天気予報で「厳しい残暑」といわれていましたが
「残暑」というよりもまだまだ本格的な暑さがつづきそうです。
↑可哀想な名前がついている花なんですが
よくみると強い日ざしを受けてラメ入りの服を着ているようでキラキラ輝いています。
(ラメは和製英語で、「lame」はネガティブな意味に使われていて
キラキラ光るという意味なら「glitter」などがあるそうです)朝ドラ「あんぱん」第23週「ぼくらは無力だけれど」 (115)
ヤムさんがチビ(のぶ)に
チビ…。
俺は お前が一番心配だったんだ。
世の中がひっくり返ったあと愛国のかがみはどうやって生きてくのか。
立ち直れるのかどうか。
愛国の鑑だったのぶのことを嫌いだというコメントが見られましたが
それは、現在の価値観で判断しているのだなと思っていました。
敗戦後、多くの人が価値観の転換を迫られました。NHK映像ファイル あの人に会いたい「篠田正浩(映画監督)」
篠田正浩さん(昭和6年生まれ)
14歳の時、価値観が一変する出来事が起こります。
日本の敗戦です。
祖国防衛のため、天皇陛下の神聖を守るため
死ななきゃいけないと教わった
皇国少年ですからね
それが8月15日を境にして
天皇陛下自ら「私は人間である」と
「神話や伝説に書かれてある存在ではない」とおっしゃったときにはね
自分が生きていく信条とかね
自分がしんじなきゃならない信仰とか宗教とか
そういうものが全部カスになったんですね
絶望することは たやすいこと
希望を持つことはもっと困難だけど
やっぱり人間はそれに向かって
生きていく以外に後退は許されない
歴史を逆回すことはできない
前に向かって
新しい歴史を刻むしかない
「心にしみた除夜の鐘」(篠田正浩さん NHKアーカイブス 2005年12月31日放送)見逃し配信は終了しましたが
「Long Yellow Roadジャズ伝説・穐吉敏子の94年」(初回放送日:2024年3月16日)
穐吉敏子(あきよしとしこ)さんも軍国少女でした。
日本でのツアー中 穐吉の戦争の記憶がよみがえる出来事があった。
旧満州時代 同じ女学校(彌生高等女学校 大連)に通っていた同級生6人が穐吉を訪ねてきたのだ。
終戦目前の1945年5月。
穐吉たちは 親の反対を振り切って陸軍看護婦に志願した。
「もう少しで沖縄のひめゆりになった」
「私も行った、穐吉さんも行ったの」
「希望が最前線 命拾いして」
女学生たちが陸軍病院に配属された直後日本は降伏。
ソビエト軍が満州に侵攻したため軍は 看護婦たちを自決させようとしたという。
しかし 反対の声が上がり穐吉たちは 一命をとりとめた。
穐吉には 80年前と今のロシア軍のウクライナ侵攻が重なって見える。
「戦争でいいこと考えてみたけどないです。ただ私は戦争が無かったらジャズミュージシャンなっていない。上の方で戦争決めると我々はその中で動かなきゃいけない。そういう運命で。戦争がみんなの人生を、生活全部を変えてしまうから」
広島を訪れた時には必ず平和記念公園で祈りをささげる穐吉。
日本人だけでなく 朝鮮半島出身者や捕虜のアメリカ人にも犠牲が出た。
原爆投下の年だけで 14万人が亡くなった。
2001年に発表された「ヒロシマーそして終焉から」
善正寺住職 中川元彗(げんえい)からの依頼だった。
原爆投下によって中川の祖父が命を落とし祖母と母親が被ばくした。
穐吉は2年をかけて曲を書き上げ2001年の原爆の日に 広島の地で披露した。
中川住職からの依頼を受けた当初穐吉は迷っていた。
原爆の被害を知れば知るほど音楽で表現することに自信が持てなくなった。
「私はとても書けないと思った
そして最初断ろうと思った」
しかし 原爆の写真集を見ていた時一枚の写真に心がとまった。
「若い女性が地下にいたから、上を見て
大変に素敵な顔でそれを見たとき『これなら書ける』と
こんなことがあっても
我々は将来に向かって希望を持つと」
Hope(第3楽章:希望)
善正寺住職 中川元彗(げんえい)からの依頼だった。
原爆投下によって中川の祖父が命を落とし祖母と母親が被ばくした。
穐吉は2年をかけて曲を書き上げ2001年の原爆の日に 広島の地で披露した。
中川住職からの依頼を受けた当初穐吉は迷っていた。
原爆の被害を知れば知るほど音楽で表現することに自信が持てなくなった。
「私はとても書けないと思った
そして最初断ろうと思った」
しかし 原爆の写真集を見ていた時一枚の写真に心がとまった。
「若い女性が地下にいたから、上を見て
大変に素敵な顔でそれを見たとき『これなら書ける』と
こんなことがあっても
我々は将来に向かって希望を持つと」
Hope(第3楽章:希望)
(↑ テレビの映像から)
山合から陽がさし、朝もやを消し始めたころ。
中町の天主堂だけが立っている焼けあとを歩いた時のことです。
とつぜん道端の防空壕から、顔をのぞかせた少女がいました。
そこは爆心から山陰になっていたので助かったのでした。
生きている喜びにあふれていました。
その姿をいつも思います。
そのほほ笑(え)みに、平和な明日を見たからです。
●長崎・中町カトリック教会付近<西中町>(南南東約2.6km)。
この女性は○○早苗さん18歳。
1979年1月、51歳で亡くなった。
撮影:8月10日午前8時ごろ。
山端庸介
(『写真物語 あの日、広島と長崎で』 平和博物館を創る会 平和のアトリエ 1994年)
注)本には、実名が書かれていますが「○○早苗さん」と表記しました。
穐吉敏子さんの高等女学校時代中町の天主堂だけが立っている焼けあとを歩いた時のことです。
とつぜん道端の防空壕から、顔をのぞかせた少女がいました。
そこは爆心から山陰になっていたので助かったのでした。
生きている喜びにあふれていました。
その姿をいつも思います。
そのほほ笑(え)みに、平和な明日を見たからです。
●長崎・中町カトリック教会付近<西中町>(南南東約2.6km)。
この女性は○○早苗さん18歳。
1979年1月、51歳で亡くなった。
撮影:8月10日午前8時ごろ。
山端庸介
(『写真物語 あの日、広島と長崎で』 平和博物館を創る会 平和のアトリエ 1994年)
注)本には、実名が書かれていますが「○○早苗さん」と表記しました。
2 戦争、そして引揚げ
…前略…
陸軍看護婦志願生として
戦争が苛烈になった事は、四年生になったとき、陸軍看護婦の募集が学校にも来たことで感じた。
私はお国のためになろうと思って、親の反対を押切って募集に応じた。
私たち看護婦志願生は、当時私たちのクラス担任だった先生に連れられて、それぞれの家を後に汽車に乗って、興城市にある、中将が院長を務める大きな陸軍病院に夜10時頃着いた。
私たちの宿舎は病院から少し離れた所にあるバラック建ての二階で、笑顔でやさしく迎えてくれた陸軍看護婦長以下、四、五人に看護婦に案内された。
そこは四つの班にくぎられていて、私は四班に配され、持って来た荷物を指定された寝床の上に置いた。
…中略…
(『ジャズと生きる』穐吉敏子 岩波新書 1996年) 第一希望は「最前線」
興城に来て以来、私たちの宿舎から離れている病院に行ったことはなかったが、三か月半ぐらいして、先輩の看護婦たちに連れられて実習に行った。
最初に手が半分なくなっている兵隊さんの患者を見たときは、気の毒だという感情より、怖い、という方が先に来て、気を失い倒れそうになった。
私たち人間は強くできているのだろう、そのうちまっすぐ傷を見られるようになった。
しかし、実際に看護に立ち会うことはなく、アメリカ映画の『M★A★S★H』(1970年)で見られるような有能な看護婦には程遠くて、あくまでも見学だけだった。
ただ、何日も見学しているうちに、近い将来、私は実際の看護に当たるのだ、という緊張感が毎日少しずつ私の心の中に高まっていった。
八月始め、私たちは紙を配られて、訓練終了後に送られる希望地を書くように、と言われた。
第一、第二希望とあって、私は第一希望の所に「最前線」と書き、第二の所に両親のいる「遼陽」と書いた。
いま考えると、全く可笑(おか)しい。
この辺が、まだ15歳の少女だったのだろう。
…後略…
(『ジャズと生きる』穐吉敏子 岩波新書 1996年)8月29日の日記に林静一さんの「母に抱かれて」を紹介しました。
林静一さんがお母さんとの思い出を書いておられます。
屋台のラーメン 林静一
母はあまり外食を好まなかったが、僕がねだるとしぶしぶつきあった。
あの当時の子どもが外で食べるものといえば、お子さまランチをおいてほかになかった。
自動車や船の容器にオムライスがのり、その中央に旗が立ててあって、この旗がもらえた。
ただでもらえるものはなんでも嬉しいから、食べる前に引き抜いて手元に大事に置いておくが、家まで持ち帰ったためしがなかった。
いつもどこかでなくしてしまうのである。
僕の子どもたちもお子さまランチが好きで、外食するとよくこれを注文した。
旗を大切に持って帰ろうとするところも同じなら、途中でなくしてしまうところも僕と同じであった。
(『ふうふうラーメン おいしい文藝』河出文庫 2025年) このお子さまランチのオムライスは、家でも母がつくってくれた。
型抜きで形が整えられ、中央にグリーンピースがのっていた。
そのレストランと同じような盛り付けのオムライスを食べると、外食した気分になり、ちょっぴり贅沢な気持ちになったものである。
いまでは家庭の料理も盛り付けがきれいになって、レストランと変わりがなくなった。
いや、へたな店より家庭料理のほうが、器も盛り付けも上である。
かえって盛り付けのへたな店のほうが、当時の家庭を懐かしく思い出させてくれたりするから、このごろはあべこべになって妙な気分になる。 外食を好まなかった母だから、外で一緒に食べた記憶があまりない。
いつも僕だけが食べていて、母はその僕を見ながら「おいしい?」と訊ねている記憶ばかりである。
おとなになってからも母を食べに連れ出し、「食べたいものは?」と訊ねても、「別に」と言って首を横に振った。
総じて母は小食だった。
理由は太ることを恐れたからである。
しかし、だからといって外食を嫌う理由にはならないはずで、外食を嫌う理由がいま一つわからなかった。 ただ一度だけ、料理店の不潔さを口にしたことがある。
引き揚げてからしばらく、母は職業を転々とした。
そのなかに料理店の厨房での仕事があったらしく、米櫃(こめびつ)のなかに鼠やその糞(ふん)が混じっていたことや、ゴキブリなどがうろうろしていたことなど、厨房の汚さを話していたのを覚えている。 しかし一度だけ、母から食べようと誘われたことがある。
小学三、四年のころだったと思う。
当時、近くの風呂屋が休みのとき、サンモール商店街のなかほどを右に入ったところにあった風呂屋に行っていた。
この風呂屋の前に、支那そばの屋台があった。
風呂屋から出ると屋台のそば屋で、母は食べて帰ろうと僕を誘った。
食べたのは海苔と支那竹(しなちく)、鳴門(なると)に青物が入った醤油味のごく簡素なもので、僕はいまでもこのラーメンが好きである。
寒い冬の夜だったから、風呂で温まった母の体が温かいラーメンを欲したのだろうか、親子並んで屋台のラーメンを食べた。
…後略…
『僕の食物語 1945~1997』フレーベル館より
(『ふうふうラーメン おいしい文藝』河出文庫 2025年)今朝の父の一枚です(^^)/
青空が広がっていました。
これまでの台風ははるか南の海上で発生していたのに、
これからは、日本近海で発生・発達する台風が増える可能性があるそうです。
「【Q&A】なぜ日本付近で台風発生が相次ぐのか」(NHK 9月4日)
「日本列島はなぜ災害が多いのか」つづき
陸地としては小さくても、排他的経済水域では世界で6番目に広い国土をもつ日本は、5つの島弧―海溝系から成り立っています。
北から千島弧―千島海溝、東北日本弧―日本海溝、伊豆・小笠原弧―伊豆・小笠原海溝、西南日本弧―南海トラフ、琉球弧―南西諸島海溝です。
そして、これらの島弧―海溝系に作用しているのが、4枚のプレート、太平洋プレート、北米プレート、フィリピン海プレート、そしてユーラシアプレートです。
北米プレートの下に東から太平洋プレートが、ユーラシアプレートの下に南からフィリピン海プレートが沈み込んでいます。
このような配列がいまから約2億年前以降、ずっと続いているのです。
こうしたプレートのせめぎあいが地震の頻発を招いていることは、よく知られています。
一方、南北に長く延びる日本列島は、亜熱帯から亜寒帯までの広い気候帯を含んでいるため、上空の気団は北にはオホーツク海気団、シベリア気団があり、南には揚子江気団、小笠原気団があります。
また、日本列島の周辺海域には、顕著な暖流である黒潮(日本海流)と対馬海流、そして寒流として親潮(千島海流)とリマン海流があります。
…つづく…
(『天変地異の地球学』藤岡換太郎 ブルーバックス 2022年)