次第に冷たい風が吹くようになり
夕方、買い物に出かけると本降りの雨になりました。
昨日、高校のクラス会のラインに
長野県在住の同級生から
「近くで子熊らしく村役場から一斉連絡有り」
と、書き込みがありました。
山に登っていた頃は、クマと出会わないように鈴を鳴らしながら歩いていました。
当時は、山のなかだけだったのに、近頃は、町中でも出てきています。
猛暑で、ドングリなど木の実が不作だったことも影響しているのかな?
「クマ出没情報(10月24日)」(長野NHK)朝ドラ「ばけばけ」第4週「フタリ、クラス、シマスカ?」 (16)
祖父の松野勘右衛門が
「金は作った。
跡継ぎを連れ戻してまいれ。
猪(い)の目に懸けて 必ずじゃ。」
とトキを送り出しました。
初めこの「猪の目」が???となったのですが
調べると松江の藩印である猪目紋なんですね
「猪(いのしし)のように後へ退かない心意気を表して」いるそうです。
(「松江歴史館NEWS 第4号 2023年・春」6/8)スイッチインタビュー「瀧内公美×青山俊董EP2」92歳尼僧に俳優人生を問う
母と同じ昭和8年生まれの青山俊菫(しゅんどう)さんの言葉
美しき人の問題だけどホイットマンかな…
「女あり、二人ゆく、
若きは麗し、
老いたるは
なお麗し」
ウォルト・ホイットマン
「老化」の「化(か)」の字を「化(ばけ)」の字にしないで
上に くさかんむり つけて
「花」の「老花(ろうか)」にしましょうって言ってるんですけどね。
中国の西暦500年ぐらいの頃に出た人で慧思(えし)という方がいる。
この人の「選べ 選べ 選べ 選べ」という言葉がある
番組を見てのつぶやきをもう一つ
SONGS「森山直太朗▽原点のフォークソングを大特集!」
懐かしい映像がでてきました。
その中で高田渡の姿が映っていました。
高田渡が京都で暮らした時期のことを本の中に書いています。
コーヒーブルース
事務所を辞めた僕は、アルバイトを転々として日銭を稼いだ。
本屋の店番、漬物屋の店員、自動車の台数計測(乗用車が何台通るのかを、カウンターをカチカチ押して数える仕事)など、いろいろな仕事をした。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)
 そのころの僕は京都の山科の日の岡というところに住んでいた。SONGS「森山直太朗▽原点のフォークソングを大特集!」
懐かしい映像がでてきました。
その中で高田渡の姿が映っていました。
高田渡が京都で暮らした時期のことを本の中に書いています。
コーヒーブルース
事務所を辞めた僕は、アルバイトを転々として日銭を稼いだ。
本屋の店番、漬物屋の店員、自動車の台数計測(乗用車が何台通るのかを、カウンターをカチカチ押して数える仕事)など、いろいろな仕事をした。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)
事務所にいたときと比べると入ってくる金は格段に少なくなったが、酒はまだ飲んでいなかったし、下宿のようなアパートでの気楽なひとり住まいだったので、生活費はあまりかからなかった。
部屋にあったものといえば電気ポットが一個だけ。
それで湯を沸かしてラーメンばかり食べていた。 音楽活動は一時休止状態だったが、関西のミュージシャンとの交流は続いていて、中川五郎や中川イサト、松田幸一、シバ、岩井宏、加川良らがよく僕の部屋に遊びにきた。
部屋にやってくる彼らの服が、冬になると例外なく分厚くなったのは、暖房器具も布団もなかったからだ。
しばらくしてようやく炬燵布団が買え、みんなでそこの脚を突っ込んで夜を明かしたりもした。
それでも京都での生活は楽しかった。
たとえば、なにがしかのバイト代が入ると、そのお金がなくなるまでうだうだして過ごした。 昼ごろにもぞもぞと起き出し、まず三条河原町の喫茶店〝六旺社〟に行って起き抜けのコーヒーを一杯飲み、本屋や洋服屋を冷やかしたと〝さくら食堂〟で飯を食い(その当時、さくら食堂は学生向きの安くてまずい飯を出していた)、三条堺町の〝イノダ〟に行ってまたコーヒーを飲んだ。
コーヒー一杯がたしか九十円ぐらいの時代であった。 夕方になると、よく中川五郎と待ち合わせて、〝マップ〟という喫茶店や〝進々堂〟という茶店に寄り、〝十字屋〟でレコードを漁り、同志社大学の学食で夕食を食い、その帰りに喫茶店〝わびすけ〟に顔を出し、そして最後にまた六旺社でコーヒーを飲んだ。
ひとり部屋に帰れば帰ったで、ぼそぼそ詩を書いたりレコードを聞いたり本を読んだりして、明るくなったころにようやく眠りについた。 当時、中川五郎は同志社大学の学生だったが、学校に行かず僕といっしょに街のなかをウロウロと歩き回っていた。
とりわけふたりともコーヒーに目がなく、ひどいときは一日に十軒くらいの喫茶店をハシゴして歩いた。
そんな毎日のなかでできたのが『コーヒーブルース』という曲だ。
三条へいかなくちゃ
  三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね
……後略……
(三枚目のアルバム『ごあいさつ』に収録)
今、振り返ってみても、のんびりしていてほんとうにいい時代だったなあと思う。 僕が事務所を抜けて間もない時分、『ばとこいあ』というミニコミ誌の発行に携わることになった。
「ばとこいあ」とは、「合言葉(あいことば)」を逆さから読んでつけた名前である。
このミニコミ誌の中心的人物が、有馬敲さんと中山容さんという英米文学の先生だった。
このとき中山さんは京都の女子短大で教鞭をとっていたが、その前は東京の都立高校で教えていたことから、僕は以前から存じ上げていた。
 あるとき、詩人の集まりのようなものがあって僕も呼ばれていってみると、そこには中山容さんもいて、久しぶりに再会を果たした。……後略……
(三枚目のアルバム『ごあいさつ』に収録)
今、振り返ってみても、のんびりしていてほんとうにいい時代だったなあと思う。 僕が事務所を抜けて間もない時分、『ばとこいあ』というミニコミ誌の発行に携わることになった。
「ばとこいあ」とは、「合言葉(あいことば)」を逆さから読んでつけた名前である。
このミニコミ誌の中心的人物が、有馬敲さんと中山容さんという英米文学の先生だった。
このとき中山さんは京都の女子短大で教鞭をとっていたが、その前は東京の都立高校で教えていたことから、僕は以前から存じ上げていた。
これが縁で「ミニコミ誌でもつくらないか」という話になり、『ばとこいあ』が刊行されることになったのである。
当時、大阪には片桐ユズルさんがつくっていた、息の長いミニコミ誌があった。
それは音楽をテーマにしたもので、片桐さんが自分でつくった歌や外国の歌詞の訳などが掲載されていた。
しかし、僕たちが目指したのはまったく違うものだった。
音楽の話題は1ページだけにとどめ、あとはすべて日常の話題――たとえば「精進カレーのつくり方」といったような記事――を軸に構成することにした。
また、無料配布とすると、読まずに捨てられてしまうので、頒価は五十円に決めた。 このようにしてミニコミを出す傍らで、京都の小さなお寺を借りて「ばとこいあコンサート」なるイベントを何度か開催した。
コンサートには僕や中川五郎のほか、遠藤賢司、「マヨネーズ」「愚(ぐう<中川イサト、松田幸一、瀬尾一三、金延幸子>)」などユニークかつ力あるグループも出演してくれた。
間もなくして、僕はこのイベントに参加していたスタッフの女性に恋心を抱くようになり、彼女に対する口には出せない想いを詩に書きためて一冊の詩集をつくった。
『個人的理由』と題したその詩集を、自費出版として三百部刷り、一冊を彼女に手渡した。
1971(昭和46)年、僕は2年間におよぶ京都の生活に終止符を打って上京した。
そのときはひとりではなく、彼女もいっしょだった。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)
京都暮らしは、高田渡20歳の時です。高田渡の三枚目のアルバム『ごあいさつ』にははっぴいえんども参加しています。
武蔵野タンポポ団と中津川フォーク・ジャンボリー
…前略…
レコードの制作には、はっぴいえんどの面々(大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆)や加川良、岩井宏、中川イサト、木田高介ら、URC以来の仲間が参加してくれた。
湯村輝彦の「YOUR SWEET 100% STUDIOS」によるジャケットデザインも、フォークソングのレコードらしからぬポップなデザインに仕上がって評判を呼んだ。
自分で言うのもなんだが、考えてみたら、なかなか贅沢なつくりのアルバムなのだ。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年) 話はちょっと横にそれるが、そのころから、はっぴいえんどは独特なスタンスを持っているバンドだった。
彼らの初めてのアルバムがURCから出たときに、「このバンドはいい」と僕は断言した。
のちに大瀧詠一がこう言ったものだった。
「いいと言ってくれたのは高田さんがいちばん最初だった」 メンバーのなかで現代詩が好きだったのが松本隆だ。
読みすぎと思えるほどたくさん読んでいた。
どちらかというと彼は詩を分析したがるほうで、僕とはよく詩の話をしたものだ。
他のメンバーも、みんな個性的でおもしろかった。
僕と彼らとでは、音楽的にはまったく違うのだが、どこか通じるところがあるように感じていた。
だから『ごあいさつ』のレコーディングに参加してくれたときも、なんの違和感もなかった。
『ごあいさつ』は、1971(昭和46)年6月にキングレコードから発売された。
そしてその2年後には、ベルウッドレコードの作品として再発売された。
…後略…
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)今朝の父の一枚です(^^)/
池にはカモたちが増えてきました。
「八幡神の使いがハトである理由」つづき
この伝説に似た話はほかにもいくつかあり、こうした起源・由緒がある宇佐神宮(宇佐八幡宮ともいう)は八幡信仰発祥の地であり、全国に四万六百社余(宇佐神宮公式サイトに拠る)もある八幡宮・八幡神社の総本社とされています。
ちなみに、全国の神社のうち最も数が多いのがこの八幡宮・八幡神社です。
大神比義(おおがひぎ)の伝説からは、八幡大神が姿を変えていた童(三歳児とされる)や鍛冶の翁、金色の鷹のいずれもがその化身や使いとされてもおかしくないと思われますが、最後がハトだったため、それ以来長くハトがその役割を担っているということなのです。
いずれにせよ、八幡宮・八幡神社に祀られている八幡大神は、ハトに姿を変えて現れたとい伝説があり、そのことからハトは八幡神の使いと見なされるようになりました。
人々は実際のハトの姿を通して神の存在やご加護を感じ、崇めるようになっていったのです。
…つづく…
(『鳥たちが彩る日本史 武将・文人と交わる8種類の鳥』大橋弘一 山と渓谷社 2025年)














