2026年4月3日金曜日

嵐電に乗って嵐山へ

お花見に最適な日和だったので洗濯をした後に出かけました。
町歩きの時、事前の検査(血液・尿)の後に出かけると出発が10時頃になります。
今日は、8時過ぎに出かけることができたので四条大宮から嵐電(らんでん)に乗って花見に出かけました。
嵐電に乗ったのは10数年ぶりです(^_^)v
のんびりと走る嵐電の車窓から見る風景に
学生の頃は、まだ走っていた京都市電を思い出します。
渋滞緩和のために昭和53年9月末日で全線廃止になった(市電保存館 on WWW)。
嵐山には10時過ぎに着きました。
覚悟はしていたけど、やはり大勢の観光客で大混雑している。
数日の雨で水量が多いと思いました。
 渡月橋(とげつきょう) 

 承和3年(836)に弘法大師の弟子の僧 道昌(どうしょう)によって大堰川(おおいがわ)の修築が行われ、その時に架設されたのに始まると言われ、千年以上の歴史を持つ由緒ある橋である。
橋の南に法輪寺(ほうりんじ)があったため、当時は「法輪寺橋(ほうりんじばし)」と称され、渡月橋という名は、後に亀山上皇が東から西へ月が渡る様子を見て名付けたと言われている。
 往時の橋は、現在の場所より100mほど上流にあり、慶長11年(1606)に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津川の開削工事を行った際に、現在の場所に架け替えた。
 現在の橋は、鉄筋コンクリートを主体とする近代的な構造であるが、京都を代表する景勝地の風景と調和させるため、木橋であった旧橋の意匠を継承している。
 平成17年(2005)には、桂川の水を利用した嵐山保勝会水力発電所が整備され、それを電源とした足下灯が、夕暮れ時から渡月橋を照らしている。
このような自然エネルギーを利用した取組は、地球温暖化防止にも寄与している。
    京都市
対岸は大勢の観光客で大渋滞ですが……
こちら側は……
時々、出会う程度でした(10時25分頃)。
川下りの舟がのんびりとゆきます。
それまで急流の中を進んでいたのでホッとしているかな?
(「保津川下りとは」京都・亀岡保津川下り)
(10時30分頃)
観光客が少ないこの場所を知ったのは、

 鮎躍る夜に  

 京都の観光名所でありながら、京都市民が滅多に足を向けないポイントは、いくつか、ある。
たとえば嵐山など典型的な一例だ。
名所旧跡の密集地帯であるにもかかわらず、市内在住の一般ピープルが、この地を訪れることは、よほどのことがない限りない。
ま、他府県からやってきては大切なおぜぜをばらまいてくれる観光客にさえ、ほとんど知られることのない我が大悲閣にとっては、どうでもよいことではあるが。
 もとい。どうでもよいことではない。
 少なくとも、今日の僕にとっては。

 …後略…

(『支那そば館の謎 裏(マイナー)京都ミステリー』北森鴻 光文社 2003年)
 ぶぶ漬け伝説の謎
 
 (一) 

 花の山 二町のぼれば 大悲閣  松尾芭蕉

 問題は「二町」なのである。
 現代の数値に換算して約二百十八メートル。
この距離さえ克服すれば、そこは山桜ばかりか、京都の町を一望する一大パノラマ。
別天地。
この世の極楽、が約束されている。
にもかかわらず我が大悲閣が、桜のシーズンを迎えたというのに、煩悩さえ忘れそうなほど閑散としているのは、すべてこの「二町」という距離に起因している。
僕はそう確信する。
嵐山の渡月橋から山道を桂川(かつらがわ)に沿って遡(さかのぼ)ること二十分。
ここまでならば拝観客も足を伸ばすことを厭(いと)わないないのではないか。
そこからさらに二百メートルあまりの石段を登らねば、大悲閣にたどり着けぬことが問題なのだ。
山道までは散策。
なれどその先は修行苦行の道に他ならない。
いったいどれほどの拝観客が、石段を目の前にして大悲閣への参拝を諦めたことだろうか。

 …後略…

(『ぶぶ漬け伝説の謎 裏(マイナー)京都ミステリー』北森鴻 光文社 2006年)

両書とも現在、品切れになっています。
復刊してほしいなぁ!
杖も用意して下さっていますρ(^^)q
σ(^^;)は、常に杖を持参…(10時35分頃)
先に見えているのが
読めなかったのですがネットで検索すると

大須賀乙字の句碑
「嵐気動く奥は蟬声(せんせい)晴れてあり」

 大須賀乙字(おおすがおつじ) 

明治14・7・29―大正9・1・20(1881―1920)俳人。本名績(いさお)
父は漢詩人大須賀筠軒(いんけん)
福島県に生まれた。
二高を経て、東大国文科卒業。
中学、高女で教鞭(べん)をとったのち東京音楽学校教授となる。
仙台一中在学中句作を始め、二高にはいってより熱を加え、奥羽百文会に加入、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)選「日本俳句」に投句した。
上京後喜谷六花(りっか)、小沢碧童(へきどう)とともに三羽烏(がらす)と称せられ、広江八重桜、菅原師竹、安斎桜磈子(おうかいし)らと碧門黄金時代に活躍した。
明治41年『俳句界の新傾向』を「アカネ」に発表、新傾向俳句の口火を切ったが、新傾向が乱調を呈するや、激しい論難攻撃をこれに加えた。
(『新潮日本文学小辞典』伊藤整他編著 新潮社 昭和43年)
かくて無季・自由律に走る荻原井泉水(おぎわらいせんすい)、碧梧桐と袂別(べいべつ)し「石楠(しゃくなげ)」「懸葵(かけあおい)」「常磐木(ときわぎ)」などに拠(よ)り、伝統尊重、古典復古の論陣を張った。
作句俳論ともに自然詩人的傾向が強く、人間写象を拒否している点は近代精神に乏しいともいえるが、季感象徴、二句一章、写意論などの卓論が多く、俳論家として随一である。
名和三幹竹、吉田冬葉、太田柿葉、逸見竹石、内藤吐天、大森桐明は乙字門である。
遺著『乙字俳論集』(大10刊)、『乙字句集』(大10刊)、『乙字書簡集』(大11刊)は三部作をなしている。
「藻(も)を染めし夕日の沼や渡る蛇(へび)」。
          (村山古郷)
(『新潮日本文学小辞典』伊藤整他編著 新潮社 昭和43年)
(10時45分頃)

 大悲閣(千光寺) 

 正しくは、嵐山大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)と号する禅寺である。
慶長(けいちょう)19年(1614)、角倉了以(すみくらりょうい)によって、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立された。
了以は、我が国の民間貿易の創始者として、南方諸国(主にベトナム)と交易し、海外文化の輸入に功績を挙げた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開削し、舟運の便益に貢献した。
晩年は、この地に隠棲(いんせい)し、開削工事に関係した人々の菩提(ぼだい)を弔うため、この寺を建てたといわれている。
 本堂には、了以の念持仏であった本尊の「千手観音像」及び遺言によって作られた法衣姿の木像了以像が安置されている。
また、境内には、了以の子、儒学者でもあった素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝えられる大きな石がある。
 芭蕉の句「花の山 二町のぼれば 大悲閣」でも知られ、京都市街が一望できる客殿からの眺めは絶景である。
       京都市
 嵯峨散歩
   千鳥ヶ淵
 

 …前略…

 花の山二町(にちやう)のぼれば大悲閣

 なにやら挨拶じみた句で、芭蕉の作品とするには気の毒のような出来である。
芭蕉もこの句を『嵯峨日記』には入れていないし、重んじもしなかったようで、私の手もとの二種類の『芭蕉句集』にもこの句がない。
おそらく地元で句会をひらいたとき、ひとびとの手帳にこの句が記録されたのであろう。
「俳諧というのは、まずあいさつである。その座にきて、前栽でも何でも目についためずらしいものことがあれば、当意即妙の句をつくるのである」
 というのは、芭蕉以前の俳諧の心得とされていた。
芭蕉もまたそうであったらしい。
『嵯峨誌』によると、この句碑は明治11年に建てられた。 
 挨拶句とはいえ、ことばがなだらかで、景観の大きさが表現されている。
しかも大悲閣への石段が二町(一町は約109メートル)であることも、よくわかる。
明治11年の碑文にも「且ツ、此ノ閣ニ登ル道標ト為(な)ス」とあって、りっぱに句が実用を果たしているのである。
俳句の効用のひとつといっていい。
(『街道をゆく26(新装版) 嵯峨散歩、仙台・石巻』司馬遼太郎 朝日文庫 2009年)
 「芭蕉も大悲閣まできていたんですね」
 と、編集部の藤谷広樹氏がいった。
言われてみて、いや登らなかったのかもしれませんよ、心中、つぶやいた。
芭蕉が、舟の上から桜の点在する山を見あげていると、案内のひとが、
「あの山に、大悲閣があります。石段で二町です」
 といったのを、当意即妙の挨拶句にしただけかもしれない。
落柿舎(らくししゃ)に帰れば「憂し」という文学的感情と遊んでいた芭蕉が、舟遊びしているときは座に花のあるふんいきをつくるべく努めていることが、この句によってうかがえる。

 …後略…

(『街道をゆく26(新装版) 嵯峨散歩、仙台・石巻』司馬遼太郎 朝日文庫 2009年)
朝日新聞 京都版 2022年4月6日(水)

 若き日の周恩来、感じたアジアの発展 
 国交正常化50年 千光寺詩碑


 中国の元首相・周恩来(1898~1976)が日本に留学した際京都・嵐山で読んだ詩の詩碑が、西京区の千光寺境内に建てられ、5日に除幕された。
 周は1972年の日中国交正常化当時の中国首相。
17~19年に日本に留学して、19年春に京都を訪れて詩を読んだ。
 その一つ「雨中嵐山」という詩の詩碑は79年、前年に結ばれた日中平和友好条約を記念して、嵐山の公園内に建てられた。
 今回は、もう一つの詩「雨後嵐山」の詩碑。
日中国交正常化50年を記念して建てられ、これで雨中と雨後二つの詩碑が桂川を挟むようにしてそろった。
 周を研究し、碑の建立に奔走した法政大学名誉教授の王敏(ワンミン)さん(67)は「日中の友好発展を願う象徴になれば」と話す。
 「雨後」碑が千光寺に建てられたのは、王さんの研究で、この寺から眺めた情景を詠んだ詩とみられると分かったからだ。
寺の訪問者名簿に周氏とみられる名前があることなどが根拠という。 
 詩の内容は「高いところに登って遠くを望むと、青い山が広がり、ぼんやりと暗い都市に十数の電光がさす」というもの。 
 王さんは「当時の最新技術である電灯があった京都に中国やアジアの発展の可能性を感じたこともうかがえる」と話す。
 碑建立に協力した大林道忠住職(65)は「寺には中国を始め多くの留学生が訪れる。よりいっそう日中友好に尽くしていきたい」と話した。


雨中嵐山 周恩来総理記念詩碑」(日本国際貿易促進協会京都総局)
 第五章 桂川――平安を語る「別業の地」と「水運」
 慶長期、舟運の始まり


 嵯峨の地で筏流しを見て育ち、筏だけでなく舟を通したいと思いから保津川(桂川)開削を行ったのが、豪商として知られる角倉了以(すみくらりょうい)である。
了以は美作(みまさか<岡山県北部>)で高瀬舟を見て舟運を思いついたとされ、1614年(慶長19年)に高瀬川の通船、その後、幕府の命により天竜川(てんりゅうがわ)や富士川(ふじがわ)の開削にも関わっている。
工事に必要な経費を通行料から回収しており、行政が行うべき建築や運営等を民間の資金と能力で行う、今でいうPFI(プライベイト・ファイナンス・イニシアティブ)の先駆けともいえよう。
(『京都の山と川 「山紫水明」が伝える千年の都』鈴木康久、肉戸裕行 中公新書 2022年)
 角倉了以と素庵の親子は、1605年に徳川幕府から桂川の開削許可を得て、翌年の3月から舟が通れるように川を広げるに着手し、8月に完成させている。
この工事を指揮した了以の木像(高さ73センチ)が、渡月橋の右岸上流(約1キロメートル)に位置する大悲閣千光寺に安置されている。
その姿は、眼光鋭く、手に石割り斧(おの)を持ち、法衣をまとい、片足を立て荒縄の上に座っており、了以の保津川開削へのただならぬ思いを感じることができる。
境内の新客殿の前には、了以を顕彰する石碑(高さ六尺七寸、幅三尺)も建立されている。
碑文(1630年)は「河道主事嵯峨吉田了以翁碑名」で始まり、河道主事としての了以の業績が刻まれている。
記述を要約すると、1604年に美作国の和計川(わけがわ<和気川>)で高瀬舟を見て、保津川での通船を思い描き、1606年に保津川開削を行った。
その工法については、大石を轆轤(ろくろ)でひく、水中の石は楼を構えて鉄棒(くろがねぼう)で砕く、水面に出ている石は烈火で焼き砕くとあり、当時の土木技術の一端を知ることができる。

(石碑に気がつかなかった (^_^;…)
 保津川の開削工事によって、木材だけでなく、米や塩、鉄、石材などの様々な物資を高瀬舟で都まで運ぶことができるようになった。
一番の積荷は米であり、年間1万4000石が運搬された。
これらの運賃は角倉家と船頭でほぼ二分され、舟の新造・修理は角倉家が行っていた。
 時代は明治に移り、鉄道や道路が整備されるなかで、日本各地の水運の歴史は幕を閉じることとなる。
京都も同様で高瀬川が1920年(大正9年)、琵琶湖疎水では1951年(昭和26年)をもって物資を運ぶ船を見かけることがなくなった。
しかし、桂川の高瀬舟は物流から観光へと役割を変え、現在では年間20万人以上が「保津川下り」を楽しんでいる。
 最初に保津川下りを楽しんだのは、二代将軍徳川秀忠(ひでただ)に開削の許可を願い出た角倉素庵であろう。
素庵の業績を記す木碑(1633年)(大悲閣千光寺藏)によると、1613年に素庵の師である儒学者の斂夫(れんぷ<藤原惺窩(ふじわらせいか)>)と保津川下りを楽しんでいる。
素庵は斂夫に景勝地を題してもらうことを請い、斂夫は叫猿峡(きょうえんきょう)や鳥船灘(ちょうせんだん)など嵯峨十境を定め、和歌を詠んでいる。
その魅力は、夏目漱石が1907年(明治40年)に記した『虞美人草(ぐびじんそう)』にも見ることができる。
文豪漱石は「先(さ)っきの岩の腹を突いて曲がったときなんか実に愉快だった。願わくは船頭の棹(さお)を借りて、俺が船を廻(まわ)したかった」、「君が廻せば、今頃は御互(おたが)いに成仏している時分だ」と登場人物の宗近(むねちか)君と甲野(こうの)さんにスリリングさを語らせ、「乱れ起る岩石を左右にめぐる流は、抱くが如(ごと)くそと割れて、半ば碧(みど)りを透明に含む光琳波(こうりんなみ)が、早蕨(さわらび)に似たる曲線を描いて巌角(いわかど)をゆるりと越す」と、渓谷を流れる水の美しさを描写している。
(観音堂<客殿>)

 もちろん、下船場所が日本有数の景勝地の嵐山であることも、大きな魅力といえる。
保津川下りはフランスの映画会社パテ・フレールが無声映画「保津川の急流」(1906年)を制作し、大正時代にはルーマニア皇太子をはじめ、英国皇太子も保津川下りを楽しむなど、世界からも注目される観光地であった。
 角倉了以の保津川開削400年目に際して、2006年(平成18年)に了以の業績を顕彰する様々な事業が行われた。
その最終目的は保津川を世界文化遺産に登録し、より多くの人に保津川を知ってもらうことである。
保津川を美しくするために始まったプラスチックゴミ削減の活動は、亀岡市によるレジ袋を禁止する全国初めての条例につながるなど、環境保全のトップリーダー
(『京都の山と川 「山紫水明」が伝える千年の都』鈴木康久、肉戸裕行 中公新書 2022年)
欧米からのご夫婦は、子どもを背負ってこられていた。
観音堂(客殿)では、20人くらいの外国の方が住職の法話を聞いておられました。
通訳(?)の方の声を聞いているとドイツ語かなと思ったのですが???
せっかくなので嵐山でお昼にしようと思ったのですが
大勢の観光客にたじろいでしまって嵐電に乗って四条大宮に戻り
阪急に乗り継ぎ、河原町で探すことにしました。
鴨さんの記事に

 嵐電は行く 西から東から(2011年10月3日)

京都市民の足であり、はたまた観光にいらっしゃった方の足でもある「嵐電」。
京福電鉄の名のとおり京都と福井に路線を持っていましたが
今や線路はえちぜん鉄道に譲って(京福バスは走っています)京都市内だけで頑張っています。
路面電車っぽい感じも好きですが、駅間が短いので速度もゆっくり。
人間に近い(?)走り方がいいですね。
そして嵐山方は帷子の辻、車折神社、鹿王院などふと降りてみたくなる駅が続きます。
そして最後は嵐山で「桜餅」!かなぁ。
さて桜餅と途中下車のお話はまた後ほど。
こだわりがあります。


 …◆…◆…◆…

 河原町へ戻ったときのことは、後日、更新します。

2 件のコメント:

  1. こんばんは~
    嵐電で嵐山まで。。。
    お天気がいいと電車に揺らるだけで、
    なんだかワクワクソワソワですね~(^O^)/

    >「花の山 二町のぼれば 大悲閣」
    Kazeさんも階段を登られて大悲閣千光寺で
    お花見を。。
    絶好のお花見日和りでしたね。
    さくらと列車のお写真、良い感じです。(#^.^#)
    お子さんを背負ってられる後ろ姿の
    お二人のお写真もいいですね。

    Kazeさん~
    とってもお元気です。(*^▽^*)

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    1. カイさんおはようございます(^^)/
      金曜日は、絶好のお花見日和でした!
      電車に乗って花を見ても青空を見ても
      >なんだかワクワクソワソワですね~(^O^)/
      でしたよ(^_^)v
      客殿から見下ろすとちょうどトロッコ列車が通過中でした
      町歩きには50mmレンズなのですが、
      スマホやコンデジの方がアップで写せたと思います(^_^;

      渡月橋周辺は、様々な国からの観光客で満開でしたが
      大悲閣千光寺は、参拝者や観光客がチラホラ咲きでした
      そんななかでも何組かの欧米の方を見かけました。
      日本人が少ないのにどうのような情報を得てこられているのかとおもいました。
      日本人よりも外国の方のほうが、日本のことをよく知っているのかもしれませんね(^_-)

      下り道で杖のあるところで私くらいの年齢の二人連れの女性に出会い
      「ここからですよね…」と息が上がったような様子で聞かれました。
      山道に慣れない方は、ついつい頑張ってペースが上がりがちなのですが
      ユックリと上がることが大切だと思います。
      西国や四国でのお遍路で経験されていると思いますが、
      意外と下り道の方が腰や膝に負担がかかります
      体重の約5倍の負荷が膝に加わるとも言われています。
      下り道は、ついついペースが上がりがちですが、ユックリ降りないと膝や腰を痛めますし、躓く危険性が大きくなります。
      特にわたしたちのような高齢者は、気持ちのブレーキをかけないといけませんね(^_-)

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