天気予報を見ていると八月並みの暑さだとか
ショウリョウバッタを撮そうとしたらピョンと跳んでいった先にオンブバッタ
大きいのが突然やってきて迷惑そうだった(^。^)
「東海から九州にかけて各地で猛暑日 局地的に激しい雨も 警戒を」(NHK)
σ(^^;)は「古稀」を過ぎているので敬っていただく側なのですが
為政第二
20
(訓読)
子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑(まど)わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)う。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。
(訳)
子曰く、私は十五歳で学問の道に入る決心をし、三十歳で自信を得、四十歳でこわいものがなくなり、五十歳で人間の力の限界を知った。
六十歳になると何を聞いても本気で腹をたてることがなくなり、七十歳になると何をやっても努めずして度を過ごすことがなくなった。
(『現代語訳 論語』宮崎市定 岩波現代文庫 2000年) 孔子自身が晩年にその一生を回顧して述べた簡単な自叙伝ともいうべきこの一章は、あまりにも有名である。
しかし従来の解釈は孔子を教祖として尊崇する立場からの解釈であって、果たしてそれが歴史的な真実であったかどうか、私には疑わしく思える。
すなわち従来は孔子の心境が、その絶えざる修養によって、年と共に成熟し、完成して行ったと見るのである。
ところが実際の人生にはリズムがあって、直線的に無限にのびるものではない。
当時七十歳といえば、稀に見る長寿であって、これを平均寿命ののびた現在にあてはめれば、恐らく九十歳、百歳にも相当するであろう。
言いかえればこれは円満に人生が完結したことを意味する。
そのような場合には、人生は多く抛物線(ほうぶつせん)を描くものである。
稀に年齢の衰えを知らぬ芸術家や学者があるように言われるが私は大ていそれを信じない。
多くは阿諛(あゆ)の言であるからだ。 孔子の一生を表わす抛物線の頂点は五十歳の天命を知る時であろう。
この天命であるが、孔子における天はまだ正義を執行する神にはなっていない。
それは全く未知の、しかも恐るべき力をもった存在であった。
どんなに人事を尽くしても何か不可知の理由で思う通りに事が運ばぬことがある。
それが天命、天の作用であった。
さればと言って努力をやめるわけには行かぬ。
成敗(せいはい)を度外視しての奮闘が、孔子の最後に到達した覚悟であって、実際にこれ以上の人生観は考えられないのではあるまいか。 耳順、不踰矩は、私の考えでは孔子が体力、気力の衰えを自覚した嘆声と思われる。
何よりも孔子自身が晩年にその衰えを嘆じて、(152)我また夢に周公を見ず、と言っているのではないか。
腹を立てぬことは決して美徳ではないはずだ。
もちろん、だからと言って、何でも腹を立てさえすればいいと言うのではない。
腹のたてかたにも色々あるからだ。
度を過ごさないのも同様、意志の力で自制する点にこそ美徳がある。
自然に度をすごさないならば、それは血の通わぬ機械のようなものだ。
これは本当でない、と自覚したところに、苦労人の孔子の値打ちがある、と見たい。
…後略…
(『現代語訳 論語』宮崎市定 岩波現代文庫 2000年)レッスン7 述而
152 子曰く、甚(はなはだ)しいかな、吾が衰(おとろ)うるや。久しいかな、吾れ復(ま)た夢に周公(しゅうこう)を見ず。
これまたセンセイの呟きの一つなのだが、これを聞いたとき、弟子一同、心配したものである。
「どうも最近、気力が衰えた気がします。年齢は争えませんね。最近、夢の中に、周公が出てこなくなったんですよ。なんだか、とても寂しいです」
(「一億三千万人のための『論語』教室」 高橋源一郎 河出新書 2019年)梅原猛さんの若い頃は「殺し屋」と呼ばれていたそうです。
第1章 なぜいま、人類哲学か
禅でいいのか―西田幾多郎と鈴木大拙
…前略…
私は若い頃、鈴木大拙を読み、鈴木批判をしました。
その鈴木批判によって、私は一躍、有名になりました。
私は当時、「殺し屋」と呼ばれ、思想家たちを片っぱしから批判しました。
鈴木だけでなく、和辻哲郎、柳宗悦、丸山眞男と当時の名だたる思想家・学者を片っぱしから批判しました。
特に海外で高名であった鈴木を批判したことで、ドイツ人が驚き、鈴木を批判する若い学者がいるということでドイツの新聞に初めて私の名前が出た、ということがありました。
国際的に私の名前が知られたのは、それが最初です。
…後略…
(『人類哲学序説』梅原猛 岩波新書 2013年) 「伊藤若冲の世界」つづき
「芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」。
芍薬は、牡丹に次いで花の王者と言われています。
芍薬は、赤いものもあるし、白いのもあるし、ちょっと茶色いようなものもあるのですが、その芍薬の花を目がけて蝶が飛んで来ている。
そして、その蝶の種類は実に多様である。
たくさんの虫が、花の蜜を吸うためにやって来ている。
花も蝶も、生きいきとしている。
ここで若冲は生命の不思議さを深く感じているように思います。
(『人類哲学序説』梅原猛 岩波新書 2013年) 「牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」。
こちらは、百花の王牡丹です。
いろいろな色の牡丹が描かれています。
そして、そこに蜂がきており、その蜂を狙っている小鳥を、生きいきと描いている。
本当に絢爛たる牡丹が描かれ、牡丹だけでなく、そこに群れている蜂や鳥を生きいきと描く。
これが若冲の世界です。
若冲の描く植物や動物はいつも生の喜びの歌を歌っていると言えるのではないでしょうか。 次に「蓮池遊漁図(れんちゆうぎょず)」を見てください。
蓮の咲いている池に魚が泳いでいる。
蓮の花は、仏教においてはもっとも尊ばれる花です。
法華経というのは、題名は妙法蓮華経ですが、法華すなわち法の花というのが蓮の花です。
もともと古代エジプトで太陽を呑む花として崇拝された蓮の花の崇拝が東方へと伝わり、蓮の花の信仰になったのではないか、と言われます。
蓮は、カスピ海より東でないと咲かないらしいのですが、ヒンズー教においても、蓮の花は聖なる花とされています。
仏教では、蓮は泥の中から出て、きれいに花を咲かせることから、煩悩のなかから出て見事に悟りの花を開くという、大乗仏教の教説の「煩悩即菩提」の説の象徴として使われます。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という格言にもなっています。 これは、固定された一か所から見た蓮の図ではありません。
泥の中からダーッと伸びている蓮もあれば、浮かんでいる蓮もあります。
また、見事に咲いている赤い蓮、白い蓮、そして蕾もあります。
盛りの蓮もあれば、しぼみかけた蓮もあり、いっぱいの虫に食われて枯れている蓮もある。
そして、よく見ると、盛りの花にもどこかにしのびよる滅びの影が感じられます。 この絵は蓮の花を一番美しい盛りに描く絵とは、まったく違います。
ただの生物画ではけっしてなく、蓮が蕾から美しい花を咲かせ、やがて枯れてしまって腐る、という生成消滅の理を表現しています。
まさに、仏教の無常観を、この一幅の絵で表現しているのだと思わざるを得ません。 また、この「動植綵絵」にはたくさんの動物たちを描いたものもあるのです。
次は「池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)」です。
水の近くに瓢箪(ひょうたん)があって、その瓢箪をさんざん虫が食い荒らしている絵です。
左下では毛虫が這っていますが、すべての瓢箪が虫に食べられているところです。
しかも、よく見ると左上のほうに蜘蛛の巣が張っています。
そこに蝶が引っかかっている。
蝶だけでなく、蜻蛉(とんぼ)や蜂なども蜘蛛の巣に引っかかっている。
そしてまた、蛙がいて、蛇がいる。
蟻も描かれていますが、その蟻は蚯蚓(みみず)を食べている。 そういう弱肉強食の世界が、この大変美しい動植物の絵のなかで表現されているのです。
若冲は美しい絵を描くけれども、その絵のなかに流転のなかの動植物、あるいは弱肉強食の動植物を描いている。
その点は、やはり賢治と同様ですが、生成消滅の理のなかにある動植物には明らかに「滅び」、つまり死があるのです。
その死を若冲は描いているのです。
また動植物の世界には、食い合い、殺し合いの世界があります。
このような食い合い殺し合いの世界を若冲は大変華麗な絵画に仕上げている。
つまり、そういう世界であるにもかかわらず、この世界は素晴らしいのだと、若冲は言おうとしているように思うのです。 天台本覚思想である「草木国土悉皆成仏」という思想は、ありのままの現実を肯定し受け容れると、という面を持っています。
流転の世界があり、弱肉強食の世界がありながら、そのような世界は、素晴らしい世界であり、それをありのまま受け容れようではないかという思想があります。
そうすると、若冲の絵の意味するところと「草木国土悉皆成仏」という思想の意味するところとは、同じものではないかということになります。
天台本覚思想である「草木国土悉皆成仏」という思想は、ありのままの現実を肯定し受け容れると、という面を持っています。
流転の世界があり、弱肉強食の世界がありながら、そのような世界は、素晴らしい世界であり、それをありのまま受け容れようではないかという思想があります。
そうすると、若冲の絵の意味するところと「草木国土悉皆成仏」という思想の意味するところとは、同じものではないかということになります。
このような世界は、時間的にはどういう世界観なのか、という問題があります。
先ほどの絵の説明で明らかなように、この世界は流転の世界だと若冲は語っている。
森の世界というものもまた、流転の世界なのではないでしょうか。
(『人類哲学序説』梅原猛 岩波新書 2013年)何気にテレビを見ていてホーッと思ったのが
Eテレ ウェルカム!よきまるハウス
「レミとよきまるクッキング▽うた♪毎日がブランニューデイ」
で、なんと忌野清志郎さんの曲が紹介されていました。
「毎日がブランニューデイ」が斎藤アリーナさんなど番組のメンバーで演奏されました♪
長年連れ添った大切なひとに心から感謝を伝える歌詞になっていることが紹介されていて
亀ちゃんのアリーナの「ヒットソングクイズ」
「毎日がブランニューデイ」♪
――略――
今日も朝が来て 君の笑顔を見て
100%以上の 幸福(しあわせ)を感じる
100%以上の 幸福を感じる
[ ? %]完全に幸福
「何%」だと思いますか(^_-)
お知らせ?)
明日から、私、父、妹の通院が続きますのでしばらく更新をお休みします。今朝の父の一枚です(^^)/
コムクドリ♂に会っていました。
「世界最大の川は空にある?」つづき
さらに日本付近では、大気の河が台風の北上に伴って、その東側に形成されることが分かってきました。
たとえば2019年の台風19号は、熱帯域の水蒸気溜まりの中で発生し、北上するとともにその東側に大気の河を形成しました。
その結果、台風の東側に多量の水蒸気が流れ込み、関東から東北地方の降水が長期化したのです。
また、2015年9月に関東地方の上空で発生し、鬼怒川(きぬがわ)の堤防決壊などをもたらした線状降水帯は、関東地方に流れ込む大気の河の中に形成されました。
この大気の河は関東地方南西の太平洋上を南西に延び、南シナ海にまで続いていました。
幅は300~400kmほどで、そこを流れる水の量は1秒あたり約40万t、つまりアマゾン川2本分、信濃川800本分ぐらいの水が流れていました。
もちろんすべてが雨となって落ちてくるわけではありませんが、仮に水蒸気流の1割が雨になったとしても、信濃川80本分の水が突如として空から落ちてくるのですから、たいへんな雨量であることが想像できます。
…つづく…
(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)