秋になると「秋珊瑚」とい別名があるように
赤い実をイッパイつけてくれるサンシュユ
今年は、赤くなる前に茶色になりそうです。
「“異常な高温” 農作物に異変 秋の味覚や南国のフルーツも」(NHK 9月11日)
「ミツバチの数が減少 巣の高温が女王バチの産卵に影響」(NHK 9月10日)クラシックTV「点と線 つながるヒストリー」
何気に見ていてビックリしました。
1889年(明治22)音楽留学生第1号として、19歳の幸田延(こうだのぶ<(1870―1946>)が選ばれ
およそ6年、ボストンとウィーンでバイオリン、ピアノ、作曲法などを学んでいました。
「時代を切り開き、格闘した先駆者でした。」
教え子の瀧廉太郎や薫陶をうけた山田耕筰は教科書にでているのに
幸田延のことは、教科書に載っていなかったと思う…
「幸田延(こうだのぶ)」(国立国会図書館)
「兄弟姉妹で活躍した人たち」(国立国会図書館)6月24日に三室戸寺を訪ねたとき「新羅大明神」が鎮座していました。
第1章 八幡
―日本神話に登場しない外来の荒ぶる神
新羅の神を祀った新羅明神が、三井寺の護法神になっていた
この記述を裏づける別の資料が存在している。
それが、『豊前国(ぶぜんのくに)風土記』の逸文(いつぶん<かつては存在したが現在は存在していない文で引用などで伝わる>)である。
奈良時代の初期に各地の歴史や文物について記録した地誌が作られる。
それが「風土記」と呼ばれるものだが、現在の福岡県東部と大分県北部をあわせた豊前の国については、風土記自体は残っていないものの、その一部がほかの文書に引用されている。
それが、『豊前国風土記』逸文である。
(『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』島田裕巳 幻冬舎新書 2013年) そのなかに、「昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りてこおの川原に住みき、すなわち名を鹿春の神といひき」という記述が出てくる。
現在の福岡県田川郡香春町(かわらまち)には香春岳があり、その麓には香春神社が祀られている。
ここは宇佐からかなり西にあたるが、逵日出典は、新羅の国の神を祀っていた渡来人の集団が東へと移っていき、宇佐の地域で八幡神を祀るようになったのではないかと推測している。 一時は、弥生時代に大量の渡来人が日本に移り住むようになり、それで稲作がもたらされたという説が流布していた。
しかし最近では、稲作は縄文時代からすでに行われていたことが明らかになり、渡来人が縄文人を圧倒して弥生時代が誕生したという説は信憑性を失っている。
しかし、九州北部は朝鮮半島に近く、かなりの数の渡来人が定住するようになり、その文化的な影響を被ったことは不定できない。
日本にやってきた渡来人が、自分たちの信仰する神を捨て去ることなく、日本でもそれを祀るようになったことは十分に考えられる。 となると、八幡神はもともとは新羅の神であった可能性が高くなってくる。
八幡神が、記紀神話に登場しないことも、その点から説明できる。
日本に固有の神ではないがゆえに、日本の神話にはまったく出てこないのである。 これは、後の時代のことになるが、やはり新羅の神を祀った例がある。
それが新羅明神(しんらみょうじん)と呼ばれる神で、三井寺(みいでら)とも呼ばれる園城寺(おんじょうじ)を守護する護法神(ごほうしん)となっている。
園城寺は、寺門とも呼ばれ、山門である比叡山延暦寺と対立した天台宗寺門派の総本山である。
園城寺は、天台宗の第4代座主(ざす<宗派の最高職>)となる智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん)が再興したものだが、新羅明神は、円珍が唐に留学して帰国する際に、船のなかにあらわれ、さらに帰国後に円珍が園城寺に入るのを助けたとされる。 新羅明神は、現在、園城寺の境内から北に500メートルほど行った新羅善神堂(しんらぜんしんどう)に祀られている。
その像は、三つの山を模した三山冠(さんざんかん)をかぶり、皺が深く長い顎髭(あごひげ)を蓄えている上に、異様に目が垂れている。
一目で日本の神ではないと感じさせる異相の神、異形の神である。 円珍よりも前に唐に渡ったのが天台宗の天台宗の第3代座主となった慈覚大師(じかくたいし)・円仁(えんにん)である。
その円仁が唐における天台宗の総本山である天台山で祈願を行っていた際に赤山明神(せきざんみょうじん<延命・富貴(ふうき)を司る中国の神>)があらわれたという伝承がある。
その赤山明神を祀ったところが、京都の修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の北西にある赤山禅院である。 この赤山明神は、もともとは道教の神、泰山府君(たいざんふくん)と同一の神であるとされる。
ただし、この神が円仁の前にあらわれたという話は、新羅明神に対抗するために、山門派で唱えられるようになったと考えられる。
ほかに、比叡山の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)では、その背後の入口である後戸(うしろど)の神として摩多羅神(またらじん)が祀られている。
これも円仁が帰国する船のなかにあらわれたとされるが、この話は新羅明神の場合と酷似していて、後から作られたものと考えられる。 そのいきさつはともかく、外来の神がつぎつぎと祀られていったということは、そうした神の力に頼ろうとする傾向が平安時代においても続いていたことを意味する。
むしろ、外来の神であるからこそ、その霊力に期待が集まったのかもしれない。
それは、八幡神の場合にも共通していたのではないだろうか。
…後略…
(『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』島田裕巳 幻冬舎新書 2013年)
「新羅善神堂 国宝」(三井寺文化遺産ミュージアム)
SNSで在日の方に国に帰れとかひどい暴言を吐く方を見かけますが
初詣に八幡さんにお参りしてもご利益はないと思いますよ(^_-)今朝の父の一枚です(^^)/
ほぼ毎日、撒水作業が行われていましたが、
今朝は、撒水作業をしなくても大丈夫のようです。
「世界最大の川は空にある?」つづき
水蒸気は目に見えないので、大気の河は特殊な観測装置を使って観る必要があります。
大きなもので幅が500km以上、長さが数千kmの川です。
そこを流れる水の量は、アマゾン川2~3本分、信濃川でいうと1000本分に達することもあります。
つまり地球上で最も大きな川は、大気中に存在するのです。
地表面を流れる川は、その上流にある山地やダムが源流となっています。
同様に大気の河は、熱帯夜亜熱帯の大量の水蒸気が溜まっている地域を源流としていて、そこから水蒸気が中緯度帯に流れてきています。
ただし、大気の状態は変動が大きいので、地上の川と異なり、大気の河は日単位で形成され消滅していきます。
このため実態を捉えることや予測することは容易ではありません。
…つづく…
(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)