文化財です。
 築地塀
通称「信長塀」ともいわれる社殿を囲む土塀
織田信長が天正8年(1580)に寄進した土塀。
塼(せん<瓦>)と土を幾重にも重ねているため耐火性、耐久性に優れており、御本殿を囲むように築かれています。
御神木「楠」
楠木正成公が建武元年(1334)に必勝を祈願して奉納した楠と伝えられています。
樹齢は約700年、京都府の天然記念物に指定されています。
 八幡STORY
 西谷 大塔跡 


 大塔(だいとう)は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。
平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇(しらかわほうおう)の御願(ごがん)により建てられました(大塔年表:略)。
 慶長(けいちょう)10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼(ひでより)が再建します。
その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市根来寺(ねごろじ)の大塔(国宝)とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。
側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました。
 平成22年(2010)の発掘調査で、塔の周りに四角く巡らせた雨落(あまお)ち溝と、柱を支えた礎石(そせき)やその抜き取られた穴が確認されたことから、大塔の位置と大きさが正確にわかりました。
現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩(礎石)は、落ち縁(廊下状の縁側)の礎石です。

根来寺多宝塔(大塔)」(わかやまの文化財)
石清水八幡宮参道ケーブル山上駅のそばにおられる
お地蔵さんにお会いするのが楽しみです。

父の誕生日にお参りに来ましたが
誕生日のお祝いは、祖母が母の誕生日に亡くなってから
母も妹も私も誕生日祝いをしたことがありません。
父は、現役の頃から石清水八幡宮を心のよりどころとしています。
私の場合、寺社巡りが好きでいいろいろお参りするのですが、願い事をしたことがありません。
お寺や神社などにお参りできるだけありがたいなと思っていて
いつも手を合わせて頭をさげるだけです。
願い事をするのは欲張りだなと思っています(^_-)
これまでは駅で父と別れ、町歩きなどをしていましたが、
父の足元をみるとかなり疲れているようなので一緒に帰りました。
それでも94歳という高齢で
2月に新型コロナと心不全を併発して入院したことを考えると
よく歩けるまで回復したなと思います。

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