2025年7月20日日曜日

午前中とは思えない…

午前中とは思えないほどの高温
子どもの頃、夏休みの宿題は午前中にと言われていた
その頃は、涼しかったからなんだけど
(と、分っていたけど8月の最後の日まで……)

猛暑は“災害” 命を守る「熱中症」対策〟(NHK 7月3日)
朝ドラ「あんぱん」第16週「面白がって生きえ」 (77)
メイコがのぶ
蘭子姉ちゃん郵便局クビになるがやって
と報告していました(東京出張でヘトヘトに疲れ切っていたのぶは…)。
敗戦後、男たちが戻ってくると銃後を支えた女性たちは「お払い箱」になる。
その場面を見ながら思い出したのは

広島の路面電車 8月6日を乗り越えて」(NHKアーカイブス 2011年)
藤井照子さんは、路面電車を運転していたときに被爆しました。
20年前に出版された本です(藤井<旧姓市川>照子さんの話も書かれています)。 

 第八章 復旧電車が走る
 復旧一番電車に乗務


 そうして、被爆からわずか三日後の八月九日に、己斐(こい)-西天満町間のチンチン電車が復旧したのだ。
距離にして1・数キロ、電停の数にしてたった四つの間を単線で折り返し運転するだけだったが、驚異的な立ち直りだった。
そして、チンチン電車が走る姿は、広島市民に大きなはげましとなった。
(『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』堀川惠子、小笠原信之 共著 日本評論社 2005年)
 その一番電車に車掌として乗務したのが、赤松春野さん(二期生)だった。
 九日の朝、赤松さんは今日も母親を捜しにいこうと思っていた。
すると、先生が「今日から市内電車が運行するので、だれか乗務してください」と呼びかけた。
避難先の実践女学校には、専攻科の先輩が多かった。
赤松さんと親しい先生だったので、二期生の赤松さんのほうが声をかけやすかったのか、結局、赤松さんが行くことになった。
後になってみれば、栄えある役割を担ったことになるのだが、そのときはけっして張り切って乗務したわけではなかった。
 赤松さんは、己斐の宮島線の詰め所に行った。
顔を知らない会社の男性から、かばんを渡された。
首にかけるベルトがついた男性乗務員用のものだった。
かばんの中には何も入っていなかった。
キップもつり銭もないのだ。
男性がこう付け加えた。
 「お金のない人からは電車賃もらわんでも、ええで」
 車両は、赤松さんの記憶では「400形」だったという。
もう現存しない形で、広島電鉄の資料によれば、「昭和13年から15年に、100形Bのうち30両を半鋼製車両に改造したもの」という。
運転手も顔を知らない男性だった。
宮島線の人だったのかもしれない。
 電車は九時ごろから走りだした。
 「おお、電車が動くんか」
 こんな驚きとともに、人びとが喜んで乗ってきた。
短い区間だったが、己斐橋、福島橋という二つの鉄橋があった。
被害はほとんどなかったが、歩いて渡るのは危険な感じがした。
「鉄橋がこわいけんの-」とありがたがる人もいた。
 車内は満員とまでは行かないものの、けっこうな数の人が乗った。
モンペ姿の女性やゲートルを巻いた男性がいる。
包帯姿の人も多かった。
やけどや斑点が見える人もいた。
救急袋や防空頭巾、風呂敷などを持つ人は少なく、大半は手ぶらだ。
身内を捜しに行く人が多そうである。
その人たちは、心配そうな表情で口を閉ざしている。
 とくに決められた運行時間があるわけではない。
客がおおよそ座ったなと思ったら発車し、終点に着いても休むことなく、そのままピストン輸送をくりかえした。
レールは枕木が多少燃えていたが、安全に走れた。
鉄橋も無事に通れた。
だが、線路の脇には死体が転がり、顔もお腹もパンパンに腫れ上がっていた。
煙と死臭がくすぶっていた。
そして、どこにも、地獄絵が広がっていた。
 乗客らは降り際に、「ありがとうございました」と声をかけてくれた。
電車賃の払えない人は「すみません」と申し訳なさそうに頭を下げた。
赤松さんは、昼すぎに乗務から引き揚げた。
何も食べるものがなく、お腹がすいていたからという。
そしてこれが、赤松さんの最後の乗務となった。
 第九章 女学生たちの六〇年
 ふたたび電車のしごとに 


 被爆から二ヵ月後の1945年(昭和20年)10月、小西幸子さんはふたたび、広電本社を訪ねた。
友だちといっしょだった。
家政女学校入学後一、二ヵ月でホームシックにかかり、いっしょに帰郷した、あの相方である。
被爆で重傷を負った小西さんは学校の解散前に帰宅して療養に専念したが、学校が解散されることは知っていた。
それでも、傷が癒えてくるにつれ、またチンチン電車で働きたい気持ちがおこり、友だちとともに本社にやってきたのだった。
だが、返事はつれなかった。
 「市内路線はもう、女の人は使わないよ」
 もはや女学生は要らなかったのだ。
元従業員の復員男性らが優先的に採用され、戦時中に女学生たちが埋めていた穴を、この人たちがすぐにふさいでいた。
ちなみに、広電軌道課がまとめた「市内電車復興状況」(表2:省略)によると、戦災当時(1945年9月統計)125人だった従業員は、3年後の1948年9月には470人へと約3.8倍に増えている。
以下、乗客数は10.5倍、運転車両数は9倍、運転キロ数は14.4倍と、いずれもわずか3年間に急増している。

 …後略…
 エピローグ 

 …前略…

 闇に埋れかかった「チンチン電車と女学生」の歴史を掘りおこし、当事者の体験を最大限リアルに再現し、記録すること。
そして、その体験を次の世代にも伝えつづけること――。
本書で私たちが意図したことは、この一事に尽きる。
 女学生たちは、男手の不足を埋めるために農山漁村から集められ、戦時中の広島の町で懸命にチンチン電車を走らせた。
だが、被爆、敗戦を経て男たちが戻ってくると、家政女学校自体が廃校にされ、彼女たちも「お払い箱」とされた。
戦争という究極の状況のなかで、まさに国策に翻弄されたのが彼女たちだった。
弱い者、貧しい者にしわ寄せが集中するのは、いつの世にも共通する原理かもしれないが、戦時にはそれがいっそう露骨なかたちで現われるのだろう。
その意味からも、女学生たちの体験は長く記録されつづけなてくはならないと思う。
 だが、この数年のうちに、元女学生たちのなかには、病に倒れたり、一人暮らしが困難になって親族の家や老人ホームに身を寄せる人も出てきた。
「チンチン電車と女学生」秘話の当事者、歴史の生き証人である彼女たちの話を聞くことは、年々むずかしくなっている。
もうほとんど時間が残されていないのかもしれない。
 私たちが彼女たちから託された思いを、こんなメッセージとして伝えたい。

  もうすぐ「六〇年目の夏」がやってくる。
  世界は今なお、暴力と悲しみに覆われている。
  でも、どうか忘れないでいてほしい。
  あの日、少女たちが流した涙を。
  二度と同じ悲しみをくりかえさないために。

(『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』堀川惠子、小笠原信之 共著 日本評論社 2005年)
2003年8月31日に放送された番組が
シリーズ 戦争の記憶(3)チンチン電車と女学生~ 2003・夏・ヒロシマ ~」(NNNドキュメント)

女学生たちが通っていた学校

広島電鉄の設立と戦時下の状況(昭和17年~昭和20年)」(広島電鉄)

広島電鉄家政女学校」(「広島用語集」中國新聞)

戦後80年、戦争の記憶が薄れていく現代

「テニアン 玉砕と原爆の島」(NNNドキュメント 7月27日放送予定)

世界初の核実験から80年 かつての実験場前で核兵器廃絶を訴え」(NHK 7月17日)

被爆80年 広島 平和公園 原爆供養塔の納骨室が10年ぶり公開」(NHK 7月16日)
今朝の朝日新聞「天声人語」

 …前略…

▼手にした一票で意思を表せる社会は、当たり前ではない。
民主主義の長い歴史のうえに、いまの形があることを忘れたくはない。
日本で、女性が参政権を得たのは戦後になってからだ。
男性を対象にした普通選挙制度が生れたのは、ちょうど100年前だった。
▼そのころ小紙が公募した標語の入選作に、こんな一句がある。
「国政は舟の如(ごと)く一票は櫂(かい)の如し」。
まっすぐに進むのか。
航路を変えるのか。
一票の積み重ねが決めることになる。
  2025・7・20

普通選挙」(中学)