2026年3月1日日曜日

3月になりました

まだ風は冷たかったのですが
日ざしは暖かくて春だなと思いました。
アンズの木を見ると蕾が膨らんでいたので
気の早い子は咲いているかもと探したら(^_-)
 春の朝 

雀がなくな、
いい日和だな、
うつとり、うつとり
ねむいな。

上の瞼(まぶた)はあかうか、
下の瞼はまァだよ、
うつとり、うつとり
ねむいな。
(『美しい町 新装版 金子みすゞ全集・Ⅰ』 JULA出版 1984年)
サヘルローズさんの投稿(2月28日)

今は、簡単な言葉にできません。

国家への攻撃のニュースの向こうには、
そこで暮らしている人の生活があります。

意見は一つではなく、
「戦争」という言葉の意味も、
置かれている立場によって大きく変わる。

その複雑さを、軽く扱いたくない。
 一水会の投稿(2月28日)

緊急声明

…前略…

我が国は、米国に従属しながらも、中東諸国とは自主外交を構築してきた。
例えば、2015年にパレスチナ政府代表からの「国連本部にパレスチナ国旗を掲揚してほしい」との要請に、イスラエルをはじめ米国や多くの欧州諸国が反対する中、日本は賛成に回った。
遡ってモサデク政権下のイランが自国の油田を国有化した1953年には、利権を持つ英国が軍事的恫喝を加える中、出光の石油タンカー「日章丸」がイランの石油を日本まで運び、以後、イランは比較的親日的になった。
(もっともその後、モサデク政権はCIAなどの謀略により転覆させられたが)
こうしてコツコツと築いてきたのが、貴重な対中東関係なのだ。

高市首相よ。
トランプ大統領の隣で喜色満面でピョンピョン飛び跳ね、自主的中東外交の孤塁を守った先人たちの顔に泥を塗ったりするなよ。
現在の自民党に後藤田正晴さんのような気骨のある方はおられるのか?

 アラファトPLO議長の約束

 昭和55年12月、木村俊夫元外相を団長として日本パレスチナ友好議員連盟の中東使節団がレバノン、シリアなどを訪れ、レバノンではアラファトPLO議長に訪日を要請する、という話を耳にした。
早速、木村さんを訪れ、使節団のメンバーに入れていただけるようお願いした。
 私は、先にいったようにエネルギー問題に強い関心があるが、しかし、中東問題に最初に興味を持ったのは、石油のことではなく、日本赤軍派の動静に強い関心があったからである。
 当時、赤軍派はハイジャック、爆弾、イスラエルのロッド空港乱射事件と、日本の警察も手を焼いていた。
その赤軍派の中心メンバーは、レバノンのパレスチナ・キャンプか軍事基地でPLO(パレスチナ解放機構)の一分派であるPFLP(パレスチナ解放人民戦線)に加わって訓練を受けており、使節団がアラファト議長に会うとなれば、私も一言いいたいことがあった。
(『政治とは何か』後藤田正晴 講談社 1988年)
 ところが、行くことが決まると、警察庁の現役の諸君はあまりいい感じを持たなかったらしい。
「どうして警察の親玉(警察庁長官のこと)をやった人が、国際ゲリラの親玉のアラファトに会いになんか行くのですか」という質問を受けたので、私は次のように答えた。
「それじゃあ聞くが、もう一度ああいうハイジャック事件、あるいは日本大使館の占拠事件が起きたら、君らはどうするんだい。打つべき手があるのかい。
 それとも、もう一度『人命は地球より重し』なんていって、殺人犯まで国外に逃がすつもりかね。
 今のままでは赤軍派の、日本の主権に対する重大な挑戦行為を防ぎようがないじゃないか。一体どうして防ぐんだい。もちろん、君らは準備はしているだろうが、確実に処理できる自信はないんじゃないの。
 そういうことを未然に防ぐ手だてを考えなければならないし、仮に起こったとして、最善の解決を目指して相手側と話し合わなければならなくなった時、今は、話合いができる人がいないではないか。たまたまPLO議長が日本に来るかもしれないということだから、その前にいうべきことをきっちりいって、事件を起こさないようにしてもらうのが先じゃないのか。おれには、そういう考えがあるんだ」
 レバノンに着くと、アラファトさんに会うまで四回くらい面会場所が変更になった。
テロを警戒した陽動作戦によって、面会場所が襲撃されるのを防ごうとしたのだろう。
私たちがやっとアラファトさんに会えたのは夜もかなり更けた頃であった。
私はかねて期していた通り、「私は議長に申し上げたいことがあります」と切り出して、次ぎようにいった。
「パレスチナ問題を解決しなければ、中東問題は解決しない。日本にとって中東は大変に重要な地域であり、われわれは、一刻も早くパレスチナ問題が解決するよう、できる限りのことをするつもりである。
 そこで、パレスチナと日本の友好を深めるために、ぜひアラファトさんを日本に招請したい。
 ただ、おたくのキャンプか基地で、日本赤軍が訓練を受け、彼らが日本を襲撃するというので、いくらアラファトさんが訪日されても、友好親善の実はあがらないと思う。
もちろん、日本赤軍があなたたちと一緒になって、イスラエルと戦うことについては、私は何もいう立場にはないが、日本に対する襲撃だけはやめさせてもらいたい」
  アラファトさんは、私の話を聞くと、キッとした表情になり「それはどういうことですか」といった。
いくつかのやりとりの後で彼は、「私はそんなモンスターではない」と間接的な表現で私の申し入れを断わった。
PLOの内部事情は複雑で、その一分派であるPFLPにそんなことを命令することはできない、という意味であろう。
 しかし、私は「いや、あなたはモンスターだ。ぜひ、日本に対する襲撃をやめさせていただきたい」と切り返した。
周囲に笑いが起こり、和やかな雰囲気のうちに会談は終わった。
この席で、アラファトさんは訪日を検討することを約束し、翌56年にそれが実現した。
 ところで、私は日本を出発する前に、パレスチナ解放機構のハミド駐日事務所長に何度も会い、「あなたのところの議長さんに会いにいく。ともかく、日本赤軍の日本に対する襲撃だけはやめさせるようにしてもらわないと困る」と申し入れていた。
 帰国してから、ハミドさんに現地での会議の模様を伝えたが、彼はアラファトさんが訪日する直前になって、打ち合わせのためにベイルートに発った。
 ハミドさんは、パレスチナ機構の幹部と十分に話し合ったらしい。
日本に戻ると次のような回答をしてきた。
「打ち合わせの結果をあなたにだけお伝えする。日本赤軍は日本を相手にハイジャックその他の敵対行為をやりません。そのことはお約束します」
 私はこのことを木村さんには伝えたが、いずれにしても、その後、日本赤軍による過激な行動が起きていないのはまことに結構なことだと思っている。
(『政治とは何か』後藤田正晴 講談社 1988年)
 「日本赤軍 日航機ハイジャック」(NHKアーカイブス 1977年)

「異論を言う勇気を持て」―後藤田正晴さんの歴史観と憲法観〟(栗原猛 日本記者クラブ 2017年4月)

後藤田正晴 両親を失った寂しさをバネに 権力の怖さを知る 行政改革に辣腕」(向学新聞 国際留学生協会)

後藤田さんが印象に残っている外国訪問は、今回、紹介した昭和52年12月のアラファトPLO議長との会談。
そして同じ年の10月に中国で鄧小平に出会った時だと書かれています。
今回のことがあったので、前後が逆になりました。
中国訪問については、後日、転記したいと思います。
今朝の父の一枚です(^^)/

4章 庶民も楽しんだグルメ社会の誕生
 砂糖の普及が菓子の世界を広げた 
京都が中心だった初期の菓子文化


 日本の菓子の歴史には、つねに海外との関係が重要な役割を果たしている。
古くは中国から伝わった唐菓子(からくだもの)をはじめ、鎌倉時代に禅僧が伝えた点心(てんしん)、16世紀なかば以降にヨーロッパの宣教師などが伝えた南蛮(なんばん)菓子などである。
 とくに南蛮菓子は、それまで飴(あめ)や甘葛(あまずら)をおもな甘味料としていた菓子類に、砂糖をかなり使うという点で画期的なものだった。
このなかには、カステラ、ボーロ、カルメラ、金平糖(こんぺいとう)、ビスカウト(ビスケット)など、現代にも伝わる菓子がある。
 菓子を発展させた要因のひとつは、京都を中心に広まった茶の湯の存在だった。
その京都では、茶の湯の菓子に加え、さまざまな菓子がつくられていた。
寛永(かんえい)15年(1638)に成立した松江重頼(まつえしげより)の俳書『毛吹草(けふきぐさ)』の「山城(やましろ)・畿内」の名物から京都の菓子類をあげると、冷泉(れいぜい)通りの南蛮菓子・六条の煎餅(せんべい)・醒井(さめがい)の分餅(わけもち)・七条の編笠団子(あみがさだんご)など種類が豊富だ。
嗜好品(しこうひん)である菓子は、経済力と文化の高い地域で発達する傾向にあることがわかる。
 また、寛永20年刊の料理書『料理物語(りょうりものがたり)』にも「菓子の部」が設けられており、玉子素麺(たまごそうめん)・葛餅(くずもち)・蕨餅(わらびもち)・雪餅・粽(ちまき)・笹餅などが記載されている。
 17世紀後半になると、和菓子は味覚だけでなく、視覚や触覚にも訴える洗練された意匠が考案されたり、古典文学や歴史をふまえたネーミングもなされるようになる。
京都で生れた京菓子は、白砂糖を使った上等な菓子あるいは献上用の菓子であることから、上菓子(じょうがし)という言葉も生まれた。

 …つづく…

(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)